「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年05月31日

「現在、イエメンの文筆家や詩人、画家たちは、想像力を発揮する道具を置き、その代わりに武器を手に取っている」

2015年3月25日の午後。イエメンの首都サヌアの中心部、ハッダー地区にあるぼくの家で、ヤヒヤとハシェムとぼくは、いつものようにミーティングをしていた。ぼくら3人のいるこの国は崩壊しつつあった。アリ・アブドゥラ・サレハ前大統領と組んだフーシー派の武装集団が首都を制圧し、憲法を停止して戒厳令を敷いてから、もう数ヶ月が経とうとしており、現職のアブド=ラブ・マンスール・ハディ(暫定)大統領が避難している南部の都市アデンの大統領宮殿を爆撃するようになっていた。

国の外の関心をイエメンにひきつけておくにはどうしたらよいかについて、ぼくら3人は、うちの今の窓から見えるアッタン山に日が沈みかけるまで、話し合った(アッタン山のあたりは、その後、1年にわたって最も激しい空爆にさらされることになる)。

その日は結局、基本のフォーマットを維持してやっていこうという結論に達して、散会した。ヤヒヤはカメラを使い、世界が知らなければならないことを記録する。ハシェムはその映像と、ぼくらが共同制作する報告を、ソーシャル・メディアにがんがん流す。そしてぼくは世界各国・各地の報道機関へのつてを使い、ぼくらのまとめた報告をニュースのサイクルの中に留めておくようにする。

じゃあまた会って話をしよう、最終的にどういうふうにしていくかはそのときに詰めよう、ということにして、その日はそれで分かれた。そしてその後、ぼくら3人は顔を合わせていない。


これは、ファレア・アル=ムスリミさん(Farea Al-Muslimi)が5月27日付でアルジャジーラ・イングリッシュに寄稿した文章の書き出しの部分を訳出したものである。

ファレア・アル=ムスリミさんは、イエメンのカーネギー国際平和基金(財団)が2006年11月に設立したカーネギー中東センター(レバノン、ベイルート)の客員研究員(→同センターのページ)。大学はベイルートのアメリカン大学を出ているそうだ。年齢はまだ若いが(ウィキペディア英語版では彼の「若さ」が強調されている)、ジャーナリストとして活動しながらイエメンでシンクタンクを立ち上げるなどしてきた人で、2013年4月には米議会上院の憲法・市民権および人権に関する司法小委員会(the Senate Judiciary Subcommittee on the Constitution, Civil Rights and Human Rights)に招かれて、米国によるドローン戦争の実相を証言した(ご記憶の方も多いだろう)。

「わずか6日前のことですが、私の出身地の村が、アメリカのドローンによって攻撃されました。素朴で貧しい農民たちが震え上がっています」と彼は語っている(→Huff Poに少し、文字起こしがある)。


このときの議会証言に関するDemocracy Now! のニュース映像。的確な解説がついているので文脈が非常にわかりやすい。


2013年の米議会での証言のとき、彼は「スター」だった。オバマ政権が知らないふりをしている「アメリカの戦争」の悲惨さを、アメリカの議会でストレートに語る若きアクティヴィストは、「新しいイエメン」の象徴のようだった。

そのアル=ムスリミさんが、2016年5月27日付でアルジャジーラ・イングリッシュに寄稿した一文は、悲痛なものだ。

Why I think we failed Yemen
27 MAY 2016
By Farea Al-Muslimi
http://www.aljazeera.com/news/2016/05/failed-yemen-160511100609704.html

内戦や武力紛争に関して、「私たちには何もできなかった」という意味で "we failed..." というとき、多くの場合、 "failed" のあとには外国の名前が入る。だから、"we failed Yemen" と述べている人がイエメン国外の人だったら、何の不思議もない。イエメンには英国のジャーナリストや米国の研究者など外国人がいて、2011年のいわゆる「アラブの春」での民主化要求運動について細かく伝えていたし、それにイエメンの活動家にはノーベル平和賞とか米アカデミー賞(短編ドキュメンタリー)のノミネートといった形でrecognitionが与えられている。しかし「われわれ」(つまり「西側世界」)が与えたのはrecognitionだけで、それ以上は何もなかったのならまだしも、最終的には「フーシー派を止めるため」という名目で行なわれているサウジアラビア主導の空爆(病院なども攻撃されている)へのお墨付きを与えている。だから「西側世界」のわれわれにとっては、"We failed Yemen badly" である。しかし、イエメン国内で尽力し、米議会での証言までも行い、情報を外に出し続ける活動をしてきたイエメン人のアル=ムスリミさんが "We failed Yemen" と?

