「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年08月01日

「紛争」の終わり――オペレーション・バナー終了(2)

以下、写真と映像をとりあえず。

オペレーション・バナー終了の日のガーディアン、トップページ。
31july2007opbanner-guar.png

ガーディアンの写真特集:
The end of Operation Banner
http://www.guardian.co.uk/news/gallery/2007/jul/31/northernireland?picture=330305298

BBCのIn Picturesは多くがMoD写真だったけど(→参照)、ガーディアンは報道写真。全14点。

1点目は1969年8月14日、デリーのボグサイド(最初の派遣)。2点目が同年同月12日、バトル・オヴ・ボグサイドで警官にぶちのめされた人が運ばれていく様子(この「混乱」に警察が「対処」できず、英軍の派遣が要請された)、3点目は同年同月15日、人のいないボグサイドをパトロールする英軍車両。

4点目、1970年7月のベルファスト、フォールズ・ロード。5点目、1971年3月24日、ベルファスト。壁にはIRAのスローガンがたくさん。

6点目、1972年1月30日、デリー。逃げようとする男性の髪の毛をつかむ英軍兵士。この写真はたぶんこれまで見たことがない。7点目は1972年2月3日、ダブリンの英国大使館爆弾事件(ブラッディ・サンデーへの抗議/報復)。

8点目は強烈。1976年9月17日、フォールズ・ロード。住宅街で炎上する車と、それを見ながらおしゃべりしている女性たち(たぶんその家の主婦)。燃えるのを見ている子供の姿もある。

9点目、1979年1月31日、ロング・ケッシュでのダーティ・プロテスト(トイレのために房を出ると看守に暴行を受けるので、リパブリカンの囚人がトイレに行くことを拒否、排泄物を壁に塗りたくり、刑務所の衛生状態が最悪に)。

10点目、1987年ごろ。壁に書かれたシン・フェインのスローガン(Join Sinn Fein)と、「Dessie Ellisを死なせるな」というポスター(この人は、イングランドでの裁判に抵抗してハンストをしていたので、そのときのものかもしれない)、およびRUC, UFF, UVF, UDRは一体であるとするポスター(アルファベット・スープではなくクロスワード)。

11点目、1988年9月。場所は明示されていないが、ふつうに住宅街の小さな商店街みたいなところで、IRAと英軍との衝突のあとに燃えている車。

12点目、1996年7月13日、デリーでの「暴動鎮圧」で英軍によって殺されたDermot McShane (a former member of the IRSP and the INLA) の葬儀。彼は軍用車両に轢き殺された。この事件では欧州人権法廷が2002年に英国が十分に調査を行なっていないことについて、英国に有罪との判断を示している

13点目は1996年10月10日、リスバーンの英軍への攻撃。炎上する何か(車かな)とひどく損傷を受けた家屋、マットレスで運び出されてくる人。平服の人と軍服の人、医療用具のトランク。

14点目は2000年8月22日、ベルファストのシャンキル・ロード。UFF(つまりUDA)とUVFとの抗争で銃弾が撃ちこまれた163番地(タクシー会社)を警備する英兵。

BBC Worldのレポート(2分45秒):
http://www.youtube.com/watch?v=jsAaYpe91z4
レポーターはデニス・マレー。サウス・アーマー(たぶんボーダー地帯)での最後のフット・パトロールの映像に続き、1969年8月の最初の派兵のときの歓迎ぶりの映像(おかあさんたちがお茶などを勝手に持ってくる)、カトリックに対する治安当局の暴力の映像、1971年インターンメント導入時のベルテレさん紙面、1972年1月30日のブラディ・サンデー、IRAとの銃撃戦、(たぶん)爆弾で破壊された軍用車両の映像と資料が続き、1980年に派兵されたカーネル・ウェイン・ハーバーのインタビュー、レポーターの説明が入り、1994年の停戦のときの様子(ピースラインの横を、アイリッシュ・トリコロールをはためかせた車がパレード)、ブレア政権下のnormalisationでの1998年の監視塔撤去作業(IRA停戦と引き換え)の映像。最後にNIに残っていたスコットランドのブラックウォッチのイアン・ヒューストンさんのインタビュー、オペレーション・バナー終了にともなって閉鎖されるヘリポートの様子(部屋がすでに使われていない)。

BBC Northern IrelandのNewsline、映像:
http://www.bbc.co.uk/northernireland/bbcnewsline/investigates/operation_banner.shtml

現時点では次のものが上がっている。要RealPlayer。

- Vincent Kearneyのオペレーション終了時のレポート(→記事としては昨日取り上げたもの
http://youtube.com/watch?v=MimgUPG9rEc にも。

- 1970年のフォールズ・ロード一斉捜索(the Falls Road curfew)が報道陣に公開されたときのraw footage(未編集資料映像)
http://youtube.com/watch?v=cnzYPGW60f0 にも。歴史的資料としてたいへん貴重なもの。撮影は装甲車か何かの上から行なわれている(目線としてはダブルデッカーの2階席)。このとき、Falls Roadでは「誰も家から出てはならない」「ドアから出たら撃つ」ということになっていて、街路には英軍兵士しかいない。何人か、ドアから外をのぞいたり、窓から外の様子を不安そうにうかがったりしている人がいる。

- 1972年7月末にベルファストとデリーのno-go areaを英軍が強行突破したオペレーション・モーターマンから35周年のVincent Kearneyのレポート
http://youtube.com/watch?v=_6AEt_RHc4w にも。Free Derryのゲーブルの前でのレポート。オペレーション・モーターマンの初公開映像(英軍資料、機密)とインタビュー(エイモン・マッキャン含む)。何かすごいものがさらっと公開されてますけど、という感じ。元兵士のJack Dawさん(上のオペレーション・バナー終了のレポートでも出ている)の証言とか、超貴重。

- モーターマンのときに弟が英軍に射殺されたMargaret Hegartyへのインタビュー(この事件では誰も裁かれていない)
http://youtube.com/watch?v=-OFu71x4aMQ にも。YouTubeののほうが音声が聞きやすい。例によって「彼は武装していたのでわれわれにとって脅威であり射殺」と軍が説明し、実際にはまるで丸腰だった、というケース。

- Tommy McKearney (元IRAハンガーストライカー)、Malachi O'Doherty(ジャーナリスト)、Peter Taylor(ジャーナリスト)と振り返るオペレーション・モーターマン(NIで生放送されたものらしい)
※大まかには、ピーター・テイラーが「軍は勝利はしなかったが、政治的プロセスを動かすために非常に重要な役割を果たした」との見解、マラヒ・ドハーティとトミー・マックカーニーが「軍は問題の一部であった」との見解。なおかつ「軍は教訓を学んだか」については「結局はバスラでも同じことをしている。一般人の間に軍を入れるときに、必ずそこには問題が生じる。一部の軍人が規律を無視する」といった話。

- 北アイルランド派兵を経験した英軍人へのインタビュー
※最初の1分だけ見て、イラクの米軍のインタビューで「始終襲われるのではないかと安心していられる時間がない」とか「ブッシュ政権のおかげで任期がずるずる延びている」とかいったことが語られているのと同じだと思ったんで、最後まで見てません。

※この記事は

2007年08月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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