「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2007年06月09日

不都合な真実を知っているかもしれない男の都合のよいタイミングでの自殺

見るなり「うそでしょー」と叫びそうになったニュース。ビリー・ライトを殺したINLAメンバー3人のうちのひとりが、獄中で自殺した。ビリー・ライト事件のインクワイアリの証人として証言をすることになっていたのに。

Wright killer found dead in cell
Last Updated: Friday, 8 June 2007, 19:28 GMT 20:28 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6736185.stm

これは、「不都合な真実を知っている男が殺された」と考えるのが、弁証法的観点からも帰納的だ。。。とか言ってると「陰謀論者」と嘲笑されるんだろうけど、あまりにあまりなので、根拠があるわけじゃないけど陰謀論じゃないもん!と言い張りたくなる。

何しろ、根拠になりうるものが、警察によって廃棄されてんだから。

Police destroyed papers on Billy Wright murder, inquiry told
Sandra Laville, crime correspondent
Thursday May 31, 2007
http://www.guardian.co.uk/Northern_Ireland/Story/0,,2091834,00.html

※ガーディアンははっきりと「警察が廃棄」と書いているが(といっても記事を読めばそんなに「陰謀論」くさいものではないことがすぐにわかるだろう)、BBCでは「行方不明」ともっさりした言い方をしている。

Wright murder documents 'missing'
Last Updated: Wednesday, 30 May 2007, 12:27 GMT 13:27 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6702897.stm

話は1997年12月にさかのぼる。ロイヤリストの武装組織の中でも強烈なLVFのリーダー、ビリー・ライトが、収監されていたメイズ(ロング・ケッシュ)刑務所の中で、屋上に上ったガンマンに射殺された。ガンマンたちも囚人で、リパブリカンの武装組織INLAのメンバーだった。

1997年12月とはどのような時期かというと、一言でいえば「和平」が具体化しつつあった時期である。

1997年5月1日に英国で総選挙が行われ、保守党のメイジャー政権が倒れ、労働党のブレア政権が発足した。メイジャー政権ですでに「北アイルランド和平」は現実のものとして進められつつあったが、ブレアはそれを受け継ぎ、就任直後に一気に推し進めた。1998年1月末にはUDA/UFFが停戦し、2月9日には、ブレア内閣の北アイルランド担当大臣、モー・モーラムがメイズ刑務所を訪れ、ロイヤリスト武装組織UDA/UFFの大物たちと会談して「和平」について説得した。(このときにモーラムと会ったUDA側代表者のひとりが、マイケル・ストーンだった。)同年4月3日にはブラッディ・サンデー事件のインクワイアリが開始(1月末に発表されていた通り)、4月10日にはベルファスト合意(グッドフライデー合意)が成立、5月28日にはアイルランド島全体でのレファレンダムが行われ、合意が承認された、という流れだ。

その前の、1993年12月の「ダウニング・ストリート宣言」、1994年8月のIRA停戦、などなどのメイジャー政権下での動きについては、en.wikipediaの「北アイルランド和平プロセス」のエントリを参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/Northern_Ireland_peace_process

これを前提に1997年12月をみると、どういう時期だったのかがわかると思う。つまり、「プロテスタントとカトリックの衝突」という事態を終わらせようと、英国とアイルランド共和国両政府が必死で取り組んでいた時期だ。

そういうときに、武装組織メンバーで有罪判決を受けた犯罪者/テロリスト/政治犯たちだけが服役しているメイズ刑務所で、囚人が囚人によって射殺されたのが、ビリー・ライト射殺事件である。

刑務所内に銃が持ち込まれたというだけでも大変なことだが、さらに、監視でがっちがちの同刑務所で銃を持った3人の囚人が建物の屋上に上がり、敵対する勢力の囚人を射殺したというのは、「大変」をはるかに超える事態だ。殺されたビリー・ライトは一部でカリスマ的人気があった人物で、UDAやUVFやIRAなどが停戦した状態で当時進行していた「和平」にとってはものすごい邪魔者だったから、その殺害には裏があるんではないかという指摘は当然のごとくなされていたわけだが、父親が求めてきたパブリック・インクワイアリ(調査)は2004年11月に開始された。
http://www.billywrightinquiry.org/

インクワイアリについての記事:
2007年5月30日、ベルテレさん:
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article2595282.ece
2007年5月31日、BBC:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6705603.stm

