kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年09月20日

「反体制派」と、ブログと、他の誰かの政治的思惑

イランの「反体制派」と説明される人には、シャー・パーレビのご子息以外にもいろいろな人がいる。今回はそういう「反体制派」のごく一部について。




2003年2月、テヘランで一人の男性が自宅前で平服の男たちに拉致された。「平服の男たち」は実はイラン情報省の職員、つまり秘密警察だった。

男性はジャーナリスト。「イスラム共和国」の政治システムと指導者を強く批判する記事を書いた直後の「逮捕」だった。男性の妻ら家族は当局(おそらく普通の警察とか)から「その名前の人物は一人も投獄されていない」と言われたが、実際には彼は政治犯を収容することで知られるEvin刑務所に入れられていた。彼は獄中で抗議のハンストを行なった。

男性は、5日後に身柄を解放され、そのまま入院した。わずか数日での身柄解放の背景には、もし彼は心臓が悪いため、獄中で心臓発作などを起こして死亡した場合に当局が責任を負うことになるからだ、との指摘もあった。
http://www.iran-press-service.com/articles_2003/Feb-2003/sazegara_freed_23203.htm

この男性は同じ年の6月にも逮捕された。このときは息子も一緒に逮捕された。息子は1ヶ月足らずで釈放されたが、彼自身の拘留は114日に及んだ。このときも彼は獄中で抗議のハンストを行なった。

男性は短期間に2度も逮捕・投獄されたあとイランを出国し、治療目的で英国に渡った。そしてそのまま、米国のシンクタンクに職を得て渡米した。その後彼は、イエール大学の国際・地域研究センターを経て、現在はハーヴァード大学でリサーチャーとして仕事をしている。

男性の名はモフセン・サゼガラ(Mohsen Sazegara)。イラン革命(1979年)前に米国に留学していたときに、キャンパスで反王制運動のリーダーとして活動し、革命時にホメイニ師と同じ飛行機でイランに戻り、「イラン・イスラム共和国」の創成期に2つの大きな仕事を成し遂げた人物である――ひとつは(今話題の)革命防衛隊の創設、もうひとつはイラン国営ラジオの運営。つまり、「イラン・イスラム共和国」の「かたち」を作るのに大きな貢献をした人物だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mohsen_Sazegara
http://www.sazegara.net/english/archives/2007/02/iran_former_revolutionary_talk.html

それだけではなく彼は革命政府で副大臣などの要職を歴任している。つまり、「シャーの時代とは違う生まれ変わった国家」としての「イラン・イスラム共和国」を、体制の内部で担ってきた人物のひとりである。

しかしイラン・イラク戦争(1980〜88年)で――この戦争は、究極的には、米英の操り人形だったサダム・フセインが、米英の戦争を代行したようなものであるが――、彼は「イラン・イスラム共和国」に幻滅するようになった。戦争が終わり、ホメイニ師が死去(1989年)すると、彼は政府の仕事を断って学問に専念するようになった。

そしてイランの大学で歴史学を修め、1996年にロンドン大学で宗教指導者とイスラム革命について博士論文を書き上げた。1997年、イランでは「改革派」のハタミが大統領に選ばれ、サゼガラは強硬派が政権を握っていたときに閉鎖された「改革派」の新聞社をいくつも復活させた。

そして世紀が変わるころ、彼は「イラン・イスラム共和国」の憲法を変えなければ「改革」は達成されないとの大々的キャンペーンを立ち上げた。改憲を問うレファレンダム(国民投票)を求める、というこのキャンペーンはイラン国内で大きなうねりを起こした。特に学生の間での盛り上がりは大きかった。彼自身の大統領選立候補は当局によって阻まれたが、彼の声はかなり大きかった。

モーセン・サゼガラ本人は2003年に秘密警察に連行されるという経験をしたあとでイラン国外に脱出してしまったが(逮捕されたのは全部で4回だそうだが)、「本当の改革」を求めた人たちによる運動は続いた。

