「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2007年07月31日

「紛争」の終わり――オペレーション・バナー終了

As the historian Brian Feeney puts it: "The guys who came here in 1969 had all fought in Aden and they brought particular attitudes with them - including banners warning rioters they'd be shot which were in Arabic. But they also brought ideas about 'sorting out the natives' which you couldn't have in the UK."

Very quickly, the mission subtly elided from 'keeping the two communities apart' to 'fighting the IRA'.

歴史家のブライアン・フィーニーはこう説明する。「1969年にここに来た兵士たちはみな、(現在はイエメンの)アデンで戦ったことがある者たちで、独特の態度を持ち込んできた。暴徒に「撃つぞ」と警告する旗も持ち込んできた。アラビア語で書かれた旗だ。それだけではない。『原住民を何とかする』という考えまで持ち込んできた。英国内ではありえない考え方だったが。」

急速に、そしてほとんど気づかれぬほどひっそりと、英軍の任務は「2つのコミュニティを引き離しておく」というものから、「IRAと戦う」というものに変容していった。

--- No fanfare for Operation Banner
By Kevin Connolly
Last Updated: Tuesday, 31 July 2007, 01:38 GMT 02:38 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6923421.stm

2007年7月31日いっぱいで、北アイルランドでの英軍の作戦、Operation Banner(オペレーション・バナー)が完全に終了する。8月1日からは、北アイルランドの英軍基地は現地での作戦のためではなく、スコットランドやウェールズの基地と同様の、訓練を目的とする施設となる。1994年のIRAとUDA, UVFなどリパブリカン、ロイヤリスト両派の停戦から2005年夏のIRAの活動停止、2007年春の自治政府の再起動を経て、「紛争」の終わりがまたひとつ、公式に形になる。

オペレーション・バナーが始まったのは1969年8月。デリーのボグサイド(→関連する過去記事)が「カトリック」と「プロテスタント」の衝突のホットスポットとなり、「プロテスタント」が政治を独占していた北アイルランドの警察(警察も「プロテスタント」が独占)ではどうすることもできなくなり、当時の北アイルランド「自治」政府がロンドンに英軍の出動を要請した。つまり「警察のサポート」が目的だった。

当初は「プロテスタント」と「カトリック」の間に立つ中立の存在として「カトリック」のおばあちゃんやおかあちゃんたちからお茶やお菓子をふるまわれるほど歓迎された英軍は、(ブライアン・フィーニーの言葉を借りれば)「原住民」たちを「鎮圧すべき者たち」とみなして行動し、「カトリック」の人たちから、「プロテスタント側」として敵視されるようになった。

そしてちょうどそのころ、IRAからProvisionals(暫定派)が分派した。Provisional IRAは英軍を「標的」とした。

仲裁のために入ったはずの英軍は、こうして「紛争」の当事者となった。それから約38年、30万人以上の兵士を送り込んだ英軍の「最も長い作戦」で、763人の兵士がゲリラ戦で殺された

って、BBCのこの記事には「英軍側の被害」しか出てないのね。CainのSuttonデータベースでCrosstabでStatus Summary、Organisation Summaryで見ると、英軍側の加害は:
British Security(カッコ内はBritish Army):
Civilian 190 (151)
British Security 13 (9)
Republican Paramilitary 145 (125)
Loyalist Paramilitary 14 (11)
Irish Security 0 (0)
TOTAL 362 (296)


BBCのin pictures:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_pictures/6921955.stm
10点の写真のうち、7点がMoDの資料。1点目は「苦難のときにある住民に歓迎される英軍」の写真で、用途・目的はプロパガンダであったにせよ、このようにおばちゃんたちに笑顔で迎えられたのは事実だ。2点目は農家の捜索の様子のようだが、キャプションがなかったら1920年の写真だと思い込んでしまいそうだ(陸軍のセーターは、白黒写真でテクスチャがつぶれていると、ブラック&タンズの黒い上着のように見える)。3点目は貧しい住宅街の街路に等間隔で立つ英軍兵士たち。キャプションに場所が書かれていないが、ベルファストのFalls Roadかデリーだろう。4点目は市街地の行進。5点目はFalls Roadでの暴動(有名な写真)。6点目からカラーで、これは爆発物処理。7点目はドラムクリーのオレンジマーチ。8点目はサウス・アーマーの上空、ヘリから下を向いている物騒な物体。9点目は、IRAの活動停止後に解体されているサウス・アーマーの監視塔。10点目はサウス・アーマーの基地で撤退のためのパッキングをした兵士たち。

英軍の監視塔は今年の2月にすべて撤去され:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6355885.stm
「IRAの拠点」だったサウス・アーマーのクロスマグレン村からは今年の3月に撤退が完了し:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6512703.stm
アーマーのべスブルックからも6月に全員が撤退している:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6235514.stm

BBCには、作戦に従事した英軍の人たちの回想・感想を織り込んで、オペレーション・バナーについてまとめた記事がある。

Social posting 'turns to chaos'
By Vincent Kearney
NI Home affairs correspondent
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6923699.stm

元英軍の人たちの回想を含む部分(記事前半)の大まかな内容:
1969年8月、北アイルランドに最初に派遣された数千人の英軍兵士たちにとって、その後の展開はまったく予想もしていなかったものだった。

