百年以上前に建てられた安普請のテラストハウスの玄関のドアの開け閉めに、いつものように苦労して中に入ると、キッチンのエリアから「お、帰ってきた」と声がした。「おーい、彼女は無事だぁ」と別の声が続いた。
ロンドン北部の安フラット。そこには私を含め、さまざまな国籍の人たちが滞在していた。彼らフラットメイトたちは基本的に過剰なほどに世話焼きでおせっかいであったが、私の帰りを気にするなどということはそれまでなかった。
キッチンのエリアに入った私が実際に「何ごと?」と言ったのか、それとも私がそういう表情をしていただけなのかはもう記憶していない。
「ボムだよ。シティセンターで大きな爆弾事件があった」とフラットメイトA。
「今日はシティセンターに出かけるって言ってたし、ひょっとして巻き込まれたんじゃないかと」とフラットメイトB。
「ボム? どこで?」と私。
「知らなかったの? トッテナム・コート・ロードだよ」とフラットメイトA。「大騒ぎだったでしょ」
「センターポイントってあるでしょ、オクスフォード・ストリートの角の。あの高層ビル」とフラットメイトB。
「マジで?」と私。「今日はあのあたりに行ったわけではないし……、そういえばバスが迂回してた。でも、バスの迂回も『いつものごとく』だし、またボム・スケアかって、あまり気にしてなかった」
私があまりに何も把握していないので、キッチンのエリアにいた何人かのフラットメイトも「とりあえず、無事でよかった」と言って、それぞれのやりかけの作業――料理とか洗濯とか――に戻った。たぶん、呆れられたことだろう。日本人って呑気なんだな、と。
彼らの出身国は、多かれ少なかれ、「政治的暴力」を経験している。実は日本もそうなのだが(私が子どものころはお惣菜屋さんの店頭にも「爆弾犯人」の手配ポスターが貼られていた)、私は「政治的暴力」を直接のものとして経験したことはなく、まるで無知だった。でも彼らの何人かは、そういうときにどうすべきかをよく知っていたのだろう。テレビのないフラットで携帯電話のない時代に、ラジオか駅前の新聞のスタンドか、情報はすばやく把握していた。
ちなみにそのフラットのあったエリアは、英領時代のキプロスからの移民が多いエリアで、ギリシア語の看板を出したパン屋の向かいがトルコ語の看板を出したパン屋で、並びにシーク教徒の酒屋があり、はす向かいにヒンズー教徒のテイクアウェイがあったりした。(『治安がよい地域』ではなかったが、民族対立は特になかった。一度銃撃事件はあったけど政治的背景ではなかったみたい。)
センターポイントというのは都心の一等地の高層オフィスビルだけど、当時は権利争いか何かがあって空きビルになっていた。でも、テレビのないこのフラットでここまで大騒ぎになっているとは、よほどのことだったのだろう。まあ、あれがやられたとなれば誰だってびびる。
フラットメイトたちが私の身を案じるというほどの規模だと伝えられていたらしいこの「爆弾テロ事件」、当初は被害状況もはっきりわかっておらず、単に「センターポイントでボム、被害」という情報だけがあり、「誰か死んだかもしれない」という懸念があったのは確実だが、結局、飛び散ったガラスの破片で怪我をした人がいたかいなかったかという程度だった。このため、「被害のほとんどない」事件としてほとんど記録されてもいない。
ロンドン滞在の長いフラットメイトがあれだけ騒ぐほどの事件だったのだから、東京でも報道されているかもしれないし、心配しているといけないから東京の家族に電話でもしておくか、と思って電話をしてみても、うちのおかんは「そんなことがあったの。こっち(東京)では何も言ってないよ。で、あんた大丈夫なの」という調子で、「大丈夫だから電話してるんですってば」と答えつつ、「私は無事ですから心配しないでください」という電話で逆に心配させてしまうというのも間の抜けた話だ、と思った。
もちろんそれは、IRAの犯行だった。ビショップスゲートとかハロッズとか、いろいろと派手な破壊を行なってきたIRAが、センターポイントの1階のガラスを吹き飛ばしたのだった。目的は不明だ。当時は「俺たちはここにいる」型の、本気で破壊をしようとはしていない「爆弾テロ」が連続していた。
同じ年の秋。
英国でしかライヴなど見られようもないバンドのライヴの日程をNMEでチェックして、その日私は、観光がてら、歴史ある都市、グロースターを訪れていた。グロースターは大聖堂のあるイングランド西部の都市だが観光地化されておらず、「ごく普通の古い都市」だ。長距離バス(コーチ)でロンドンを出発し、数時間かけて日も暮れかけたころにグロースターに到着し、コーチ・ステーションの近くの宿(Innという看板の出ている、いかにも「数百年続いている宿」で、1階はパブ、2階が客室)で寝場所を確保し、インフォメーション・センターで市街の地図を手に入れて、いつものごとく、ちょいとうろうろしますかね、とシティ・センターに向かった。
