「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年09月29日

彼女の気持ちから、「勝てるという希望」の消えた日。

とりあえず、少しだけいいニュースから。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070929-00000042-mai-int
<ミャンマー>ネットへのアクセス可能に 軍事政権が切断か
9月29日13時20分配信 毎日新聞

 ロイター通信によると29日朝、ミャンマー国内で前日から不通となったインターネットへのアクセスができるようになった。民主活動家らが国外に情報を流すのを防ぐため、軍事政権がケーブルを切断したとみられていた。

ガーディアン・ブログからたどった現地ブログのひとつを見ると、確かに29日付の更新がある。軍事政権は接続をシャットダウンしただけで、ケーブルの物理的破壊などは行なっていなかったようだ。(なお、このブログは「私の経験、私の見聞したこと、ラジオのニュース」といったことで状況を生々しく伝えてくれる。バグダードのRiverbendを思わせるブログだ。「ブログ民主主義」というものがあるとしたら、こういうことだと私は思っている。)

一方で、土曜日は当局が街路をほぼ完全に押さえていると報道されている。ガーディアンのDavid Jiménez in Rangoon(現地に記者が入っているEl Mundoの翻訳らしい)は、Rangoon is a city under siege. と書いている。

というところで、28日付のAP記事(日付はアメリカ基準かもしれない)。

Residents express despair as troops take back control in Myanmar
ビルマ、軍が統制を奪還、住民に絶望感
The Associated Press
Friday, September 28, 2007
http://www.iht.com/articles/ap/2007/09/29/asia/AS-GEN-Myanmar-Protests.php?page=1

ラングーン(ヤンゴン)発――土曜日、治安部隊が街路を制圧し、街路に出てきた数少ない抗議者が催涙ガスで蹴散らされ、また僧院を封鎖するなか、ビルマの軍政の終焉を求める抗議者たちは希望を失いつつある。

同国最大の2都市ラングーン(ヤンゴン)とマンダレーは、街路のほとんどすべての角に兵士か警官が配置され、町は静まりかえっている。ショッピングモールや食料品店、公共の公園は閉鎖されている。インターネットは接続できず、電話もつながったりつながらなかったりで、ただでさえオープンとはいえない国の住民たちの孤立はますます深いものになっている。

木曜日、当局が群集に発砲したことで鎮圧された大規模デモに参加したある若い女性は、「もう私たちに勝てるという希望が残されているとは思えません」と語る。この女性はボーイフレンドとはぐれてしまったが、それ以来、彼は見つかっていないという。

「私たちに勇気をくれたのはお坊さんたちです」とこの女性は語る。僧侶たちはここ数日の抗議行動の屋台骨となってきた。そのほとんどが、現在では、出てこられない状態である。僧院の門は施錠され、僧院の敷地は有刺鉄線で囲まれ、兵士ががっちりと周囲を固めている。

記事は、このあと、今回の抗議行動の始まり(燃料費値上げ反対)から、僧侶の参加で抗議デモへの参加者が爆発的に増えたことを説明、水曜日に軍政当局がデモ鎮圧を開始し、10人が死亡したと報じられたこと、そして長井さんが射殺された木曜日にはデモ鎮圧がいっそう強硬なものになったことが説明されている。

そして:
その後も少人数のアクティヴィストや一般市民が街に出てきてはいる。治安部隊を冷やかしては細い路地に逃げ込むということをしている人たちの中には主婦や商店主もいる。

金曜日、治安部隊が空中に威嚇射撃を行ない、人々を棍棒で殴って、ひとつのデモを鎮圧するのを見ながら、ある住民が「また血の海か! また血の海にするのか!」と叫んだ。だが、デモ参加者は、報復されることを恐れ、記事では名前を出さないでほしいと言っていた。

しかし土曜日、ラングーンとマンダレーでは、外出する人もほとんどなく、雰囲気は重苦しい。

ビルマは天然資源が豊富であるが、5400万人の人口のうちの90パーセントが、1日に1ドル以下で生活している。このため、一部の人にとっては、人民の力による革命を成功させることができると想像することすら難しい、という状態だ。

記事ではこのあと、国連による飢餓問題解決策が阻害されるとの懸念のことが具体的に説明されている。当局が国内の一部地域で食料の移動を禁止していると、国連の世界食糧計画のトップが声明で述べたそうだ。