現在そのインクワイアリが徐々に進んでいて、もうすぐ殺害実行犯が証言することになっていたのだ。その矢先にムショ内で首を吊って自殺しましたよ、と言われても、ねぇ。

ともあれ、ビリー・ライトというのがどういう人物だったのかを簡単に記しておこうと思う。

ビリー・ライトは1960年、イングランドのウルヴァーハンプトンに生まれたアイリッシュ・プロテスタントである。彼が物心つくまえに家族は北アイルランド、サウス・アーマーのナショナリストが多い地域に引っ越し、彼はそこで育った。両親はプロテスタントだったが過激なロイヤリストではなく、彼自身、子供の頃は近所の子たちと一緒にナショナリストのスポーツであるゲーリック・フットボールをして遊んだりしていたそうだ。(1960年代半ばごろまでは、「紛争」は「ごく一部の過激派のもの」でしかなかった。セクタリアン・ディヴァイドもまだそんなにきつくなかったのだ。)

しかし、1960年代半ばにプロテスタントによるカトリック襲撃事件などが多発するようになり、1969年にIRAがOfficialとProvisionalに分離し、PIRAの「武装闘争」が本格化して「紛争」が始まるといった時代のなかで、ビリー少年の「ロイヤリスト」としての方向も決定付けられていく。

1970年代はリパブリカンの武装勢力とロイヤリストの武装勢力の殺し合い(しばしば、事態に関係のない一般市民を巻き込んだり、標的としたりした)が続いた。そして1976年1月、カトリックの人6人がロイヤリストに射殺された事件の翌日に、IRAはサウス・アーマーのキングズミルという村で、プロテスタントの工場労働者を乗せたバスを狙い、「報復」攻撃を行った。10人が殺された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kingsmill_massacre

この事件の直後、15歳のビリーはUVF (the Ulster Volunteer Force)に入った。この事件の前か後かはわからないが(調べていないので)、ビリーのおじさんと継父、継父の息子(義理の兄)がリパブリカンに射殺されていることも、ビリーのUVF入りの背景にあったようだ。

当時のことを、ビリーは後に、次のように回想している。
「工場の労働者たちがバスから引きずり出され射殺されたとき、俺は15だった。あの人たちはただプロテスタントだったから殺されたのだということがわかって、それで、住んでいたマウントノリスの村を出て、ポータダウンですぐにUVFの少年部に入った。同胞を助けることが俺の義務だと思った。

―― Toby Harnden, Bandit Country, the IRA and South Armagh, page 140

暴力のなかで、義憤に燃えた15歳の子が、UVFという武装組織でどのような方向に導かれたかは、想像に難くない。「アルスターのプロテスタントであること」に「誇り」を抱き、「プロテスタントの同胞たち」を守ることを義務とし、同胞たちを襲う「カトリックの連中」を敵とし、武器を手に「闘争」を行うこの組織で。

組織に入った翌年、ビリーは武器所持とカージャックで逮捕され有罪となり、42ヶ月服役する。釈放後は保険のセールスの仕事をし、結婚して娘を2人もうけ、このころにボーン・アゲイン体験をし(北アイルランドのプロテスタントの「テロリスト」にはボーン・アゲイン体験をする人がけっこう多い)、アーマーで宗教的活動も行う。

だがUVFを抜けたわけではなく、1980年代半ばにはUVFの活動を再開し、殺人や殺人共謀の容疑で何度も逮捕された。ミッド・アルスター地区のUVFの司令官となった彼は、麻薬密売を行うかたわら、20件近くの殺人(カトリックだから殺すというセクタリアンな事件)を指揮したというが、結局そのいずれでも有罪となることはなかった。彼のユニットの襲撃で殺されたのは主にカトリックの一般人で、リパブリカン武装勢力の人たちはごくわずかだった。IRAもINLA(IRAから分派した組織)もビリーの命を狙ったが、暗殺計画はことごとく失敗に終わっていた。

ビリーは自分たちのユニットのことを"Brat pack"(「わんぱく集団」というような意味)と呼んでいたが、あるジャーナリストが最初のBをとって"rat pack"(「ねずみ集団」)と呼んだことから、彼自身は「キング・ラット」とのあだ名を頂戴することになった。怒ったビリーはこのジャーナリストの所属する新聞社に爆弾攻撃を行ない、ジャーナリストを「ぶっ殺す」と脅迫したりした。なお、このジャーナリストはビリー・ライトの死後の2001年9月に暗殺されているが、事件は5年を経過してもなお未解決だ。