その日のライヴは、シティ・センターにあるパブで行なわれることになっていた。ライヴの前にその場所も把握しておかねば、とてくてくと歩いていくと、中心部の一帯が警察の非常線で封鎖され、人々が迂回路に誘導されている。パトカーに、蛍光レモンイエローの上っ張りを着た警官、そしてものものしい雰囲気。既に日は落ちて、周囲は藍色と、街灯のオレンジ色、それと警察関係の白い光に包まれていた。
「まさか」と私は思った。不十分な英語を駆使して把握した限りでは、そのエリアのどこかにボムを設置したという電話があって、警察が一帯を封鎖して調べているところだという。つまり「ボム・スケア」。ここまで来ても「ボム・スケア」。
「ボム・スケア bomb scare」とは、ロンドンに行って初めて知った表現だ。「爆弾を置いたという予告電話などがあったために、爆発物の所在を確認するため、そのエリアが封鎖されるなどする事態」のことで、ロンドンでは毎日のようにどこかであった。地下鉄駅がボム・スケアで封鎖、どこやらの橋でボム・スケアで交通マヒ、など。
しかし、経済的ターゲットも政治的ターゲットもなさそうな、こんな地方都市で?
しかも、よりによって、ライヴを見に来たその日に!
結局、この夜はそのエリア内は全員退避(evacuated)で、ライヴどころかパブの営業すらできないだろうということで、あとはスーパーマーケットに立ち寄ってパンとスープとサラダを買い、宿に戻って部屋の湯沸しでお湯を沸かし、食事を食べて、テレビを見て寝た。
結局、「爆弾」はあったのかなかったのか、そんなことももう忘れてしまった。あったのを当局が突き止めて爆発前に処理したのだったかもしれないし、結局は仕掛けてもいないのに警告電話だけして混乱させたのだったかもしれない。とりあえず爆発はなかったということだけは確実だ。だが、そのときはそんなことに特に関心はなく(いちいち関心を持っていたらロンドンに暮らしていけないほど、ロンドンではそれが多かった)、「見に行ったライヴが中止」という落胆すべき結果だけがすべてだった。IRAのせいで! 私は「アイルランドの英国からの解放の闘争」には無関係だ!
翌朝、グロースター大聖堂など見るべきところは見て回ったが、どうみても、IRAに狙われるような都市だとは思えなかった。今もまだ、なぜあの小都市がターゲットになったのか、わからない。人口だってそんなに多くない。
同じ年、数週間後、ロンドン。
北ロンドンのZone 5の住宅街に、当時の友人の家族が住んでいた。その住宅街の最寄り駅付近はちょっとした規模の商店街になっていて、大きなスーパーマーケットもあった。東京の中央線沿線の駅前(三鷹とか、阿佐ヶ谷とか)という雰囲気の街だ。
そのスーパーマーケットの前のゴミ箱が、突然爆発した。誰かが怪我をしたという。
私は友人に電話で確認した。友人本人やご家族や知り合いは無事だった。
この事件でも犯行声明が出た。IRAだった。
おかあちゃんたちがキャベツやらパンやらを買いに行くような場所に爆発物なんか仕掛けて、何をしたいのだろう。
「アイルランドの統一」? 「英国の支配の打倒」? それと「スーパーの前のゴミ箱に爆発物」とどう関係が? 第一、そのスーパーに買い物に来ている人の中にはアイリッシュも少なくないだろうに(アイリッシュの人たちが多いエリアだ)。
「それ」についてロンドンの友人・知人たちとちゃんと話をしたことはない。「それ」がとてもセンシティヴな問題だということは私は認識していた。友人・知人たちの中で英国籍を持っていた人たちは見事に全員が「反保守党」だったし、一連の事態は「かつての植民地支配のせいだ」と認識はしていて、その上で「連中のやっていることは筋が通っていない」と認識していた。そして、それでもしかし、「アイリッシュだから連中の仲間だろう」として誰かを指弾するというようなことはまったくなかった。だいたい誰がアイリッシュで誰がそうでないかなんて、顔ではわからない。名前でわかることもあるが、スコティッシュなのかアイリッシュなのかわからないケースも多い。
そういう「社会」で、「ボム・スケア」は、東京でいう「地震」や「集中豪雨」のようなものとして受け流されていた。実際に日常生活に影響はあるが、例えば約束の時間に遅れそうなときに「ボム・スケアで渋滞していてバスが動かなかった」とか、「ボム・スケアがあって地下鉄が止まった」という口実になるくらいのものだった。
