「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年11月09日

2015年11月のパリ攻撃、2016年3月のブリュッセル攻撃双方に関わったと思われる人物を情報機関が特定した。

2015年11月13日から、そろそろ1年が経過する。金曜の夜のパリの街を血で染めたあのすさまじい暴力を計画し組織化したのは誰だったのかという点について、新たに進展が報じられている。

Belgian jihadist Atar 'co-ordinated' Paris and Brussels attacks
http://www.bbc.com/news/world-europe-37906961

BBC Newsは記事のタイムスタンプを廃止してしまったので記事が出た正確な時間がわからないが、今これをアップしようとしている時点で7 hours agoとなっている。

私がこの記事に気づいたのは、11月9日の朝8時ごろ(日本時間)、PCを立ち上げて、米大統領選の結果がそろそろ入り始めるころかとBBC Newsのサイトを見たときだったが、その時点でも大して目立たない位置に配置されていた。米大統領選の特設コーナーは別として、この時点でのトップニュースはインドの唐突すぎる500ルピー札と1000ルピー札の廃止で、これはトップニュースになって当然だ。次の、オーストラリアのテーマパークの遊具の話はこんなに扱いが大きいのがちょっと不思議だが「ビジネスニュース」的な意味はあるのだろう。その他、いろんなニュースが並んでいるが、少なくとも、昨年11月のパリ攻撃と今年3月のブリュッセル攻撃のマスターマインドについてのニュースは、ハリー王子が付き合ってる彼女についての英マスコミの扱いがひどい(蔑視的である)と述べたという話より重要なように思えるのだが(しかもこちらのほうが記事が新しいのに)、ハリー王子のニュースより下位に配置されている。

bbcnews09nov2016s.png


Twitterに記事URLを投げてみても、あまり注目されている様子はない。URLでひっかかるのは全部で15件。私が日本語で内容をメモっているのを除けば、ジャーナリストのアカウントもbotのアカウントもみな、基本的に、ヘッドラインをただ淡々とフィードしているだけだ。

tw37906961.png

※キャプチャに使っているソフトウエアの仕様が原因で、一部、はしょったようにしかキャプチャされていないところがある。

という次第で、非常に地味に見えるニュースだが、内容は濃い。

2015年11月のパリ攻撃のあと、多くの(というかほとんどの)メディアが大々的に報道したこと、現在もあの事件についてウェブ検索すると上位に表示される報道記事の内容に新たに重要なことを加えつつ、それらの報道記事を書き換えるような内容だ。といっても、その「書き換え」は既に2016年3月のブリュッセル攻撃のときに行なわれていなければならなかったことだし、事実、行なわれてもいたと思うのだが、特に「外国の出来事」については「事件発生当時だけは手厚く報道される」という傾向が世界的にあるので(それは「日本の出来事」についての英語圏報道でも同じである。例えばこの7月の相模原の大量殺人については、英語圏で検索すればそのことが確認できよう)、日本語圏ではおそらく、「古い情報」のままあれこれ固まってしまっている(人々が抱いている「イメージ」も含め)。

詳細は、各自で記事をお読みいただきたいが、2015年11月のパリでの攻撃について、「事件発生当時の古い情報」で「首謀者(リングリーダー)」とされていたアブデルハミド・アバウドのほかにいた「欧州での同時多発テロ攻撃」の計画の「首謀者」が特定された。(アブデルハミド・アバウドは、パリでの攻撃の数日後に、潜伏していたパリ郊外で警察と銃撃戦の末、死亡しており、2016年3月のブリュッセル攻撃を、計画はできたかもしれないが、実際に行なうときには何も関わることはできなかったはずである。)

Belgian jihadist Atar 'co-ordinated' Paris and Brussels attacks
http://www.bbc.com/news/world-europe-37906961

……とリンクをはっておいても、どうせ誰も読みはしないので、冒頭のセクションから抜粋しておく。
A Belgian-Moroccan jihadist operating in Syria is believed to have organised the deadly attacks on Paris and Brussels, sources say.

For months intelligence teams have been trying to identify a man known as Abou Ahmad, involved in recruiting a number of Islamist militants for attacks across Europe.

They now believe they have identified him as Oussama Ahmad Atar.

He is linked to bombers who targeted Paris in 2015 and Brussels in March.

...

One source told Belgian media that Oussama Atar was the only ringleader in Syria to have been identified in both inquiries.