1994年10月、メイジャー政権で「和平」が動き出していたころに、ロイヤリストのアンブレラ・グループが「停戦」を決定し、UVFの上層部も下部組織に武装活動の停止を命令したが、ビリー・ライトはこれに反対し、1996年7月、UVFが組織として「和平」交渉にコミットしていたとき、オレンジオーダーの行進(Drumcree March)をめぐるいざこざの最中にカトリックのタクシー運転手を射殺して「停戦」を破り、UVF本部から追放された。(このタクシー運転手殺害事件は、ビリー・ライトの命令によって彼の組織の者が実行したことはほぼ間違いないが、ビリー・ライト本人が死亡していることにより、ほんとの真相はわからなくなってしまった。)

UVFから追放されたビリー・ライトは、すぐに、UVFの自身のユニットの連中を引き抜いて、自身の組織であるLVF (the Loyalist Volunteer Force)を立ち上げた。LVFには「和平」に反対していたロイヤリストが加わり、総勢250人ほどの規模になっていたという。ロイヤリストのアンブレラ・グループから独立した立場で活動していたLVFは、90年代の「和平の進展」などどこ吹く風とばかりに「活動」を続けた。結成の翌年、英国で労働党政権が成立した翌月、LVFは「テロ組織」としての指定を受けた(proscribeされた)。

このころのものだと思うが、おおぜいの人々(多くはティーンエイジャー)とともに行進するビリー・ライトの映像がある(下記の0:25くらいから)。「カリスマ」という言葉がぴったり来る。
http://youtube.com/watch?v=w66ejW_RF0s
※この映像はどっかのドキュメンタリーかな、1996年にUVFから分派したときの映像とか96年10月のビリー・ライトの最後のインタビュー映像とかも入っている。DUPのウィリアム・マクレエが集会のときに壇上でビリー・ライトと握手を交わしている映像も。(しかしマクレエは羊の皮をかぶった過激派だよなとつくづく思う。)

LVFはその後2001年までに18人を殺した。(1997年に5人、98年に9人、99年に1人、2000年に2人、01年に1人。←Sutton Index of DeathsでYearとOrganisationで2項検索)

ビリー・ライトは何件もの殺人を命令していることは確実だとされているが、ほとんどの場合に起訴に持ち込めるほどの証拠がなかったのだろう。1997年3月に、ある女性を殺すと脅したという、彼にしてはあまりひどくない犯罪で有罪になり、8年の実刑判決を受けてメイズ(ロング・ケッシュ)刑務所に収監された。LVFは同年5月に停戦を宣言したが、この宣言はビリー・ライトの仮釈放を目的とするポーズだと考えられている。

ビリー・ライトは、メイズのHブロック6号棟のCウィングとDウィングに、同じくLVFの囚人たち26人と一緒に収監された。しかしこの6号棟のAウィングとBウィングには、LVFと完全に対立するリパブリカン側の武装組織、INLA (the Irish National Liberation Army)の囚人たちが収監されていた。

メイズの簡単な見取り図@本物のホワイトボード:

* a CC photo by Still Burning, Uploaded on September 24, 2005
メイズが取り壊し前に一般公開されたときの写真。この刑務所は、2001年に閉鎖されたときのままの状態で放置されていた。6号棟はボードの右下で、メイズが閉鎖されたときには利用されていなかったことがわかる。

北アイルランド紛争関連の囚人を専門に収監しているメイズ刑務所では、基本的に、ロイヤリストとリパブリカンは別の棟に入れることになっていたし、ロイヤリストとリパブリカンでも組織別に分けるようになっていた。UDAとUVFで揉め事になったり、IRAとINLAで揉め事になったりするからだ。しかしこのときは他の棟がUDAやIRAで満杯になっていたのか、同じ棟にロイヤリストのLVFとリパブリカンのINLAを入れるという判断がなされた。

案の定、メイズのINLAは「チャンスさえあればLVFを」とギラギラし始め、INLAの政治部門であるIRSPは「別々にしないと大変なことに」と警告を発した。刑務所ではINLAとLVFの囚人が接点を持つことがないよう、徹底して分離しておくよう対策がとられた。

しかし1997年12月27日(普通に考えればクリスマス休暇中)、拳銃2丁(two handguns)を持ったINLAの囚人3人(クリストファー・マクウィリアムズ、ジョン・グレノン、ジョン・ケネウェイ)がA, BウィングとC, Dウィングの間の壁をよじ登り屋上に上がって、面会に向かうため中庭でヴァンに乗り込んだビリー・ライトを狙撃した。3発命中し、ライトはその場で死亡した。

BBCのOn This Day:
27 December 1997: Loyalist leader murdered in prison
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/december/27/newsid_2546000/2546009.stm