2004年だったかな、こういう「改革派」(改憲派)の学生たちとハタミ大統領が直接討論するという機会があって、そのときの写真と記事をどこかで見たのだが(たぶんBBCだと思うが、Yahoo USとかだったかもしれないし、イラニアンのブログだったかも)、すごく熱い「討論」になっていたことが伝わってきた。とにもかくにも政教分離をすることが出発点だ、という「変革」への気概と熱意。

当時すでにイラクはめちゃくちゃな状態になっていて(といってもその「めちゃくちゃ」は「米軍が襲撃される」といった、現在米民主党支持者が重視しているような「めちゃくちゃ」ではなく公式には「めちゃくちゃ」と認識されてすらいなかったのだが)、「次はイランか、北朝鮮か」などとさえ囁かれていた。でもイランの人々の熱意を見ていると、そのまま「改革」の方に進んでいくんじゃないかなー、なんて呑気なことを私はモニタのこちら側で思っていた。

甘かった。

2005年、大統領選挙では、いろいろな意味でトンデモなポピュリスト(<選挙直後にイラニアンによるこういう説明をネットで見かけて、私はそれに完全に納得している)のアフマディネジャドが当選した。1回目の投票では20パーセント弱しか得票のなかったアフマディネジャドだが、選挙前はかなり有力視されていた「改革派」の候補を置き去りにして決戦投票に駒を進め(「改革派」の候補が複数立って票が割れたことも一因だ)、89年から97年に大統領をつとめていたラフサンジャニとの一騎打ちになり、最終的には6割以上の票を得て勝利した(「ラフサンジャニだったら新しい人のほうがいい」という選択もあったのかもしれない)。このことを、「2002年のフランス大統領選挙でシラクとルペンの決選投票で、ルペンが勝ったようなもの」と説明している文章も読んだことがある(と思ったらen.wikipediaにもそういう感じのことが書いてある)。たぶんそういうことなんだろうと、私も理解している。

アフマディネジャド政権になる前、つまり「改革派」のハタミ政権のときでさえ、モフセン・サゼガラのような人が秘密警察に連行され、改革派の新聞がつぶされ、ジャーナリストが逮捕され、ブロガーまでもが逮捕され、というニュースはよく飛び込んできた。

当時、最も頻繁に取り上げられていたのがアクバル・ガンジのケース(後述)だが、ガンジ以外の事例について、どっかのフォーラムか何かで「誰それが逮捕されてハンストをしている」とか、「いや、あいつはほんとに真剣に『改革』運動をしているわけではない」とか、私にはまったくわからない世界が展開されていて、基礎的な知識もないくせに下手に首を突っ込んではいけない領域があるということを知らされつつ、「とりあえずアクバル・ガンジは本物、要チェック」ってことだけを頭の片隅に置いておく、みたいになった。

アクバル・ガンジは1960年生まれ。10代終わりの一番熱いころに「革命」を経験し、革命防衛隊の一員だったこともあるが、やがて「イラン・イスラム共和国」に幻滅し、ジャーナリストとなる。2000年、ドイツで「イラン議会選で改革派が大勝利した今、イランはどうなるか」というテーマの会議に出たあと、「反革命的」会議に出たとして逮捕され、2006年3月に釈放されるまでずっと政治犯としてエヴィン刑務所(政治犯専用の刑務所)に入れられていた。2005年にはハンストを行ない、このままでは死んでしまうとの恐れが真剣に出た取り沙汰されたほどだった。

アクバル・ガンジの言葉を、ブログ『壊れる前に・・・』さんより:
http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_5526.html
ガンジさんは、APとのインタビューで、「イランの体制は望ましいものではないが、それは私たち自身の問題だ」と語り、国外の権力によるいかなる介入も、国内の反体制派がそれらと結託して政権転覆を企んでいるという疑惑の目をもたらし、反体制派弾圧の口実を与えることになると警告している。軍事的な介入によって隣国イラクの政権が転覆されたこともイランの民主勢力にはよい効果を与えなかったと言う。