記事の先を読もう。2015年3月25日の夕方、自宅で行なわれていたいつものメンツでのミーティングを終えたあとのことを、彼はこう書いている。

Later in the evening, however, I received a warning, and then another. Well-connected people in the Western media were hearing that something massive was coming, and looking for the very few journalists who remained in the country to hire. "It seems you are right, Yemen has run out of miracles," wrote one Western editor, throwing back at me words I'd said just days earlier to Reuters.

It felt surreal, too much to suddenly believe. Perhaps I entered a state of denial, but there seemed nothing else to do but to continue acting like it was another normal night.

しかしその晩、もう少し遅くなってから、ぼくのところに1通の警告が来た。そのあとにもう1通。西洋諸国の報道機関で情報に明るい人たちが、何か非常に大きなことが近づいていると小耳に挟んで、イエメン国内に残っている非常に少数のジャーナリストと契約したいといって探しているのだった。ある編集長は「きみの言っていたことが正しかったようだ。奇跡続きだったイエメンも、もうここまでのようだ」と、そのほんの数日前にぼくがロイターの取材に応えて言った言葉をそのまま使って言った。

奇妙な感じだった。突然、信じろといわれても無理な感じがした。現実を受け入れられない状態に陥っていたのかもしれないが、またいつもと同じ平常の夜であるかのように行動し続ける以外には、何もすることはないように思われた。

http://www.aljazeera.com/news/2016/05/failed-yemen-160511100609704.html


このころ、何があったかを、ウィキペディア(日本語版)から引用してみておこう(なお、引用部分は、ウィキペディア内での細かいリンクの文言を削除するなど、適宜編集してある)。

2015年1月22日 - イスラム教シーア派武装組織のフーシがクーデターを起こし、ハーディー暫定大統領とバハーハ首相が辞任、政権崩壊(ハーディーは2月21日に辞意を撤回)。

2015年2月6日 - フーシが議会を強制的に解散し、暫定統治機構として大統領評議会を開設し、「憲法宣言」を発表。

2015年2月21日 - ハーディー暫定大統領が辞意を撤回、フーシ派との対立が開始。

2015年3月25日 - フーシ派がハーディー暫定大統領の拠点である南部の港湾都市アデンへと進撃し、ハーディー暫定大統領は大統領宮殿からボートで脱出。フーシ派がハーディー暫定大統領の捕縛に2000万イエメン・リアル(約1100万円)の報奨金をかけ、行方を追う事態となった。

2015年3月26日 - ハーディー暫定大統領を支援するサウジアラビアなどスンナ派のアラブ諸国が空爆を開始。フーシ派はイランが支持し、スンナ派対シーア派の構図の内戦となった。


アル=ムスリミさんは、2015年3月下旬の空爆開始を、サヌアの自宅で迎えた。

ぼくは姉と居間で、これからどうしようかという話をしていた。最初の爆発は、ぴったり午前0時のことだった。

言いかけたことを言い終えもしないうちに、2番目の爆発があった。ぼくは飛び上がって部屋の向こう側に逃げた。近所一帯から、ガラス窓が砕けて落ちる音が聞こえた。

戦争だ。考えることもほとんどなく、直感していた。姉があざ笑っていたが、怖いという気持ちを隠すこともできなかった。

今までとは違う残忍さをもって、イエメン全土で暴力がエスカレートしていった。ヤヒヤは地元のテレビ局のニュース・チャンネルの仕事で戦闘を取材するため、前線に向かった。

フーシー派はサヌアで大量逮捕を開始し、ハシェムほか大勢の人たちを投獄した。

サウジアラビアが主導するアラブ連合軍が、ぼくのフラットの周囲の町を爆撃することは常態化していた。爆風で割れた窓ガラスの破片が家の中に吹き込んでくるので、それを避けるために、ぼくはトイレと台所の間を結ぶ狭い廊下で寝るようになった。

誰もが怖がっていた。女の人たちは、娘に寝るときはジーンズを履いて寝なさいと言っていたという。寝ている間に建物が崩れて降りかかってきた場合に備えて。

これは戦争だった。そしてそれは、すべてのものとすべての人の中の、最も醜い部分を表に出してきた。何週間か爆撃が続いたあと、上司がぼくに退避するようにと電話をかけてきた。ぼくの側からは、英雄的な抵抗は出なかった。

その頃には、ぼく自身にも、ここを去る理由が整っていた。実際、その前の数日間は、昼も夜も、フーシー派に特に根拠もなく投獄されてしまった友人や親戚の釈放の交渉にあたっていた。