誰も、それを直接とめることはできない。誰も、それをやめさせることはできない。それに対する戦いなど挑んでもしかたがない。とにかく政治的なアプローチが取られるべきである。こんなにこじれてしまったのも、政治の責任なのだし。
その後、私は東京に戻り、IRAのボム・スケアのことなどまったく聞かなくなった。東京に戻った瞬間に「あれは『イングランド名物』だから」というような存在になり、それについて感じることも実際に何か影響されることもなく、それについて考えるなどということはなくなった。
だからといって、「人々はあれのことは気にしていないのだから、あれはたいした問題ではない」などというつもりはなかった。単に、それに接する機会がなかった、だからそれについて考えなかった、それだけだ。
そうやって東京でうだうだしているうちに、英国では労働党が政権をとり、「北アイルランド和平」が動いた。1998年、グッドフライデー合意。
2000年、ふたたび渡英した私は、「ボム・スケアのないロンドン」というものはさぞかしスムーズに機能しているだろうなどと思っていたわけではないのだが、相変わらず地下鉄はわけのわからんところで停車する、駅はよくわからない理由で閉鎖されている、という中で、「あれ」があろうがなかろうが、あんまり変わらないのだなあとか思っていた。まあとりあえず、「ボム・スケア」が遅刻の言い訳になるということはなくなっているだろう。
そんなとき、リヴィングで大家さんと一緒にニュースを見ていると、「シン・フェインがごにょごにょしている」というトピックを報じていた。
当時私は北アイルランドについてほとんど何も知らなかったし、ジェリー・アダムズはほにゃららでほにゃほにゃな人だと認識していたから、IRAの武装解除をめぐって熱い駆け引きが展開されているというそのニュースを聞きながら、つい、Too tricky! とつぶやいてしまった。大家さんは大受けしていた。
それから5年で、IRAは武器を捨てて、7年後には「仇敵」同士が和気藹々のツーショットということになった。
北アイルランド和平が、ときどき頓挫しながらも、「政治」という軌道で進められていた2001年、Real IRAはロンドンでちょっと暴れていた。3月にBBC前で自動車爆弾、8月にはイーリングで自動車爆弾……。
ああ、これは「和平」を頓挫させるかもしれない、政治的な力を持っている人たちは誰も彼らをコントロールしていないしできない、そう思っていたとき、9月11日に米国であの事件が起きた。
そして「世界」は(「国際社会」は)、「テロとの戦い war on terror」を開始した。
「911」後、まだ自分の知り合いの安否も全員はわかっていなかったような段階で、あれよあれよと法的な道筋(国連安保理非難決議)がつけられたアフガン戦争については、正直、私はほとんど書けることがない――「かわいそう」とか「爆弾は解決法ではない」という感情論や一般論しかない。だからアフガンはこんなことになっていますというレポートに際しては、憤りと悲しみとをもってただ受け止めることしかしていない。よほど「書ける」ことがある場合には書いたりもしているが、基本的には、アフガニスタン攻撃については私は何も行動・発言をしていない。ただしそれは、私がアフガニスタン攻撃を肯定しているということは意味しない。それでも、外への意思表示としては、私はあの攻撃を肯定しているも同等である。沈黙は追認。
そしてその「アフガン戦争」が進行中だったときか、あるいは一段落した(カブール陥落)ときに、世の中の一部の人が「反米左翼」と呼んでいるのかもしれない英語圏のジャーナリストやメディアが、「イラク攻撃の可能性」を現実的に見るという作業を、公の場で開始していた。
そのとき、私が当時、自分の英語力の維持のために見ていたフォーラムで、名前も知らない誰かが、「今さら騒いでいるお前らって何? 俺はユーゴのときにあれだけ声をあげたよ。でも誰も聞かなかったじゃないか。国家の非道を放置できないから、別の国家が集まってその国家を爆撃するということは、正当化できることではない(not justified)と。でも誰も聞かなかった。俺はもう引退したからこの議論には加わらない。力も貸さない」という内容のことを書いていたのを見た。私は心底衝撃を受けた。本当の意味で、justifiedという言葉の重さを教えてくれたのはこの人だった。どこの誰だったのか、今も知らない。