石油産出国は、課税によって国を支える必要がない、つまり「国民を必要としていない」ので、政権は国民に対して説明責任を果たす必要がない。そのことが民主主義が根付くことの障害になっている、ともガンジさんは述べている。

この人はこの言葉の通り、釈放後の2006年7月に訪米した際も、ホワイトハウスとの接触を頑として断った

で、最近はイランのブログはどうかというと、今年4月のテクノラティ記事では「ペルシャ語のブログの数が増えて、ペルシャ語が世界の諸言語のトップ10に入った」と報告されているが(あと、大統領も2006年にブログを始めたそうだが)、私がときどき読んでいたイラン内部からの英語ブログのいくつかは、2005年の夏とか秋を最後に更新が途絶えていたりもする。私はペルシャ語は読めないが、ペルシャ語ブログでは保守派と改革派の間でいろいろあったりするとも耳にしている(ネットでは日本でもアメリカでもイギリスでもいろいろありはしますが、イランの場合はネットの中だけに終わってないし、ほんとにシャレにならない)。

現在もまだ、学生ブロガーが大勢投獄されている。
http://jp.globalvoicesonline.org/2007/08/12/25/



というわけで、モフゼン・サゼガラさんのインタビュー記事(AFPによる)の内容を参考資料的に。

このインタビュー記事は、少し前のもので、単に記事の書き方として現在の情勢にはたぶんぴったりとは合っていないと思うし、記事の内容としては、個人的には「それはどうかな」という部分がいろいろあったりするのだけれども、「シャーのご子息(世が世なら国王)」のご意見の次は、「革命政府の当事者」のご意見、ということで。

なお、レバノンのアル・ハヤト紙記事@10 Sep 2007によると、サゼガラ氏はアメリカの政治家に近しい(close to American politicians)のだそうです。

で、BBCで過去記事を探してみて見つかった2006年5月の記事を読むと、基本的にアメリカって「東京ローズ」なことが好きなのかなあと思いつつ(VoAで公費でイラン向けにペルシャ語のバラエティ番組を作って変革への気持ちを高めるよう促そうとしている、のだとか……西〜南アジアをあれだけ荒らした後でこれってのは、何かが根本的にズレているような気がする)、サゼガラ氏が米国の政治家に向けて言っている「イラクの失敗」とは、アハメド・チャラビ(亡命イラク人で、「大量破壊兵器」がどうのこうのの段階から米国が「顧問」みたいに頼りにした人物だが、実はとんでもない嘘つきだった)に頼ったことなのかな、と思ってみたり。で、このBBC記事でサゼガラ氏は、"Leave these affairs to the Iranian people" (イラン人に任せておけ)と言っているのだけれども、同時に、「イランの反体制派を強化することが重要」とも言い、つまりこれはイラン国内でCIAがcovert operationってことじゃないっすかー? というのはフォーサイスの読みすぎの私の妄想ですね。

August 24 2007
Iranian dissident warns of US actions against Iran
http://www.sazegara.net/english/archives/2007/08/iranian_dissident_warns_of_us.html

【記事の概略】
米国はイランの革命防衛隊を「テロ組織」に指定しようとしているが、そのようなことをしても多くを成し遂げることはできず、緊張を高めるだけである――革命防衛隊を設立した一人で、現在は反体制派として知られ、ハーヴァード大学でイラン特別研究員をつとめるモフセン・サゼガラ氏はこう指摘する。

彼はAFPの取材に対し、米国がそのように動けば、おそらくは、イラク、アフガニスタン、レバノンなど、米国政府がイランの革命防衛隊がテロ活動を行なっているとしている場所がいっそうの混乱に見舞われるであろうし、革命防衛隊をブラックリストに入れたところで、アフマディネジャド大統領の体制に変化が起きるとは思えない、と述べた。

「イランと米国の関係が、それでまた一歩、軍事的対決へと近づくでしょうし、状況はますます危険なものになる。なぜならば、革命防衛隊は、現在のイランの政治で最も有力な組織だからです」