ライト射殺後、頭目を失ったLVFは、UDAのジョニー・アデールらと組んでRed Hand Defendersと名乗る団体を立ち上げ、カトリックの一般人を対象とした「報復」を展開した。Suttonを参照すると、RHDは1998年に2人、1999年に1人、2001年に5人の計8人を殺している。犠牲者の内訳は、民間人が6人、警官が1人、元UDAが1人だ。

むろん、これに対してリパブリカンからの「報復」も起きている。北アイルランド紛争で何が陰惨ってこの「報復」ってやつで、これは「武装組織対武装組織」ではなく、「あいつらがわれわれの罪のない一般人を殺したから、われわれはあいつらの側の罪のない一般人を殺す」というものだ。一例として、「UVFのビリー」について、以前このブログに書いた(ビリー・ライトとは別人)。

※以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Billy_Wright_%28loyalist%29 に依拠。



LVFは、2004年にはUVFとの間で激しい抗争を起こし(襲撃合戦、放火合戦みたいになって、それぞれの家族を脅して家から追い出したりといったことが発生した)、2005年10月(Provisional IRAが活動を停止し武器を使えない状態にしてから数週間後)に、活動停止を宣言した。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/4393588.stm

この4月25日に出たIMCの第15次報告書では、「麻薬密売、資金洗浄などの構成員の活動は組織的なものというよりは個人的な利益の追求ゆえのものであると思われるが、LVFは組織として武装解除をしておらず、現在もまだパラミリタリーとして存在していると考えるべきだろう。ただし政治的目的はなく、第一義的に犯罪組織である」といった微妙な判断がくだされている。
http://www.independentmonitoringcommission.org/publications.cfm?id=57



ビリー・ライトを狙撃した3人は、狙撃後すぐに投降し、殺害を自供した。1998年10月には公判が始まり、数日後には有罪判決が下りた。量刑は終身刑だったが、グッドフライデー合意の規定(「政治的動機による犯罪で有罪となり服役している者は仮釈放とする」というもの)により、2000年には仮釈放された

裁判とは別に事件の調査も行われていたのだが、当時たまたま監視カメラが故障していたとか(「そんなに都合よく監視カメラが壊れるものか。メイズといえば、IRAが棟の中で鳩を飼って、監視カメラにうんこ攻撃をかまさせて機能しないようにした、という刑務所だ、当局も気をつけているはずだ」というツッコミあり)、リパブリカンの囚人がクリスマス・パーティに訪問した関係者と一緒に、女装して脱獄したばかりだったのに監視塔が無人だったとか、なんか「えーー」な感じの話ばかりで、しかも肝心の「銃がいかにして持ち込まれ、いかにして彼ら3人の手に渡ったのか」はまったくナゾのままとされている。

しかも3人のうちの2人は、事件の前に別の刑務所からメイズに移送されており、しかもこの2人は密かに運び込まれた銃器で人質を取って立てこもるという事件を行って服役していた。事件前に「屋上がガラ空き」と指摘されていたにも関わらず当局は何もしていなかったし、3人が前もってワイヤを切ってあったのに警備も気づかず警報も作動しなかった、とかいう数々のナゾが指摘されている。
http://www.birw.org/billy.html

A hole in a fence at the rear of the wing housing the accused had been cut out and a stack of chairs put in front of it to conceal it from inspection. A portion of fencing was held in place in front of it with shoestrings, he said.

The accused went through the hole in the fence, climbed up on a flat roof and down into the courtyard where the van was waiting with Wright inside for the gates to be opened, the court heard.

Monday, October 19, 1998 Published at 11:53 GMT 12:53 UK
Maze murder 'carefully planned'
http://news.bbc.co.uk/2/hi/events/northern_ireland/latest_news/196497.stm


んなわけで、「当局とINLAが裏でつながって共謀したのではないか」というcollusion疑惑があり、ビリー・ライトの父親などが懸命になってパブリック・インクワイアリーの実施を求めてきたのだ。それが本格化したこのときに、書類は処分されてました、それから、ビリー・ライトを狙撃した3人のひとりが自殺しました、って。。。

今回自殺したJohn Kennewayは、今年の2月に仮釈放を取り消されていた。ピーター・ヘイン北アイルランド担当大臣いわく、仮釈放後、彼は数々の違法行為を行なっており「社会に対し危険である」とのことだった。(GFAの仮釈放の規定では、「違法行為をおかしたら仮釈放取り消し」となっている。)(ベルテレさんが詳しい記事を掲載しているが、飲酒運転で警察とひと悶着あって逮捕されて、その結果として仮釈放取り消しになったようだ。)

