kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年07月01日

トニー・ブレアに同情を。

どうもトニー・ブレアは、かわいそうに、その「業績」を正しく評価してもらえていないようだ。同情を禁じえない。

アメリカにDavid Gratzerというお医者さんがいて、医療費の公的負担に強く反対する立場でウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)でオピニオン記事を書いているのだそうだ。そのGratzerさんがつい最近、マイケル・ムーアの新作映画Sickoをdisる記事でこんなことを書いている、とガーディアンのAndrew Clark記者の6月29日記事にある。(ガーディアン記事にWSJへのリンクがあるが、WSJに登録していないと読めない。)
Gratzer points out that even Britain's "socialist" Labour party is introducing market forces into the NHS.

今が2000年だったらこれでも別にいいんだけど(それでも多少は時代がかった記述であると受け取られたであろうが)、残念なことに、今は2007年である。「モダナイザー」のトニー・ブレアが1994年に党首になってから13年、彼が「モダナイズ」しつつあった(つまり「社会主義」の色を極限まで消そうとしていた)労働党が総選挙でバカ勝ちして彼が英国首相になってから10年経過している。すなわち、英労働党はソーシャリストであるという前提は、もはや歴史的文書の中でしか現実ではない。しかるに、WSJで論説記事を書いている人の脳内では今なおそれが現実なのだ。ソ連製のタイムマシンでも仕込んでるんだろうか。

WSJに書いてるお医者さん、およびその言説を鵜呑みにして「社会主義の労働党ですら、医療を民間に開放して市場原理を導入しているのだよなあ」とうなづいちゃう人は、とりあえず、ウィキペディアでも読んどいたほうがいい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Labour_Party_(UK)#New_Labour

しかし、いまだに「社会主義者」対「われわれ」という二項対立が前提というのも、「雀百まで踊り忘れず」ですな。冷戦終結で社会主義は敗れ去ったんでしょうに。そのうちに「スターリン」対「われわれ」が出てきそうな勢いを感じさせる。

そんな仮想敵を相手に脳内冷戦を続けるより、「英労働党はソーシャリズムを捨てた」という(主に党内左派および離党した左派による)批判の中心部分を「現実」として認識したほうが生産的だと思うが。

ま、米国では「英国の現実」はどうでもいいのだろう。「労働党」に「ソーシャリスト」というレッテルを貼り付けておくことのほうが、現実を現実として認識し、それを前提に話をするより、単に話をする上で勝手がよいんだろう。(都合がよい、というんではなく、勝手がよい。)

トニー・ブレアがどう評価されようがされまいが別にどうでもいいのだけれど、「労働党はソーシャリスト」を前提とし、「ソーシャリストの労働党ですら市場原理を受け入れている」ことを「現実」として「市場のダイナミズムはやっぱりすごい」という結論を導くような、昔のことを昔のことと認識しないことによって立った(偽の)「現実主義」的な態度というものが、別の分野にも適用されうる万能の雛形みたいになりかねないことを思うと、心底げんなりだ。



2007年の英労働党について「ソーシャリストの労働党が市場原理を云々」という「誤った前提」で思い出したのが、プリンセス・サアヤの結婚についての英国でのトンデモ記事の話だ。

そのトンデモ記事は、デイリー・テレグラフの東京特派員をしているコリン・ジョイスさんの著書、『「ニッポン社会」入門』のp.170に紹介されている。ジョイスさんの著書では、その具体例を紹介する前、p.169に次のような一節がある。
 イギリス人は日本が変わりつつあるという報道を好むようだ。日本の若者は年長の世代(少なくとも、グレーのスーツを着た堅物のサラリーマンとその従順な妻という、イギリス人が日本の年長世代について持っているイメージ)とは違うという記事を読みたがる。ロンドンのデスクが、日本の女性たちが自己主張をし始め、束縛から脱け出そうとしているという論調の記事をしばしば依頼してくるのはおそらくこのためだろう。 (p.169)

ジョイスさんいわく、こうしてロンドンの本社から、「女性記者」が日本に送られてくる。そして彼女は「すべてを自分の最初の思い込みを裏付けるものとして見てしまう」。

ジョイスさんの文に多少の文脈を補ってみよう。彼女は「私は民主的で解放され男女の区別などほとんどない社会から、封建的で閉鎖的で女性が差別されている社会にやってきた」というようなことを前提としており(それって東洋に対する偏見だよね、という話をアジア系米国人としたことがある)、その枠組ですべてを認識し、分析し、文章にする。

つまり、彼女が「日本では女性は男性に対してNOと言えない」と思い込んでいる場合、どんな些細なことであっても女性が男性にNOと言っている場面が「日本もずいぶん変わった」と映る。彼女が「変わる」前の日本をほんとに知ってるか知らないかは、彼女にとって問題にはならない。

