「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年11月07日

「ユーフラテスの怒り」……ラッカ奪還作戦が始まった。 #シリア

表題どおり、ラッカ奪還作戦が始まった。

2014年6月にイラク軍が逃げ出したことによってイラクのモスルを掌握した「イスラム国」を自称する勢力(ISIS, ISIL, またはIS。ネットスラングで「イスイス団」)が「国家樹立」を勝手に宣言し、「サイクス・ピコ協定で定められた国境線の終わり」をアピールする写真をSNSを含むネット上に大量に流した次に大きな(彼らにとっての)「進展」を見たのが、同年8月のラッカの掌握だった。

ユーフラテス川に面したシリア北部の都市ラッカは、同名の県の県都であり、人口20万人を超える規模があるが、シリア国内のほかの大都市からはかなり離れている。2011年の「革命」勃発後、この都市でも民主化要求の平和的運動が起きたが、ホムスやダルーアなどとは異なり、勢いは続かなかったという。2012年、シリア各地で激しい武力行使が見られるようになったあと、ここには各地から避難してくる人々が集まり、シリア政府はラッカは比較的平穏であるとみていた。しかしその状態も長くは続かず、ラッカもまたシリア政府軍(アサド政権軍)と反政権の諸勢力の間の戦闘と陰惨な暴力の場となっていく。そして2013年3月、シリア自由軍(FSA)、ヌスラ戦線(JaN)、イスラミック・フロントなどによる反政権勢力によって政府軍が放逐され、ラッカ県は完全に反政府側の掌握するところとなった(ソース)。このときに「ラッカ解放」を祝う声があったことは覚えているが(ジーンズにスウェットシャツに、髪を覆うヒジャブというような服装の女性が「自由シリア」の旗を壁にかけていた)、その後、ラッカでは世俗主義者より宗教勢力が支配的となり、「解放」を祝った世俗主義の平和的民主化運動の活動家たちは地下に追いやられていく。そして、JaN・アルカイダとイスイス団の離反(2014年初め)を経て、2014年8月にはイスイス団がラッカを掌握し、やがては彼らの自称する「国家」の「首都」としてしまった。ちなみにラッカは796年から809年にかけて、アッバース朝の首都だったことがある。

ラッカを掌握したイスイス団は、市内のキリスト教教会やシーア派のモスクを破壊し、クリスチャンを処刑また追放し、市民たちには「ぼくたちのかんがえるただしいイスラム」を強制し、「市民はわれわれを歓迎している」というプロパガンダをぶちかまし、西欧諸国を含む世界各地の共感者に「きみも理想国家の建設に参加しよう」と呼びかけた。輝かしい光の戦士となることを夢み、また「新たな国」の子供たちを生み育てることを理想とする男女が大勢、ラッカの住人となった(彼らが「国」から与えられる家は、イスイス団に追い出されるなどした元々のラッカ市民の家だったが)。「ジハーディ・ジョン」と呼ばれた西ロンドン出身の男もそうだし、ロンドンのイーストエンドの学校に通っていた10代の女子3人組もそうだ。フォーリーさんもソトロフさんも、ヘインズさんもヘニングさんもカッシグさんも、カサスベさんも湯川さんも後藤さんも、この町のどこかか、あるいはその近郊で殺された。ミュラーさんはこの町の標的に対して行なわれた米国を中心とする連合軍の空爆で殺された。そういった「外国人の犠牲者」は国際的に報道されるが、元々のラッカ市民や、イスイス団による掌握前にラッカに避難してきていたシリア人の死や苦境は、報道という形では極めて限定的にしか接することができない。そもそもラッカには、イスイス団の息がかかっていない報道はない(そういう映像を、あたかもうちらの感覚でいう「報道の映像」であるかのように、日本のメディアがそのまま流したこともあった。後藤健二さんがとらわれていたときだ)。そもそも「報道」と呼べるものなのかどうかはさておき、ラッカ内部での/からの報道は、インターネット上の彼らのチャンネルで流されるイスイス団のプロパガンダ以外にはないといってよい状況だ(フォーリーさんたちと同じように拘束され、イスイス団の「広報」担当にされてしまった英国人ジャーナリストのカントリーさんの例などを参照)。そういうわけで、時おりラッカから逃げてきた一般市民の話に基づく記事が国際メディアに出ているが(リンク先はアルジャジーラ、2015年1月)、ラッカはほぼ「密室化」の状態にある。

ネット上でアラビア語と英語の2言語で活動する組織、「Raqqa is Being Slaughtered Silently (ラッカは静かに息の根を止められつつある: Raqqa SL)」は、基本的に、2011年の「革命」期の平和的活動家たちによる、ラッカを「密室化」させまいという取り組みである。ウェブサイトとTwitterは下記。
http://www.raqqa-sl.com/en/
https://twitter.com/raqqa_sl



その彼らのTwitterアカウントで最初に動きが報告されたのは、日本時間で6日(日)の早朝だった。現地では土曜の夜。「ラッカ: 昨晩、どの勢力かは不明であるが軍人たちが、ラッカの南にあるカスラット村に(たぶん空から)入り、数人のイスイス団戦闘員を拘束した」。







そして、車を標的としたドローンによる攻撃が行なわれていることが報告された。




写真も来た。こんなにおおっぴらに撮影していて大丈夫なのかと心配になるが、住宅街で子供たちが家の前に突っ立って空を見ている。大人の姿は見当たらない。




その後、しばらくはアラビア語のツイートが続き、続いて英語で:


この点は、イラクでモスル戦が始まってからたびたび、英語圏では報じられているのだが、報道では「イスイス団の戦闘員がモスルを逃げ出しラッカに向かっている」という言い方が目立つ。イスイス団は過去にも、拠点を捨てて逃げていくときに家族など非戦闘員を「人間の盾」として使う(同じ車に乗せるなど)ということがわかっており、モスルから逃げ出しているイスイス団戦闘員でもそれは同じことである。それとはおそらく別に、イスイス団に協力的だったなどの理由で「解放」後のモスルでは安全が危ないという人々も続々と脱出しているだろう。例えば下記のFox Newsが(やや意外なことに)わりとしっかり書いている(他の媒体の記事でも探せばあるかもしれない)。

Mass exodus as ISIS fighters, families flee Mosul for Raqqa
By Hollie McKay Published November 03, 2016
http://www.foxnews.com/world/2016/11/03/mass-exodus-as-isis-fighters-families-flee-mosul-for-raqqa.html
SINJAR, Iraq – As bullets fly in Mosul, the rural roads leading west are choked with traffic – much of which is believed to be ISIS fighters fleeing to the terrorist army’s Syrian stronghold some 275 miles away in Raqqa.

On a late morning this week, FoxNews.com observed through binoculars and from atop Shengal Mountain, also known as Sinjar, hundreds of cars crawling along dusty roads linking Iraq and Syria. To Kurdish military intelligence officials, the cause of the congestion was clear.

...

ISIS loyalists and victims alike appear to be using every means possible to flee, making the trip in pickup trucks, tractor-trailers and small vehicles.

When the exodus was still a trickle earlier in the week, ISIS sought to hide the escape route by burning tires along the roadside. But as FoxNews.com watched, only the dust from dirt roads provided scant cover in the distance as the convoys chugged westward.

The terror army’s escape now depends on a different sort of cover.

"ISIS often has many different things they do to block vision,” another Peshmerga officer said. “But even so, we can't attack them [when they are] loading cars with kids and women. How could we attack kids? They have no part in this fight."


Raqqa SLは引き続き、淡々と最新状況を英語で伝えている。















この段階でYPGの名称が出てきたが、今回のラッカ解放作戦は(コバニのときと同じく)YPGである。YPGはPKKとのつながりがあるというクルド人の武装組織で、PKKは伝統的にロシアとのつながりが深い。そして今回、YPGは米国によって支援されるSDF (Syria Democratic Forces) という寄り合い所帯の主力として、ラッカ解放作戦に臨んでいる。このあたり、「大人の事情」でいろいろと言葉が濁されたりしていて大変にわかりづらいのだが、2011年の「革命」(カギカッコつきの「革命」)期に「アサド政権対反政府勢力などという単純なものではないのですよ」と言いつつ、事態を「アサド政権対テロリストたち」というめっちゃ単純なものとして描き出した人々はこういうことは積極的に説明しようとはしないだろう。あるいはそれより悪いことに、「アメリカが支援するテロリストたち」という物語で説明しようとするかもしれない。いずれにせよ、混迷した情勢を説明しているはずのものを見聞きして、ますます混乱してしまう、ということにもなるかもしれない。

いずれにせよ、BBCは「ラッカ奪還作戦の開始」の報道で、同作戦の開始を告げるSDFの会見の写真を大きく使っている。
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-37889133

この記事がBBC Newsのトップにあったときのキャプチャ:


The SDF alliance, which is dominated by the Kurdish Popular Protection Units (YPG) militia, has emerged as a key ally of the US-led coalition over the past two years, leading the fight against IS on the ground in northern Syria.

Turkey, Syria's closest neighbour to the north, is not expected to take part. It considers the YPG a terror organisation and says it will not accept a role for the Kurds in the liberation of Raqqa.

Announcing the "Wrath of the Euphrates" operation, the SDF said they hoped Turkey would not "interfere in internal Syrian affairs".

Of the SDF's 30,000-strong force, up to 25,000 fighters come from the YPG, according to some estimates.

http://www.bbc.com/news/world-middle-east-37889133


Raqqa SLのTwitterより:





ラッカの人々(イスイス団の支配に耐えてきた人々、またはそれを受け入れた人々、それを歓迎した人々)にとって、この「解放」作戦は、戦闘に巻き込まれるといった点での恐怖とは別に、心理的な恐怖を及ぼすものであるかもしれない。ここで主力として投入されたのがクルドの武装組織であるということについて、Raqqa SLのツイートは、言葉は少ないが、かなりのことを語ってはいると思う。

Raqqa SLは、イスイス団の手でメンバーや支援者たちを何人も奪われながら活動を続けてきた。メンバーのお父さんがイスイス団に捕らえられ、例の調子の「ハリウッド調の殺人ビデオ」にされてしまったこともある。彼らの苦難がこの「解放作戦」で終わることを願いつつ、彼らが決死の思いで作っている情報の流れを受け止めていきたいと思う。できるときには

国際社会、特に米国やロシアにとっては、「モスルとラッカをイスイス団から奪還するために両国が(やや遠まわしに)共同して軍事作戦を行い、成功した」という物語がほしいわけで、そのストーリーに合わないようなディテールは目立たなくされるか、そぎ落とされていることだろう。「戦争」を「戦争」と呼ばず「軍事作戦」などと呼ぶのが今の時代の流儀だが、一昔前の言葉でいう「対テロ戦争 war on terror」の物語が、今、「イスイス団に対する戦争」として、米国とロシアが対立していないという前提で語られている。いつの世も、「戦争の最初の犠牲者は真実」だろうが、今のこの物語では、その「真実」はどんなものだろう。

※この記事は

2016年11月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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