私は、「イラク攻撃」を回避する方法があるなら何としても、ということで、「政治的な何か」には選挙以外ではかかわったことのない自分でも何かできることがあるはずだと考えるようになった。当時、とある英語圏の左派言論空間(著名ジャーナリスト、文筆家、思想家が多数参加)の文書を日本語化したドキュメントを「日本語版」としてまとめてあるポータルサイトがあったので、そこの活動に、できる範囲で参加することにした。右派の言論でもそういう形で翻訳できるものがあればと探したが、当時はそういうところはなかった(今はあるのかもしれないが、「ブログ」というツールが登場し浸透してからあとのweb 2.0な時代では状況が大幅に変わっているのでよくわからない)。
そのとき、私は、アメリカがどうするのであれ、イギリスが同調しなければ「戦争」にはならないだろうと思っていた。私は元々アメリカのことはあまりよく知らないし(全く知らないわけではないが机上の、また伝聞の範囲でしか知らない)、そもそもアメリカになど興味はないってなことをわざわざ言うというひねくれ者で(「英語」といえば「アメリカ」、私が何かすれば「アメリカナイズされた思い上がった女」という世間の扱い方に2本指、ということで)、アメリカのことなどわかるはずもなく、チョムスキーらアメリカの論客のことばには受け身の態度を取ることしかできなかったし、しなかった。しかし、イギリスについては多少は知っているのだから、無謀だが、イギリスのジャーナリストが書いていることなら、翻訳くらいはできるんじゃないか。日本はあまりにも情報が少なすぎる。そう思って、当時読んでいた英語圏ジャーナリストの記事を日本語化するという作業を始めたのだ。
その背後には、ただの感情というか、願いというものもあった。英国はここらへんで米国からの距離を取ってほしい、そうすれば「国際社会」の支持というものが無理になる可能性が高くなり、そうなればアメリカも爆弾は落とさない。そう信じていた。ブレアの言い草ではないが、「私は信じて」いたのだ。経済制裁とサダム・フセインの暴政で社会として弱りきっているかもしれないイラクになぜ「爆弾」が解決策として用いられうるのか、それがまったくわからなかった。
「英国、戦争反対のデモに○十万人」というニュースやら何やらで少し希望が見えたかと思ったこともあったのだが、結局は「政治」で――ウエストミンスターの議場の中で――、美しい理想に彩られたブレアの「信念」は、「正しいこと、すべきこと」として認められ(シン・フェインを「政党」として扱うことが「正しいこと」であったのと同様に)、英国は米国との距離をますます縮め、「イラク戦争」を開始する方向で話が固まった。フランス、ロシア、中国(安保理常任理事国)は国連安保理決議の採択を阻止したが、それでも米英は、彼らの「戦争」を開始した。
このことで、「国際社会の要請」とか何とかいうものがどこでどう確認されるのか、その大原則さえ、ぐだぐだにされてしまった。
開戦事由として一番の問題とされた「大量破壊兵器」だって、あるともないともわかっていない段階で、査察が打ち止めにされたのだ。イラクの大統領が強情を張っていたのだとしても、彼を説得する試みはもっと続けられるべきだと査察団のトップが考えていたのに、打ち止めにされたのだ。第一「国連の査察団」は事実上「ない」ということを証明するために送り込まれていて、それはほとんど不可能な証明ではないのか? 「ない」ことが証明できないから「ある」のだとは、無茶苦茶すぎる。「武器を持っているだろう」と決めてかかって、証明の作業を怠って、それでよいのか? 「法の支配」とは何なのか? そこに、英米のように「人道」を持ち出してきて、それによってjustifyされるようなことがあってよいのか? もう、「法」も論理もあったもんじゃない。
私は絶望した。「冷戦の終わり」に希望の光を見た者のひとりとして、これからは西側と東側で対立することがなくなるということは希望だと認識した者のひとりとして、あれがニセの光だったことを思い知らされて、絶望した。そして、ここに至るまで自分が何もしてこなかったことに絶望し、自分が何かしたからといって何かが動くわけではないということはわかっていたが、それでも、自分には止められなかったということで自分に絶望した。2003年3月20日、バグダードが爆撃されオレンジ色に光る光景をテレビの画面の中に見ながら、私は明確には泣くことも怒ることもできなかった。
バクダードなんて行ったこともないし見たこともない。あのひときわ大きな建物が何なのかさえ知らない。それはロンドンのセンターポイントほどにも私に馴染みがない。そのことにショックを受けながら、私は明確には泣くことも怒ることもできなかった。
国家元首が暴君であるからといって、なぜ都市がまるごと、こんな形で攻撃されねばならない? 国連決議すらないのに?