最後の夜のことは、よく覚えている。

最初は、時間がすべての意味を失ってしまったようなぼやーっと霧のかかったような心理状態だった。

しかし、その霧が晴れていくらか焦点があい始めると、そうだった、荷造りしなくちゃならないんだった、と思い出した。

ルールは単純だった。持っていけるかばんは1つだけで、それも大きすぎて持ち歩けないなどということがあってはならない。それに、必要な場合は、その荷物を持って走らねばならない。

持っていくものを時間をかけずに選んだ。イエメンのユダヤ人が手作りした古いイエメンのネックレスにノートに薬、着替えの服。

それで全部だった。

今までに自分がしたことのある中で、最もつらいことだった。ぼくは強制的に出て行かされつつある。自分の故郷から切断されつつあるのだ。

ふたたび戻ってこられるまでにどのくらいの時間がかかるだろう。1週間か、1ヶ月か、それとも何年もか。

空爆と空爆の合間を縫って少し眠った。早朝、自宅の部屋をすべて回り、そのありさまを記憶に焼き付けた。以前には気づかなかった細部に初めて気づいたりもした。

突然、自分の本のコレクションが新たによく思えてきた。壁にかかっている絵や写真も、机の上の書類も、前回旅行に出たまま荷解きしていないスーツケースも、ほこりをかぶった台所の棚も、村の農園から母が送ってきてくれた新鮮な果物も。

頭の中を、あまりに多くの疑問が駆け巡った。しかし、疑問のための時間などないし、その答えがあるとしても特に聞きたいわけじゃない。アデン湾を渡ってアフリカへ、あるいは欧州へ、または中東のどこかへと、友人の多くが逃げていった。ぼくもその1人になるだけだ。

ぼくらは幸運なほうだった。ぼくが後に残していく12人近くの友人・同僚は、この1年間のフーシー派の砲撃や連合軍の空爆で重傷を負ったり、殺されたりしていた。ほかに、フーシー派の地獄のような監獄のなかで、かろうじてまだ息はしているが朽ち果てつつあるという人たちもいる。

先週、フーシー革命委員会のメンバーのひとりが、ハシェムのことをFacebookで公然と脅した。フーシー派への批判をやめろ、というのだ。

この1年ずっと、ヤヒヤはカメラを持って国のあちこちに行き、戦闘を撮影し、戦争の死と破壊を恐ろしい映像にとらえてきた。メッセージをやり取りしていたが、そうするうちに、彼がいかにフラストレーションを抱えるようになってきたかがわかった。「暴力が広がっていた。国は崩壊しつつあった。そして政府はそれを止めるために何もしていなかった」

一度、彼がHadhramoutからメッセージを送ってきたことがあった。ぼくに向かって、スクリーン越しにほとんど叫んでいるようだった。アルカイダが乗っ取りつつある、テレビ局や新聞をアルカイダが運営している、社会を彼らの型にはまるものに作り変えようとしている。


イエメンでいう「アルカイダ」は、AQAP(アラビア半島のアルカイダ)である。
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ME_N-africa/AQAP.html

AQAPは、元々は、90年代にアフガニスタンに行っていたアル・ウハイシという男(1976年生まれ)によって組織された集団が大きくなったものだ。公安の解説ページによると、彼はアフガニスタンを出たあと、2001年にイランで拘束され、03年にイエメンに身柄を引き渡されて政治犯収容所に入れられたが、06年に脱走して07年にAQAPの前身組織を立ち上げた。09年1月にサウジアラビアの組織が合流して現在のAQAPが成立。2010年にはアル=ウハイシは国連の制裁リストにも掲載された。

同じページによると、AQAPは:
「アラブの春」をめぐる動向
AQAPは,2011年1月から「アラブの春」に影響を受けたとみられる反政府運動に乗じる形で,その関連組織「アンサール・アル・シャリーア」(AAS)とともに,2011年5月にイエメン南部のアビヤン州都ジンジバル市を占拠し「イスラム首長国」設立を宣言したことを皮切りに,支配地域を獲得・拡大した。これにより,AQAPは,2012年6月にアビヤン州及びシャブワ州の支配地域を奪還されるまで,軍・情報・治安当局関係者に対するテロ攻撃によって社会不安を醸成するとともに,通常戦闘やゲリラ戦闘による支配地域拡大に力を注いでいた。

AQAPは,支配地域を失った後,「サヌアや他の都市で,軍・治安当局関係者に対する攻撃を行う」と宣言し,首都サヌア市のほか,アビヤン州及びアデン州を始め,イエメン南部全域で爆弾,銃撃などによる攻撃を活発化させた。