52歳になるサゼガラ氏は、1979年の革命の後に政府要職を歴任し、同年の革命防衛隊の設立において重要な役割を果たした人物だ。

「革命防衛隊は、政党であり、同時に軍隊のようでもあり、治安組織でもあり、シークレットサービスでもあり、巨大な企業連合体でもあります」

イラン国内では、革命防衛隊はBassidjという民兵組織を配下に置き、弾圧を行なっているという。国外ではクドゥス(Quds)隊を通じて活動しているが、これは大統領の支配下にはない。

「イラクやレバノン、アフガニスタン、パレスチナなど世界各地で何かをしているのは、このクドゥス隊なのです。イランの外務省はもとより、大統領ですら革命防衛隊(のクドゥス隊)が外国で何をしているのかは把握していません。指導者に直接報告をするのです」と氏は説明する。「指導者」というのはハメネイ師のことだ。

氏の説明では、この集団が経済的に力をつけたのは1990年代のことだという。「当時いくつかの会社の経営を行なうようになりましたが、今は多くの人が革命防衛隊は100以上の会社を所有していると考えています。石油・ガスのエネルギー産業の仕事を請け負っています」

ハメネイ師のもとで、彼らは深く政治に関わるようになり、アハマディネジャドの台頭に重要な役割を果たした。【注:アハマディネジャドは土木工学の専門家で、地方の市長や知事として政界入りした。大統領になる前はテヘラン市長にまでなっていた。】

「閣僚や議員の多くが革命防衛隊に所属しています。イランの財界有力者の多くは革命防衛隊の出身です」

1989年に政治の世界から遠ざかったあと、改革派の出版物の編集者として4度の逮捕・投獄を経験しているサゼガラ氏は、それでも、イランにはまだプレッシャーを与える余地がある、と語る。

チェイニー副大統領ら政権のごく一部がイラン攻撃を口にしていることを指して「米国の狙いが何なのか、見極めは難しいところですが」としながら、氏は「これまでのところ、国連安保理決議が2件出されていますが、それほど強い決議ではない。現在の政権の主要な権力の源には行っていないのです。米国が単独でしていることの方がより強力です。銀行を封じ込めたことはイランの公営・私営の商業・産業にとって大きな問題を引き起こしています」

それでも氏は、「革命防衛隊をブラックリストに入れても、彼らの軌道修正は望めません」とし、「すべては交渉によって解決されなければなりません」と語る。「ただ、いかなる交渉においても自身の力を示すことは必要です。アメとムチを見せなければならない。本気だということも示さねばならない。そういうふうに臨まない限りは、イランを相手にするのは時間を使うだけで成果は望めません」

氏の話では、革命防衛隊は必ずしもアフマディネジャド大統領に満足しておらず、人権問題について国際的なプレッシャーがあればアフマディネジャド政権を揺さぶれる可能性はあるという。

「イラン人が国際社会に期待しているのは、イランの人々の民主主義と人権への闘争を支援するために、今の体制にプレッシャーを与えてくれることです。イランに制裁を加えれば、それがどのようなものでも、イランの人々にも問題が生じます。しかし、ヘルシンキ・プロセス【注:参考】のようなかたちで国際社会が進んでいくということが確信できれば、制裁とイランにおける人権と民主主義の問題との間のつながりが確立されるのならば、イランの人々は苦難に耐えることを覚悟しています」

記事のライティングの問題なのかな(はしょったところがものすごく多い、などの事情はありうる)、アフマディネジャドの政権基盤が革命防衛隊だと言い、革命防衛隊は大統領ではなく最高指導者直属だと言い、革命防衛隊が牛耳っているイランの政治は国民の意思で変えることができると言い、そのためには国際社会からのプレッシャーが望まれると言い……と断片化していて、実際のところ、私には話がよくわからない。うむー。というわけで、誤訳というか誤読しているかもしれません。

ともあれ、「イランの反体制派を支援する」ということには――その「反体制派」が誰であろうとも――こういうことも自ずから関わってくるのだ、ということは、「支援」を考えている人ははっきり認識していただきたいと思います。