このウサマ・アハマド・アターという男(アブデルハミド・アバウドと同じく、モロッコ系ベルギー人)は、2016年3月のブリュッセル連続爆破犯であるバクラウィ兄弟の遠戚で、ベルギー当局は何年も前から把握していた人物であるという。

その「当局が把握」の内容がハンパない。ウサマ・アターが初めてシリアに行ったのは2002年。当時、ホットだったのはアフガニスタン、パキスタンだが、彼がそこに行ったことがあるのかどうか、ないのかどうかはテクストに明らかではない。2002年にジハディズムの文脈(当時は「アルカイダのテロ」と広く認識されていたのだが)でシリアが注目されることは、一般にはほとんどなかった。ただ、インテリジェンス・コミュニティではきっと、シリアがジハディズムのハブのひとつであることは常識だったのだろう。その後、2003年3月20日にイラク戦争(米英豪によるイラク爆撃)が開始され、サダム・フセイン政権が崩壊して、米軍占領下のイラクがさらにめちゃくちゃな状態になっていくときに、米国はしじゅう、「シリアがー」と言っていた(その文脈で、「NPT体制外で核兵器を開発・所有するパキスタン、北朝鮮、イラン、シリア」というストーリーはあちこちで語られた。その当時はまだ「サダム・フセインの大量破壊兵器」は実在するものと想定されていた)。その時代に私が覚えた地名のひとつが、シリアとの国境に接するイラクの街、「アル=カイム」で、その地名はここ数年のイスイス団関連のニュースでも何度か見かけた。また、その時代の背景で制作された「ドキュメンタリーっぽいフィクション映画(モック・ドキュメンタリー、モキュドラマ)」が2006年の英映画『大統領暗殺 (Death of a President)』だし(→当時の私のメモ)、ハリウッドの錚々たる面々を揃えて制作されたのが2005年の米映画『シリアナ (Syriana)』だ。後者など、タイトルがもろにそれである(「それ」というのは、日本語での偶然の音の一致による「アスホール」ではなく)。

ウサマ・アターはイラク戦争すらまだ始まっていない2002年に初めてシリアに行き、それからイラク戦争後の2004年に再度シリアを訪れ、そこからイラクに入った、と今回のBBC記事にはある。

シリアのデリゾール(これもその当時に読み方を調べて覚えた地名だ)からイラクのアル=カイムを経てアンバール県へ、というジハディスト(当時は「ムジャヒディーン」、「ムジャ」という用語)の流れが問題視されていた時期のことだ。イラク国内での占領者(米軍)の行動があまりにひどく、自分たちの国で自分たちの街で自分の家にいるのに犯罪者扱いをされ金品を奪われ投獄されるという目にあわされたイラクの人々は、「同胞たちのために」という金科玉条を掲げて入ってくる「外国人の戦闘員」に対して全面的に防御的・排斥的な態度は取らなかった。

ウサマ・アターがイラクに入ったのも、そういう流れの中でのことだっただろう。

2004年11月のファルージャ包囲戦のときに市内に入った数少ないジャーナリストのひとり、ガイス・アブドゥル・アハド(彼はまだバグダードに住んでいて、ジャーナリストとしてのキャリアもまだ始めたばかりだった)が「外国から来たムジャ」たちに話を聞いていたが、その中には、欧州出身者はいなかった。近隣国のほか、ソマリアやチュニジア、サウジアラビアといったアラブ諸国からは、彼らの信じる「ジハード」のために大勢がイラクに入っていると伝えられていたが、欧州出身者は当時は聞いた記憶がない。しかし、実際にはいたのだ。

イラク戦争からさかのぼること約10年、90年代前半には欧州の一角、バルカン半島で「同胞たちを助けるために」と外国人戦闘員が集まってくるということがあった。当時は私は聞いたこともなかったが、ボスニア紛争に、アラブ・北アフリカ諸国などから戦闘員として参加した人々がかなりたくさんいた。このことは欧州諸国で生まれ育ったアラブ・北アフリカ系イスラム教徒にも刺激を与えた。ウサマ・アターというモロッコ系ベルギー人の年齢は記事に書かれていないのでわからないが、90年代にそれなりの年齢に達していたなら、ボスニアとも関わっていたかもしれない。ちなみに、70年代に英国に留学して以来英国を拠点としていたアブ・ハムザ・アル=マスリ(2000年代初め、フィンズベリー・パーク・モスクで活動していた過激主義者)もボスニアで戦った経歴があるが、現在のイスイス団支援のネットワークの上層部の人々の直接的ルーツ(「最初に参加した活動」的な意味で)がボスニアというケースは少なくないようだ。