彼は先週、孫の洗礼式に出るための一時保釈を申請したが却下されていたとのことだが、そういうのと今回の自殺とに何らかの関係があるのかどうかはまだ何もわからない。

刑務所内での自殺とのことで、刑務所オンブズマンが調査を開始している。
Wright killer cell death examined
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6736759.stm

かなり古い話、2001年のことだが、ジョン・ケナウェイはIRAが動いていると警告されていると、ヘンリー・マクドナルドの取材に語っている。

Wright killer in hiding from IRA
http://observer.guardian.co.uk/uk_news/story/0,6903,458687,00.html
'Once I got out it never left my mind that I would always be a target for loyalists for the rest of my life. That I could accept, and I built as much security around myself as possible. But about a month ago an ex-comrade of mine in the INLA came to me and said I was in a lot of trouble because of the people I was associating with, the Notarantonios. These were my friends, they were people who looked after me in jail and I couldn't ignore them. Two weeks ago the INLA came and told me that they could no longer protect me if I kept associating with that family. The INLA man said the IRA was carrying out investigations into me.'

つまり、the Notarantoniosという人たちと付き合っていることでIRAがいろいろとかぎまわっているぞとINLAから警告を受けていた。

このthe Notarantonios――Notarantonio一家――はIRAと敵対していて、確かにいろいろと話はあった。

Fears over IRA joining new 'police' ranks
Henry McDonald
Sunday October 16, 2005
http://observer.guardian.co.uk/politics/story/0,6903,1593436,00.html

この一家がなぜIRAに狙われているのかというと、IRAに潜入していたスパイ(コードネームStakeknife)をかばっていたとされるからだ。
Stakeknife: Uncovering the hidden war
Last Updated: Sunday, 11 May, 2003, 18:04 GMT 19:04 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/3018537.stm

こういうのを全部積み残したまま――ビリー・ライトのほかにも、テロ組織と当局とのcollusionが考えられる事件は、パット・フィヌケン殺害事件、ローズマリ・ネルソン殺害事件などいくつもある――、この5月8日に「自治復活ですよ」ってセレモニーをして、北アイルランドには「和平」が訪れたことになってしまった。

むろん、殺し合いだの報復合戦だの、あるいは襲撃だの爆弾設置だの狙撃だのは、この先起こることがないということは、歓迎すべきことだ。しかしそれでも、「暴力の本当の姿」が永遠に明らかにされないような状態を「和平」と呼ぶことに、少しはためらいが感じられてもよかろう。

トニー・ブレアはこういう「和平」を中東(パレスチナ/イスラエル)やバスクなど「紛争地」の「和平」のモデルにしようとしていた。最終的には諦めたわけだが(クリントン退陣のときとちょっと似てるね)、自分の名を歴史に残したくてしょうがなかったようだ。



北アイルランドでは、こういった事件の「真相究明」すらも「政争の具」にされている。パット・フィヌケンらナショナリストが殺された事件ではシン・フェインが、ビリー・ライトらユニオニストが殺された事件ではDUPとUUPが、活発に動いている。



上に書けなかったのだが、UVF時代にビリー・ライトは、UUPのデイヴィッド・トリンブルと大変に密接な関係を持っていた。トリンブルはGFAを実現させる推進力となったことで「ノーベル平和賞」を受け、そのために日本のメディアでは「穏健派」とか呼ばれているが、トリンブルが「穏健派」だなんて、どこのおもしろくない冗談だろうか。

ついでに、DUPは「われわれはシン・フェインとは違って武装組織の政治部門ではない」と言ってるけど、ビリー・ライトみたいなすごい過激派がアジってたセクタリアンな集会(オレンジマーチなど)でビリー・ライトのようなすごい過激派を「本物のユニオニスト」と褒め称えていたのはDUPである。



おまけ:
劇的ビフォーアフター@Portadown:
ビリー・ライトを「英雄」として讃えるパラミリタリーの壁画は、2006年に塗りつぶされ、代わって2005年に亡くなったジョージ・ベストの平和的な壁画が描かれた。
http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/pop_ups/07/uk_enl_1181054486/html/1.stm

※この記事は

2007年06月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | Comment(1) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自分用のメモ。

このエントリは、NI FAQに転記済み。

【ロイヤリストFAQ 質問5】 ビリー・ライトという人物とその殺害について、もう少し詳しく。
http://nofrills-nifaq.seesaa.net/article/111089526.html
Posted by nofrills at 2008年12月12日 01:12

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。