それが「年長世代」の、グレーのスーツのサラリーマンとその配偶者であればまだ「ほんとのところを確認してみよう」という気になって女性に「あなたは昔からそういうふうに夫にNOと言っていたか」と質問するかもしれないが、それが「若者」であった場合は、「日本の女性は変わった。彼女はその前の世代とは異なり、堂々と自己主張することができる」といったように見える。まずいのは、そう認識している本人がそれを「ゆるぎのない事実」だと思い込んで記事を書いてしまい、その記事が多くの人に「事実を伝えるもの」として読まれる、ということだ。

プリンセス・サアヤの結婚についてのトンデモ記事は、ジョイスさんの本で、そういった「誤った前提を基にした誤った分析」とでも言うべき事例として紹介されている。実際にどういう記事が書かれたのかはジョイスさんの本のp.170をご参照いただきたいが、かいつまんで言うと、プリンセスは愛のために何不自由のない生活を捨てて皇室を出た、ということになっているそうだ。(日本の「プリンセス」、つまり「女性の皇族」が成人後どうすることになっているかについて何も知らん人が書いたんだね、というだけのことだが、「エドワード8世とシンプソン夫人との世紀の恋」のようなロマンチックな連想もあるのかもしれない。)

4140882034「ニッポン社会」入門―英国人記者の抱腹レポート
コリン ジョイス Colin Joyce 谷岡 健彦
日本放送出版協会 2006-12

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そういえば、90年ごろに渡英したときに、ある地方都市のパブで現地の男性(同世代)と「日本の女の子って英国に来たがるよね」という話をふられて、私は「音楽とかいろいろあるし」とその理由を説明した。しかしその男性はそれでは納得せず、「日本では女性は男性にNOといえないし、人として丁重に扱ってもらえないから、こっちでドア開けてお先にどうぞとかやられるのが嬉しいんだって聞いたよ」というようなことを言う。「ドア開けてお先にどうぞってやってもらいたいために、高い金出して飛行機に乗ってここまで来ると思うか」ってなもんだが、どう言おうとその男性の「思い込み」は、少なくともその場では解けない。なお、90年ごろといえば、職場での男女の賃金格差などはまだあったし(総合職と事務職で区別していないような小規模な会社では、同じ職務でも男性は「〜職」、女性は「〜職補助」みたいな位置づけで基本給が安いというのはあった)、「女の子」呼ばわりも当たり前だったが、男女雇用機会均等法もできていた時代である。「男性と対等に」働く(あるいは「働こうとする」)女性は決して珍しくなかった。そういう「事実」は、少なくとも、あのパブにいたあの男性には伝わっていなかったのだろう。

ひょっとしたら、トニー・ブレアやゴードン・ブラウンやピーター・マンデルソンやそのほか大勢が一生懸命作ってきた「ニュー・レイバー」は、「虐げられたかわいそうな人たち」であるはずの日本の女性が「自立」しているなんて信じられないというのと同じくらい、信じられない存在なのかもしれない――あの「社会主義者の政党」が、市場原理を取り入れるだなんて、とても現実とは信じられない、ってね。

でもそれが「現実」なのだよ、ワトソン君。それも10年前から。



追記:
はてブで知った「呉市振興委員会」さんの7月1日の記事に、UNDPのGender empowerment measure: Ratio of estimated female to male earned incomeが紹介されていたので、そのUNDPのページを見たところ、男性の収入を1とした場合の女性の収入は、日本は「0.44」、英国は「0.65」である。

こういう数値を見たときに、英国の人が「日本は女性の社会進出がまだまだ全然である」と考えたとしても、何も責められまい。ただしこの数値は、「同じ仕事をしているのに男性より女性の方が労働対価が低い」ということを意味するわけではない。「高い対価を得られる職に就くのは女性にとって難しい(いわゆるガラスの天井)」ということは読み取れるかもしれない。

なお、同じくUNDPのGender-related development indexで見ると(中身は、the human development index adjusted to account for inequalities between men and women)、日本は0.942、英国は0.938という結果になっている。(これは寿命とか識字率・教育といったことについても含めた男女格差についての統計。)

「日本と英国と、どちらが男女格差が少ないか」ということは、何を元にして考えるかでいろんな結論が出てきそうだが、コリン・ジョイスさんのご著書に批判的に例示されているような「日本女性は変わった」の言説は、そういった統計資料に基づくものではなく、「日本」についての思い込み(ステレオタイプ)を元にしている、という点に問題がある。「思い込み」というより「イメージ」だ。「日本って、女性が社会でばりばりやってるっていうイメージはないよね」で、その「イメージ」が覆されると、「事実」として「日本の若い世代は年長世代とは違う」と簡単に結論してしまい、「日本の若い世代」をみるときにそういうフィルタがかかる。

ただし事実として、日本では、(明治時代や戦前までさかのぼらずとも)ほんのふた昔前に「女に『本格的』な学問など」というのは多少はあったし、「いいお嫁さん」という将来像が誉められたりもしてきたのだが(「女の子はお勉強ができるよりお料理とお裁縫ができたほうがいいわよ」的なことは、私が子供のころはよく言われていたものだ)。いまだに「才女」なる言葉が一種の揶揄として出てくるしね(でも「才女」みたいなのは英語圏でもあると思うけどな・・・)。

※この記事は

2007年07月01日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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