「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年06月09日

「暴力の連鎖」の継続を正当化するもの

テルアビブ(テルアヴィヴ)で銃乱射、4人も殺されたと伝えられている。日本語圏も含め、複数の大手メディア報道が出ている。現場は「ショッピングモール」と表現されているが、複合型商業施設の1階のレストラン/カフェ・バーだ。この店内にいた「スーツ姿の2人組の客」が立ち上がると銃を持っていて、それを店内で乱射したという。2人とも警察に拘束されており、1人は病院だそうだ(何らかの理由で負傷した)。1日の終わりにまったりとくつろいでいる会社員みたいな一般市民を標的としたこのような攻撃は、一般市民の住宅街を標的に砲撃・爆撃を加えるのと同じく、「卑劣な」攻撃である。



Twitterで検索すると、報道は日本時間で今朝の6時台からある。

検索結果には、例によって、真贋がすぐにはわからないような話も出ている。すなわち、写真・映像つきで「事件に歓喜するパレスチナ人」がいるという非難が、ソース(となるURL)なしで投稿されている。あるいはソースとなるURLが「それもん」だという場合もあるだろう。

そういうのは、見ないことにしている。いわゆる「デマ」の可能性があるような話は、自分が普段見ているメディアが検証を加えて記事にするまでは、ないものと見なすことにしている。

一方で、見てしまった以上「ないもの」とは扱えないような言葉も、Twitterのような場では飛び交う。

例えばこれ。"I'm tired of Jews dying." 発言主はユダヤ教の宗教家(ラビ)で、この人はこの人のコンテクストで発言している。しかし、この発言は(部分的にはJews/Jewishの多義性にもよって)断片として解釈され、「一人歩き」をし始める発言だ。それを冷静に意識している活動家のような人であれば、そのような「一人歩き」をさせないような言葉遣いをし、明確化を試みるだろう。だが、「わたしたちの1人」である無辜の市民が4人も、「レストランでの銃乱射」という卑劣極まりないかたちで殺されたときに、Twitterのような「そのときの感情を出すメディア」でなされる発言に、「冷静」を期待することはできない。それでも、である。






昨日、たまたま少し読み返していたのだが、北アイルランド紛争が「暴力の連鎖」といわれた局面で、実際に現場でどういうことが行なわれていたかを以前書いた。
http://nofrills.seesaa.net/article/40732470.html

UVFに加わって戦闘訓練は受けていたものの、特に実際に活動することもなく、彼はだんだんと組織から遠のいていった。ほかの多くのメンバーもそんな感じだった。ビリーは仕事をし、時々は職場の友人を家に連れてきてお茶を飲んだりビデオを見たりもしていた。特にセクタリアンな考え方の持ち主ではなく、その友人はカトリックだった。

だがあるとき、教会の日曜学校の女性の先生(暴力には無縁)が、リパブリカンによっていきなり後頭部に1発ぶちこまれるという形で殺される。この事件でビリーはUVFに戻った。ほかにもそういうメンバーが何人もいた。時期は1980年代、81年のリパブリカンのハンストで、IRAが勢いを得ていたころだった。

UVF は、日曜学校の先生の射殺の報復を計画する。報復なのだから、殺された先生と同じように、暴力には無縁のカトリックを殺さねばならない。話し合った末、ビリーたちUVFの活動家はターゲットを決めた――ビリーが時々自宅に招いていた、職場のカトリックの友人がターゲットに選ばれた。

計画を練っていたとき、ロイヤリストの大物がINLAによって射殺された。その報復を一刻も早くせねばならない、とUVFの指導部は決めた。ビリーたちの報復の予定は繰り上げられた。

ビリーは職場の友人を、いつものように、車に乗せた。そして車をしばらく走らせて、そして、彼の後頭部に銃弾を1発撃ちこんだ。「その瞬間、自分の一部が死んだ」とビリーは後に獄中でジャーナリストに語った。職場の友人の妻は、ビリーが彼を娘の見舞いのため病院に送っていってくれたのだと信じていた。夫が殺されたことを知ったとき、彼女は「お願いだから、もうこんなふうに人を殺すのはやめにして」と泣いた。


これが「暴力の連鎖」の "実相" だ。

先日亡くなったモハメド・アリを追悼する記事で、1972年7月(よりによって7月!)にアイルランド共和国のダブリンで試合を行なった時の様子を回顧したものがある。ちなみにモハメド・アリは先祖の誰かがアイルランド人なので、「アイリッシュ」、「アイルランドの息子」である。












この「毎日数人が撃ち殺されて」いた状況は、上に引用した「ビリー」と「職場の友人」の実例のような、「報復殺人」だった。「あちら側がこちら側の民間人を殺したので、こちら側はあちら側の民間人を殺す」ことがパターン化していた。その暴力の中で、人心は無感覚になっていき、その状況を正当化する《物語》が、それぞれの側で語られ、強化された。

【以下、非常に大雑把な用語法をあえてしています。正確性を犠牲にして、わかりやすい《物語》を伝えることが目的です。】

今日のテルアビブでの銃撃事件に際しても、イスラエル(ユダヤ人)の側が「パレスチナ(アラブ人)が大喜びしている」と言えば、パレスチナ(アラブ人)の側が「イスラエル(ユダヤ人)はガザ地区の無辜の市民が爆撃されるのを見て喜んでいた」と言う。

外野から見れば、「どっちもどっち」だろう。実際に、ニュースを見て「思ったこと」を言葉にして表現すれば関心は別のことに移ってしまうという立場では、「どっちもどっちだ」、「永遠にやってろ」と言いたくもなる。

でも、それを言っちゃぁ、おしめぇよ。


※この記事は

2016年06月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 13:32 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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