それは、自分の中では、「アイルランドを不当に支配してきた英国」へのIRAの理不尽な攻撃に対するのと、同様の疑問だった。ただその「攻撃」の規模は全然違っていた。
「戦争」? これが? ただの「攻撃」(とテレビ画面には映されない「反撃」)ではないか。それは日常語としての「戦争 war」ではありえても、国際法的な「戦争」なのか?
しかし「現実」はこうだった――彼らがこれを「戦争」と言うのだから、これは「戦争」なのだ。私は絶望した。
でも絶望などしている暇はなかった。次にどうすべきか。いち早く「支持する」と公式に述べた日本がこれにどう関わるか。そして、「国際社会」ではなく、戦争の当事国である「イラク」はどう考えているのか、それが知りたくなった。でもサダム・フセイン政権の言い分など信用できるはずもなく(コミカル・アリ!)、第一その政権はもう消えてしまう。
爆撃開始のしばらく前から、Salam PaxがBloggerを使ってバグダードからものを書いていた。これが世界的に話題になった。そして、サダム・フセイン政権が崩壊して「自由がもたらされた」後で、Salam Paxに続いたイラク人のブロガーが何人も出てきた。彼らは私のわかる言語、つまり英語で書いていた。そのことに私は感謝した。そして私はそれらを、時間と能力が許す限りで読んだ。バグダードからの、モスルからの言葉を前に、とにかく「知る」ことをしようと、そして、できればそれを日本語で「伝え」ようと。
やがて、私は、「イラク人のブロガー」たちに連絡を取った。「あなたのブログ、東京で読んでます。知らなかったことばかりで、ほんとうにためになっている。これからも続けてください。そしてできれば日本語翻訳を許可してください」という感じで。世代によっていろいろあったけど、立派な大人からは「日本製品はいかにすばらしいか、例えばSONY」という感じ、学生からは「ニンテンドーはすごいよね! 日本って超レスペクト!!」とかいう感じで返信があったりした。その中でRaedの家族とよく連絡をするようになり、気づいたら私はRaedのブログの翻訳を始めていた。
その中で、彼から「日本の関わり方」について、「どうか軍事的には加わらないでほしい」という内容のこと(<正確に、彼の言葉どおりではありません)を聞いた。彼は何度か、公開のブログでそれを書いた。私はそれを翻訳した。
別のイラク人ともその話題で話した。その人は彼とは違う立場で「イラクのことはイラク人がやるべきで、アメリカはこれ以上手を出すな」という明確な考えを抱いてはいなかったけれども、「ジャパニーズ・アーミー」の派遣については「復興を助けるためなら、建築や土木や医療の専門家のほうがアーミーより適しているのに」という話になった。私は、個人的には、建築や医療の専門家を送ってもらいたいと考えているとしか言えなかった。非常に無責任な、「個人的には」のフレーズ。そのあとには常に「しかし but」を続け、「現実的なこと」を私は言うのだ。この指でその「現実的なこと」を書くのだ。そんなこと、間違っていると知りながら。「私個人はそうは思わないし、私の友人たちもそうだ」といういいわけをしながら、「だから日本人のことを嫌いにならないでください、日本人を攻撃しないでください、民間人でも兵士でも、攻撃しないでください」と言うことの欺瞞。
「『イラク戦争』は間違っていない、『テロとの戦い』として必要なことだったのだ」と「信じる」ことができていたら、同じことを言うのでも、どれだけ楽だっただろう。そんなありえないことまで思いつつ、私は英語で書かれた「イラク人の言葉」に接することを続けた。
ピルジャーとかの翻訳をしていたことのある私は、一部では「活動家」と思われていたかもしれないし、一部では「反米左翼」と呼ばれていたかもしれない。でもそんなことは気にしていられない、そんなことは「私」についての言葉ではなく、それを使うその人の認識についての言葉だ。そんな言葉でしか他が認識ができない人の言葉だ。そう思って、私という人物がRaedのブログを翻訳することで、彼が「(日本の)反米左翼」の「同類」と見なされるかもしれないというリスクを無視して、とにかくやった。やらなければ何も始まらない。「英語はわからないから」と涙目の人たちが少しは自分で読む気になるかもしれないと期待しつつ、彼らの言葉に接するにはどうしたらよいかということも書いた。中には、単発で、誰かの書いたものを翻訳してくれる人も現れた。私のやってきたことは別個に、翻訳という作業を行なっている人たちの存在も知った。