1969年8月15日、ベルファストのFalls Roadで部隊を率いて到着したLt Colonel Mike Jelfは、「クリスマスには任務終了で家に戻れると思っていました」と回想する。彼の部隊はカウンティ・ダウンのホリウッドのパレス・バラックス【訳注:ここは「北アイルランド紛争」で象徴的な英軍施設のひとつ。拷問実験が行なわれたりいろいろ】に駐屯していた。「いい任地でした。釣りや狩猟もできて、社交活動が目的のような」

しかし1969年8月にすべてが一変した。デリーのボグサイドで3日間にわたる暴動が発生し、北アイルランドの警察ではまったく手に負えなくなっていた。ベルファストでもまた宗派間の衝突で数千人の住民が避難を余儀なくされていた。

8月14日、英軍がボグサイドに入り、翌日にはベルファストにも入った。Mike Jelfは最初に派遣された部隊の一員であった。彼の部隊は、ベルファスト西部、ロイヤリストのシャンキル・ロードとナショナリストのフォールズ・ロードを結ぶパーシー・ストリートを進んでいった。「戦地というものは、あのときに初めて経験しました。目の前の光景が信じられなかった。家々は破壊されて瓦礫の山と化し、そこらでは車が放火されて燃えている。いたるところで物が燃えるにおいがしていて、あれは決して忘れられません」

「われわれの姿を見て、カトリックの人たちは喜んでいました。すぐにお茶と食事を持ってきてくれました。それはもうたっぷりと出してくれて、本当に満腹でもう食べられないというほどでした」

しかし蜜月は長くは続かず、すぐに多くのナショナリストが英陸軍を「敵」として見なすようになった。

多くの人にとって、転回点となったのは1970年7月だ。英軍は住民に外出禁止を申し渡し、カトリックの住民の家々を捜索したのである。この事態は後にthe Falls Road curfewと呼ばれるようになった。

そのわずか1年前、Lt Colonel Jack Dawは、Mike Jelfとともに、フォールズ・ロードで住民の歓待を受けたが、1970年には様子はまるで違っていた。「態度ががらっと変わっていました。すべての家屋、路地、排水溝を捜索せよとの命令を受けていましたし、大量の武器が発見され、われわれは非常にアグレッシヴになっていました。カトリックの人たちがわれわれの存在を望んでいないことは明白でした。お茶を出してくれるなどということはもうありえない。われわれは敵でした」

そして1971年8月、インターンメント(一斉拘留)が実施されるようになり、英軍に対する「敵」視はますます強まった。3000人の英軍兵士が、テロ容疑者とされた人々をつぎつぎと拘束し、カトリック300人以上が逮捕された。その多くはテロ活動とは無縁だった。一方でロイヤリストの身柄拘束は行なわれなかった。【訳注:BBCにはNo loyalists were detained. とありますが、インターンメント終了までには何人か、申し訳程度に、ロイヤリストも身柄拘束されているはずです。】

そして1972年1月30日、デリーでの「血の日曜日」事件。ナショナリストの間でまだかすかに残っていた英軍への好感情は、英軍兵士が民間人14人を射殺したこのとき、遂に消え去った。【訳注:Bloody Sundayでのその場での死者数は13名。この事件が元でさらに1名が死亡、死者数の合計14名。】


the Falls Road curfewについては、堀越智、『北アイルランド紛争の歴史』(論創社、1996年)の巻末に付録として収録されている「デリー通信」に、次のような一節がある。「デリー通信」は、1983年にコイルさんというデリーのカトリックの男性から堀越さんへ宛てられた手紙で、コイルさんはこのとき72歳である。
……非カトリック地域のシャンキル通りではじめて警官とイギリス兵に射殺された時のことです。武器の捜索にイギリス軍がその地域に入ると思うでしょう。ところが、彼らはカトリック地域のラワー・フォールス通りに向かったのです。その地域全体を取り囲んで、住民全部を貧民窟の中に閉じ込めてしまいました。それは三日間続き、誰一人、家から出ることが許されませんでした。この間に四人が射たれて死にました。これらは報道陣の眼の前で起ったことでした。そこにはパリからの記者もいました。誰に射たれたのか確かめる前に、イギリスはテレビで、私たちが射ったのだと発表しました。(pp. 270-271)

こういった点について、「作戦に従事」した英軍兵士がちゃんと説明をしてくれているような記事は、残念なことに、BBCなどでは見つからない。銃弾はシャンキルで発射されたのに、近くとはいえ同一ではないフォールズに向かったのはなぜなのか。それを説明できるのは、このエントリ冒頭に引用したブライアン・フィーニーの解説、つまり「アデン流に原住民を鎮圧するのがデフォルトだった」ということなのかもしれない。

最後に、この記事から数字的なものを:
「紛争」で任務に就いた英グ兵指数は30万人を超える。英軍の763人【注:BBC記事ではアラビア数字ではなくスペルアウトされている】が死亡し、英軍は301人を殺した。その301人のうちの半数以上が民間人だった。

「紛争」が最も激しかった1972年には、北アイルランド各地の街路に27,000人の英軍兵士がいた。2003年のイラク侵攻での兵力が26,000人である。また現在、イラクとアフガニスタンに駐留している英軍兵士は合計で12,400人である。

オペレーション・バナーの終結で、北アイルランド駐屯の英軍は5,000人となる。

北アイルランドの面積は14,139平方キロ、日本でいうと岩手県の15,278平方キロより小さい。

以上、とりあえずBBCだけ。オペレーション・バナーについてはもっと見るべき資料があるのだが、その件については改めて。



文中で言及した書籍:
4846000354北アイルランド紛争の歴史
堀越 智
論創社 1996-08

by G-Tools


※この記事は

2007年07月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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