ともあれ、ウサマ・アターは2004年にシリアに行き、そこからイラクに入り、不法入国の疑いで逮捕され、2005年に禁固10年の判決を受けた(いくらあの時代のイラクでも、単純な「不法入国」で10年も食らうということは考えづらく、「何を目的とした不法入国」とみなされたのかはそこから察しがつくだろう)。

そして、ベルギーの元情報当局職員、アンドレ・ジャコブ氏がBBCに語ったところによると、ウサマ・アターは米軍管理下のアブ・グレイブ刑務所に入れられ、そこからキャンプ・クロッパーに移された。キャンプ・クロッパーはサダム・フセインが収監されていた施設だ。

ベルギーにいる家族や人権団体が、健康状態を理由に、ウサマの釈放を求め、彼は2012年にベルギーに戻った。しかしイラクの刑務所で過ごした7年間で彼は完全に過激化されていた――と、このようにジャコブ氏は語っている。

アブグレイブ刑務所に放り込まれた人が過激思想に染まったというケースはこれまでにも報告されている。刑務所こそが「学校」になってしまっていたということだ。ウサマ・アターもそういうふうにして完全に過激主義者になったのかもしれない。

記事では、彼の現在の所在はわかっていないが、ラッカにいるということを示唆する報告もある、としている。

このような人物が3月のブリュッセルでの自爆者の遠縁で、3月の事件のあとで直接の家族が逮捕されたり家宅捜索を受けるなどしているという。

一方、昨年11月のパリ攻撃との関係はそれほどはっきりしたものではなく、今回初めて明らかにされたと記事は述べている。フランスのルモンドが伝えるところによると、ウサマ・アターは、スタッド・ド・フランスに自爆攻撃を試みて失敗し、スタジアムの近辺で自爆したイラク人2人をリクルートした疑いがもたれている。

そしてそのパリ攻撃とウサマ・アターについて:
There is some agreement at the heart of the intelligence community that he is implicated in the attacks that struck both capital cities, the paper says.

But what was his role?

Ever since the Paris attacks almost a year ago, authorities have been hunting for a key figure who orchestrated the jihadist plot from Syria.

Initially, one of the Paris attackers, Abdelhamid Abaaoud, was seen as the suspected ringleader but he died in a raid by police days later.

One man suspected of involvement in both attacks, Mohamed Abrini, was arrested in April but authorities have not indicated he was a leading figure either. He too is a Belgian-Moroccan.

Oussama Atar's name has now been linked to both attacks in the role of co-ordinator, but not necessarily overall commander.

That is because they now believe he is the man known as Abou Ahmad, whose name emerged after the arrest of two men in Austria a few weeks after the Paris attacks, in December 2015.


……と、まあ、断片的だったニュースが、点と点をつなぐように関連付けられてくる。インテリジェンス・コミュニティの中ではとっくに共有されていたのであろうことが、こうして一般のニュースにも出てきている。

「パリ攻撃の数週間後、2015年12月にオーストリアで逮捕された2人の男」については、どのタイミングでか、報道を読んだと思う。スタッド・ド・フランスで自爆したイラク人2人とともにパリに行こうとした途上、ギリシャのレロス島で身柄を拘束され、足止めをくったアルジェリア人とパキスタン人である。2人はその後、オーストリアの難民キャンプにまでたどり着いたが、ここでアルジェリア人のほうが、偽造パスポートとお金、携帯電話を手配したリクルーターでオーガナイザーの役割を果たしていた人物の名前を当局に語っていた。「アブー・アハマド」という。

当局はこの「アブー・アハマド」の実名(本当の身元)を調べていたが、どうやらそれがウサマ・アターであるようだ。レロス島で足止めを食った2人のうちの1人は、ウサマ・アターの写真を見て、これが「アブー・アハマド」と当局に語ってもいるらしい。(伝聞調なのは元から。)

以下、BBC記事はまだしばらく続いているのだが、何か中途半端なところで話が終わってしまっている(英語記事らしい「締めの一言」がない)。

そんなところも何やら「ははーん」となるような記事だが、フランス語が読めれば、ルモンドの元記事を参照するのがよさそうだ。BBC記事内にリンクされている。
http://www.lemonde.fr/attaques-a-paris/article/2016/11/08/oussama-atar-coordinateur-presume-des-attentats-de-paris-et-bruxelles_5027245_4809495.html


※この記事は

2016年11月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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