イラク人とて十人十色で、イラクのブロガーたちは彼のような考え方をしていた人たちばかりではなく、むしろ逆の考え方をしていた人たちもいて、そういう人たちの声を日本語にしないことで私には「語らない責任」が生じた。しかし私は日がな一日それをしていればOKという身分ではなく、どんなに一生懸命にやったって全てを紹介できるわけでもない。もし「どうしてRaedのは個別に取り上げて、○○のは取り上げないのか」と思う人がいたら、その人が私がやったように、○○のブログの翻訳を始めてくれるだろう、そう期待していた。
こうやって「読める」ものをひとつひとつ増やしていくこと、それが言語と言語の移し変えができる者が今すべきことだと思った。だからそれをした。
そうする中で、いろいろなことを考えたし、いろいろなことを調べた。(基本的には、調べる方が先、考える方が後。考えたものが妥当かどうか検証するために調べたこともある。)また、ブログを読んでくれた人から「そこはおかしい」と指摘をいただいたこともある。
そうやって私は、会ったこともない人の言葉を翻訳し、会ったこともない人から連絡をもらい、会ったこともなかった人と言葉だけで知り合って、会ったこともない人に読んでもらうための言葉を書き続けた。
日本人が書いたものを英語にする作業も行なった。(このことについては旧URLのころから私のブログを知っている人にはおわかりだろうが、他の人は知らないかもしれない。)「自衛隊が派遣される」ことについて、私のように、「国会で国会議員が話し合っていること」としてではなくもっと近いものとして接しておられる方の書いたものだった。
何のために?
決して「反米」のためではない(べちゃべちゃしたアメリカ英語を押し付けがましく「日本人が従うべき標準」として私の耳に吹き込んでこない限り、私は「アメリカ」という価値観にはほとんど関心はないのだ、基本的に)。「わが国の国益」のためでもない。かといって「わが国を損なう」ためでもない。(そんな二者択一は詭弁中の詭弁である。)
私は自分が人間として「これはひどい」と感じることをやめたくなかったし、「これはひどい」と思ったときにそう言える環境を保っておくには、つまりいわゆる「警察国家」のような世の中にしてしまわないためには、「これはひどい」と言い続けなければならないと思ってやっていた。そのことは当時の内輪の連絡メールとかですら書いていると思う。
現行の「国際秩序」もいかがなものかという面はいっぱいあるけれど、それを「もっと悪いもの」にすること、何か不穏な動きがあれば攻撃を仕掛け、個々人の自由をますます束縛し、ものが言えないようにしてしまうことについて賛成していないのなら、ここで声を上げなければならないのだと。沈黙は追認である、と。
コソヴォ空爆のとき、インターネットはあったけれど、私はダイヤルアップで電話代を気にしながらネットを利用していた。そして英語圏での議論にもほとんど関心を持っていなかった。事態そのものへの関心もほとんどなかったのだろう。そしてその結果、沈黙していた。
ピッチで「空爆反対」のメッセージが手書きされたアンダーシャツを観客に見せるピクシーの姿に「感動」して「泣いた」けれども、沈黙していた。
やろうと思えば声を上げることができたかもしれなかったのに、私はそれをしようとしなかった。そういうことができるとも思っていなかった。
個人の掲示板とかに書いてもしょうがないよね、と思っていた。その掲示板でそれを話題にしたときにどう思われるかがわからなかった。「左翼」ではないのにそういうレッテルを貼られることがいやだった。
今はそういうのはどうでもいいと思っているのだから、私も成長したんだろう。
だから私は書いている。それについて書いている。というか、正確には、「日本語で読めるものを、ほんの少し、増やしている」つもりでやっているのだが。
あのとき、あのフォーラムで怒りをぶちまけていた「コソヴォ空爆反対の運動をしていた人」のおかげで。
そして、私に少しだけ「テロ」というものを経験させてくれたIRAのおかげで。
以上、若干の、「何とか読めるもの」にするための編集のようなもの、つまり若干のフィクション化を加えて、しかし出来事はノンフィクション。でも意識していない記憶の改変はあるかもしれない。
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※この記事は
2007年09月11日
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1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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