日本語圏では特に「ひとつの時代の終わりを感じる」という言葉を多く見かけたが、今日終わった「時代」は、とっくの昔に終わっていた。今から10年前、2006年7月には既に、フィデル・カストロは第一線から退いていた。その2年ほど前の2004年11月には、ヤッサー・アラファトが急逝している。世界が「イラク戦争」で騒然とする中、「あの時代」は完全に終わっていたのだ。
2006年にフィデルが健康問題を理由に5歳年下の弟のラウルに指導者の座を預けたとき、それは「健康が回復するまでの一時的なこと」と言われていた。年齢を考えたときに、それを本当に信じた人がいたとは私には思えないが、信じた人もいただろう。それも多く。しかし、結局それっきりになった。そして2013年12月に他界したネルソン・マンデラの追悼式典の場に各国の指導者たちが参集したときに、ラウル・カストロは米大統領のバラク・オバマと握手を交わした。マンデラは、死んでなお、かつてのアパルトヘイト政権支持者たちによって「テロリスト」と罵倒されていた。米国の大統領がオバマでなかったら、米国のトップがマンデラの追悼式典に出席するなどということは起きていなかったかもしれないし、あの劇的な(劇場的な、と言ってもよい)「キューバの政治トップとの握手」も実現していなかっただろう。そしてフィデル・カストロ自身、その後進展した(そして本当に現実になった)米国とキューバの間の関係改善には、極めて批判的なことを述べている。
今日の訃報は、「こういうことを言う人が、いなくなった」ことを伝えるものだ。とっくに終わっていた時代が、本当に終わった。そういうことだ。
英語圏、特にキューバと時差がほとんどないアメリカのSNS上の報道機関のフィードや人々の反応は、下記に記録してある。英国は、時差があるので、第一報から数時間後にようやく活動時間帯に入っている。日本では土曜日の午後に入ってきたニュースだが、時間帯的に土曜の午前に初報があったアジア諸国も反応は早く、下記「まとめ」にはインドの大統領と首相、ネパールの首相、パキスタンのイムラン・カーン(元クリケット代表だが、現在はガチの政治家)の反応も含めてある。
【訃報】フィデル・カストロ死去
https://matome.naver.jp/odai/2148014723958692101
国境関係なく、人々が同じ訃報を話題にしている。英語では、こういうのを "The world remembers/reacts/mourns." と、主語を「世界」にして言う。しかしTwitter上の英語圏という「世界」には、キューバそのものから流れてくる言葉がない。戦乱の独裁国家シリアでさえ、内部からの発言が頻繁にSNSに投稿されるのに。
SNS上の英語圏に不在の国は、ほかにもいくらでもある。北朝鮮、ビルマ(ミャンマー)、ブータン、ウズベキスタン……ユーラシア大陸だけでもたくさん思いつく。英語圏のジャーナリストやNGOが現地から発言することはあるかもしれないが、その土地の人が直接、英語で(あるいは英語での検索でひっかかるような形で)SNSで何かを発言するということがほとんどない国。「Twitterが英語圏中心だから」っていうのとは、ちょっと違う。
それでも、少しは聞こえてくる。
#Cuba Faltan varias horas para el primer amanecer sin Fidel Castro que he vivido en mi vida... pic.twitter.com/AM7nXiWFBc
— Yoani Sánchez (@yoanisanchez) November 26, 2016
スペイン語のこのツイートは、ガーディアンがlive updatesで紹介している。文面は、英語にすると:
“Only a few hours left until the first dawn of my life without Fidel Castro.”
「フィデル・カストロのいない世界」は、確かに今、始まった。
「ああいうことを言う」人はいなくなった。「ああいうことをする」人もいなくなった。
そういった現実、そういった事実、そういった認識と、どうにも噛み合わない言葉の数々。
世界は一様ではないのだ。「A or B」ではなく、「A and B」なのだ。
だが、フィデル・カストロの訃報で湧き起こった言葉の数々の多くは、「A or B」の世界を描き出そうとしている。
こういうのを見てると、べったりと同じ色で塗られた面を連想する。マーク・ロスコの絵のように、絵筆のあととか微妙なトーンや厚み、マッスがあるわけではなく、Windowsの「ペイント」のバケツツールでただベターっと流し込んだ、その色以外塗られていないし重なりもないという面。世界をそういう薄く一様なものとして認識したい人たち、私たちにそういうものとして認識させたい人たち。
社交的な「お悔やみ」すら共有できない人々もいるが(亡命者の多くはそうだし、その感情を理解することはできる)、少なくともそれができる人たちは、個人の理想化、あるいは悪魔化という形で、薄っぺらく一様に塗られた世界に対する抵抗を、意識的にも無意識的にもしているのだろうし、していかねばならないと思う。
ぜんぶ、フィデルのせい、ではないのだから。
※この記事は
2016年11月26日
にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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