この点について、在米イラニアン・ブロガーのNikiさんがズバリと書いている記事@2007年9月11日がいい例を挙げておられるので、これもここで紹介しておきましょう。
http://benevis-dige.blogspot.com/2007/09/despite-persistent-unequivocal.html
アナリストや在イランの活動家たちが、イラン国内の問題についての外部からの介入があれば、国内でこれまで積み上げてきたものを全部台無しにしてしまうとはっきりと述べているのに、イランについてぞっとするほど何も知らない「レジーム・チェンジ」絶対論者たち(ジョー・リーバーマンをはじめとする何人か)が「イランの民主化促進のための資金を復活させるためのリーバーマン修正案」を提出した。

イランの人々に希望を与えるために、国務省では――直接連邦政府からではなく、第三者機関を通してですが――学生グループ、女性グループ、その他各種市民グループなどを支援する活動をおこなっています[source]

【注:ははは、RFE/RLですか。。。どこまでも完璧】

名前もはっきりしていない「第三者機関」の好きにできる資金が数百万ドルとは。この「第三者機関」ってのが、資金のほとんどをネコババしてその残りを「交付対象者」にバラまいていたら、間違いなくひどいことになる。資金を受け取るのは誰か、どのように受け取るのか、そういうことは財政上もモラル上もしっかり説明できないとやばいんではないかと。

さらにいえば、こういうバラマキ行為をすれば、イランについて取り組んでいる人はみんな疑いの目で見られることになる。イラン国外でも国内でも。

例えば、Iranian.comに「英語からペルシャ語への翻訳者求む」というお知らせが出ていて、非暴力闘争についての本の翻訳の仕事を手伝ってほしいというのだけれども、どうだろう。ちょっと調べてみると、このプロジェクトのバックの組織はNon-Violence Internationalという組織で、パレスチナの活動家、Mubarak Awadさんが、占領に非暴力抵抗したことでイスラエルから追放された翌年の1989年に立ち上げたもの、ということがわかる。

Awadさんが(イスラエルに)占領されたパレスチナでどんなことをしてきたかを話すのを、私は何年も前に聞いたことがある。Awadさんはカリスマティックで友好的で、話もすごくおもしろかった。で、私は個人的にペルシャ語と英語の翻訳ということが大好きなのだけど、それでも、現在のあれこれを考えると、こういうプロジェクトすべてにうーんと思ってしまわざるを得ないというか。組織の立ち上げから17年も経ったこの段階で、Non-Violence Internationalがいきなり「ペルシャ語話者にも読んでもらいたい」と考え始めた理由が謎。それに全部で600ページ以上って、そんなでっかいプロジェクト、どうやって資金的にまかなうのかもわからない。

リーバーマンの民主化促進資金の件があったのだから、イラン関係のすべてのプロジェクトについて、こういうことは問われるだろうし、問われなければならない。諺にもあるよね、「地獄への道は善意で舗装されている」って。リーバーマンとかブラウンバックの意図は確実に、イランに対する攻撃の可能性を増すことにあるのだけれども、無知と同情の気持ちからああいう資金を受け取ってしまう人もいるかもしれない。それも、戦争へと突き進むことに加担してしまうのだということを知らずに(あるいはそれを知りたくなくて)。

Nikiのブログでは、9月11日の記事も読むと参考になる。投獄されたイラン人反体制派の女性の本の「共著者」のナラティヴについての指摘(デイリー・メイルみたいだな、このナラティヴは)。コメント欄(クリックで別窓)でMohammadさんが「アクバル・ガンジがハンストをやってたときは毎日ニュースになっていたのに、今ではどこも取り上げない」という例で、「人権運動への支援」のうさんくささを端的に語っている。それと、「自分たちの政治的アジェンダのためにイランの人権問題を利用する」ことについてもコメント欄で話がある。



予告:
アクバル・ガンジの講演
http://bostonreview.net/BR32.3/ganji.html
の抄訳をこのあとでします。でも予定は未定。
タグ:イラン

※この記事は

2007年09月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 09:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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