そして:
血まみれになった抗議者たちや逃げていく群衆の写真によって世界の注目が高まり、各国政府はビルマの軍事政権に暴力を停止するよう強く要請している。

一方で、日本語では、産経新聞が「ミャンマー流血 動けぬASEAN、インドも沈黙」として、ASEAN議長国シンガポールのリー・シェンロン首相が「沈黙を続け、関与を避けるというわけにはいかない」との声明を出したものの、「加盟国であるミャンマーに対し何か実効的な措置を打ち出せるかとなると話は別だ」と分析している。また、「『世界最大の民主主義国家』を自負するインド」も、大流血の惨事が発生する前の26日の段階で、外務大臣が「ミャンマー情勢を注視している。平和裏に問題が解決することを希望する」ということを述べただけで、「軍政に何らかの働きかけを行った形跡はない」と報じている。そして、この背景には、1988年の民主化運動のときとはいろいろ変わっていることがある、と指摘している(大人の事情がいろいろある)。なお、インドのバックは、どちらかといえば、中国ではなくアメリカやイギリスだ。

インドや中国については、AP記事の最後の方でも解説がある。

こういった複雑な情勢から、英語圏のブログなどのコメント欄では、「資源の豊かな弱小国の悲劇」を予想する記述もいくつか見られる。例えばイラク戦争との比較までもある。(だが、ここでもまた、War is not the answer! であることは言うまでもない。)

AP記事はこのあと、国連の特使としてイブラヒム・ガンバリ氏がビルマに派遣される、ということが説明されている。特使は、民主化要求派との対話について当局を説得する任を帯びているが、特使のスケジュールは軍政側が決めており、アウンサンスーチーさんやNLDの人たちとの面会はできないのではないかと西側の外交筋は指摘している、とのこと。また、米国が「すべての文明国」はビルマ軍政に弾圧をやめるよう強く要請すべきとしているとかいうことも。

AP記事によると、NLDのWin Mya Myaさんが当局に拘束されたとのこと(家族の証言)。

さらに希望を失わせるような話だが、軍事政権が強硬な弾圧について非難されるのはこれがはじめてではなく、よって今回も国際的非難は無視されるのではないかということも書かれている。

さらに希望を失わせるのはこの記述。
Although the crackdown raised fears of a repeat of a 1988 democracy uprising that saw an estimated 3,000 protesters slain, the junta appeared relatively restrained so far.

死者数は1988年のときのようにものすごい数ではなく、軍政側もそんなにぐわっとやってるわけじゃないって? 乱射ではなく狙って撃っているのだって? ははは。(2004年11月のファルージャ総攻撃でもそういう話を聞いたよ。「一般市民は総攻撃開始前に脱出させている」とね。だが戦闘年齢の男は全員脱出を許されず、夫なしで放り出されてもどうにもできないから街に戻った女や子どももいた。それに正式に「総攻撃」の作戦を開始する前から、「予備的作戦」として米軍はファルージャという都市を攻撃していた。しかも長々と予告編をやってる間に本命のザルカウィは逃げてしまっていた。)

実際、軍政側でも民主化要求・抗議運動の側と話をした人がいて、第33部隊(マンダレーで僧侶のデモを許可した)と第99部隊の間で戦闘があったという報告もある(→ガーディアン・ブログの28日まとめ@10am)。

AP記事はこのあと、夜間にラングーンには追加で軍が到着し、ますます軍政の統制が強められた、というアジアの外交官(取り決めにより匿名での取材)を紹介し、モチベーションを高めるために最大の役割を果たした僧侶が僧院に閉じ込められていることで、抗議運動には大きなダメージとなっている、ということを説明し、ネット接続が断たれていること、外国のジャーナリストはほとんどビルマ国内で活動できていないこと、報道の自由は厳しく制限されていること、人々がBBCやVoAやRadio Free Asia(をっと)を聞くために短波ラジオを求めて行列を作っていることなどが断片的にただ連ねられて記述されている。

(報道は、あえてわかりやすく説明すれば「北朝鮮の報道」の状態。現地ブログのどれかで見たのだが、木曜日の流血の日でも、軍政のお偉いさんがどこそこの工場を視察したとか、どこそこで記念植樹があったとか、そういうどうでもいい話を延々とやった挙句、ほんの少しだけ「暴徒鎮圧」が報じられたのだそうだ。)

AP記事の最後:
The government has put the official death toll from this week's violence at 10, but diplomats and British Prime Minister Gordon Brown said many more may have died, citing unconfirmed witness reports.

軍政は、今週の暴力事態での死者数は10だとしている。しかし外交筋や英国のブラウン首相は、確証の取れていない目撃証言を引いて、死者数はもっと多い可能性があると指摘している。

死者数についてはインディペンデント記事:
http://news.independent.co.uk/world/asia/article3010196.ece

テレグラフの記事のほうが読みやすいかも。
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2007/09/28/nosplit/wburma1028.xml

オーストラリア大使が「当局発表の10人の数倍」と述べ、NLDがある病院関係者が「30体の遺体が運び込まれた」と証言していると述べていることなど。

※この記事は

2007年09月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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