「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年11月26日

【訃報】フィデル・カストロ

理想を語ること(言葉にすること)は必要だし、理想を語る個人もまた常に必要だ。しかし、理想化された個人をやみくもに称揚することは、「理想を語ること」とは全く別だ。ニュースがあって数時間、いろいろな言葉に接し、例によって消耗して、少し時間を置いて自分の中でいろいろと落ち着いたとき、ふとそんな言葉が浮かんできた。

日本語圏では特に「ひとつの時代の終わりを感じる」という言葉を多く見かけたが、今日終わった「時代」は、とっくの昔に終わっていた。今から10年前、2006年7月には既に、フィデル・カストロは第一線から退いていた。その2年ほど前の2004年11月には、ヤッサー・アラファトが急逝している。世界が「イラク戦争」で騒然とする中、「あの時代」は完全に終わっていたのだ。

2006年にフィデルが健康問題を理由に5歳年下の弟のラウルに指導者の座を預けたとき、それは「健康が回復するまでの一時的なこと」と言われていた。年齢を考えたときに、それを本当に信じた人がいたとは私には思えないが、信じた人もいただろう。それも多く。しかし、結局それっきりになった。そして2013年12月に他界したネルソン・マンデラの追悼式典の場に各国の指導者たちが参集したときに、ラウル・カストロは米大統領のバラク・オバマと握手を交わした。マンデラは、死んでなお、かつてのアパルトヘイト政権支持者たちによって「テロリスト」と罵倒されていた。米国の大統領がオバマでなかったら、米国のトップがマンデラの追悼式典に出席するなどということは起きていなかったかもしれないし、あの劇的な(劇場的な、と言ってもよい)「キューバの政治トップとの握手」も実現していなかっただろう。そしてフィデル・カストロ自身、その後進展した(そして本当に現実になった)米国とキューバの間の関係改善には、極めて批判的なことを述べている。



今日の訃報は、「こういうことを言う人が、いなくなった」ことを伝えるものだ。とっくに終わっていた時代が、本当に終わった。そういうことだ。

英語圏、特にキューバと時差がほとんどないアメリカのSNS上の報道機関のフィードや人々の反応は、下記に記録してある。英国は、時差があるので、第一報から数時間後にようやく活動時間帯に入っている。日本では土曜日の午後に入ってきたニュースだが、時間帯的に土曜の午前に初報があったアジア諸国も反応は早く、下記「まとめ」にはインドの大統領と首相、ネパールの首相、パキスタンのイムラン・カーン(元クリケット代表だが、現在はガチの政治家)の反応も含めてある。

【訃報】フィデル・カストロ死去
https://matome.naver.jp/odai/2148014723958692101

国境関係なく、人々が同じ訃報を話題にしている。英語では、こういうのを "The world remembers/reacts/mourns." と、主語を「世界」にして言う。しかしTwitter上の英語圏という「世界」には、キューバそのものから流れてくる言葉がない。戦乱の独裁国家シリアでさえ、内部からの発言が頻繁にSNSに投稿されるのに。

SNS上の英語圏に不在の国は、ほかにもいくらでもある。北朝鮮、ビルマ(ミャンマー)、ブータン、ウズベキスタン……ユーラシア大陸だけでもたくさん思いつく。英語圏のジャーナリストやNGOが現地から発言することはあるかもしれないが、その土地の人が直接、英語で(あるいは英語での検索でひっかかるような形で)SNSで何かを発言するということがほとんどない国。「Twitterが英語圏中心だから」っていうのとは、ちょっと違う。

それでも、少しは聞こえてくる。




スペイン語のこのツイートは、ガーディアンがlive updatesで紹介している。文面は、英語にすると:
“Only a few hours left until the first dawn of my life without Fidel Castro.”


「フィデル・カストロのいない世界」は、確かに今、始まった。

「ああいうことを言う」人はいなくなった。「ああいうことをする」人もいなくなった。

そういった現実、そういった事実、そういった認識と、どうにも噛み合わない言葉の数々。

世界は一様ではないのだ。「A or B」ではなく、「A and B」なのだ。

だが、フィデル・カストロの訃報で湧き起こった言葉の数々の多くは、「A or B」の世界を描き出そうとしている。

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こういうのを見てると、べったりと同じ色で塗られた面を連想する。マーク・ロスコの絵のように、絵筆のあととか微妙なトーンや厚み、マッスがあるわけではなく、Windowsの「ペイント」のバケツツールでただベターっと流し込んだ、その色以外塗られていないし重なりもないという面。世界をそういう薄く一様なものとして認識したい人たち、私たちにそういうものとして認識させたい人たち。

社交的な「お悔やみ」すら共有できない人々もいるが(亡命者の多くはそうだし、その感情を理解することはできる)、少なくともそれができる人たちは、個人の理想化、あるいは悪魔化という形で、薄っぺらく一様に塗られた世界に対する抵抗を、意識的にも無意識的にもしているのだろうし、していかねばならないと思う。

ぜんぶ、フィデルのせい、ではないのだから。


※この記事は

2016年11月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(1) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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フィデル・カストロ(の遺灰)、最後の旅
Excerpt: フィデル・カストロから国民への最後のメッセージは、「死んだ後、個人崇拝はしてくれるな」というものだった。自分の名を冠したモニュメントは作るな、道路にも自分の名をつけるな、と。 11月25日(現地。日..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-12-05 02:20

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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