また、フーシー派との関係は:
ルバイシは,2011年12月,ウェブサイトに掲載された録音声明において,「我々は,シーア派の反乱勢力がサアダ州ダマジ地区で,数か月にわたって我々の人々を支配していることに悲しみを覚えている。我々は同地域の表土から,こうした有害な病原菌を排除するためのジハードを宣言する」と述べた。この後,AQAPは,「フーシー派」に対する攻撃を自認する声明(2012年2月)や,「スンニ派を殺害している『フーシー派』を含む全ての勢力と対話している」として中央政府の対話姿勢を非難する声明を発出(同年3月)した。また,AQAPは,「フーシー派」が2013年10月,スンニ派のサラフィー派部族を攻撃したことに関し,同年11月,サラフィー派部族と団結し,「フーシー派」に報復する旨宣言した。

2014年9月,同派が首都サヌアを占拠し,イエメン南部への侵攻を開始したことを契機に,AQAPは,同派に対する攻撃を繰り返したほか,同国内のスンニ派イスラム教徒に対し,「フーシー派」への攻撃を呼び掛けた。特に,ウハイシによるとされる声明及びAQAP軍事司令官カシム・アル・リミによるとされる声明(同年11月)では,「フーシー派」がイラン及び米国と連携していると主張し,同派に対する更なる攻撃の強化を宣言した。


……というわけで、AQAPは2011年の民主化要求とサレハ大統領(当時)への退陣要求の非武装大衆行動(平和的デモ)の前からイエメンを拠点として、主にイエメン政府とアメリカを標的とした活動をしていたのだが、そこに2011年以降の動乱が起き、AQAPと同じくずっと前から存在してきたフーシー派の武装勢力が活発になると、両者の間での争いも起きるようになり、つまりイエメンは政府とフーシー派とAQAPが入り乱れて戦っているところにサウジアラビアなどの連合軍が空爆を行なうというふうになってしまった。その後、赤十字もろくに動けず、MSFの病院も爆撃され、道路は寸断されていて食料が輸送できず、イエメンからは飢餓のニュースも伝えられるようになっている。

そういう状況に向かう中で、外国人は国外に退避していった。イエメン人でも国外に出られる人は出て行ったのではないかと思う。2015年3月に空爆が開始されるまでのしばらくの間には、イエメンに滞在する外国人の引き上げのニュースや空港閉鎖のニュースも相次いでいた。アル=ムスリミさんはその段階ではサヌアに残っていた。

その彼が、今、サヌアを後にしたのだ。

彼の文章はまだ続いている。

この1年、数千人のイエメン人が殺され、数万人が負傷させられ、数百万人が飢餓すれすれのところに押しやられ、家屋も学校も、病院も、橋も、道路も、発電所も、すべての形態の開発・発展が破壊された。

しかし、ヤヒヤの中で何かが壊れたのをぼくが感じ取ったのは、今年になってから、タイズの街でムハメド・アル=イエメニを、フーシー派のスナイパーが殺したときだった。ムハメドはジャーナリストで同僚だった。それまで、ヤヒヤは自分がしてきたこと――「メディア」の中でしてきたこと――を信じていた。それが崩れ去ってしまったのだ。

撮影を続けることに何の目的も見出せなくなってしまった。数週間前、ヤヒヤはFacebookで、カメラマンとしての仕事をやめ、フーシー派との戦闘に加わるための戦闘ユニットを結成したと告知した。ヤヒヤのFBのページは、かつてはイエメンからの主要な情報源だったが、それを彼は、戦いたいと思っているフラストレーションを抱えた若者をリクルートするための拠点として使うようになった。ほどなく、彼はその戦闘ユニットを国軍に登録し、若い薬剤師や技師、ライターなどを募集するようになった。

今週、最初のユニットが研修を終えて、実戦に加わる準備を整えつつある。

これでぼくはぼろぼろになってしまった。ぼくの心も灰になった。未来が突然、その光明を奪われたかのようだった。ヤヒヤは将来有望で熱心なジャーナリストだったのに、その彼が平和への希望を失い、暴力の中に身を投じた。それだけではなかった。そのことがあってぼくは、この戦争が始まって1年が経過し、イエメンの若者に残されている選択肢がいかに少ないかということを、改めて思い知ったのだ。

2011年、部族の人たちや戦闘員は銃を家に置いて、当時のアリ・アブドゥラ・サレハ大統領に対する平和的抗議行動に身を投じた。

そして現在、イエメンの文筆家や詩人、画家たちは、想像力を発揮する道具を置いて、その代わりに戦闘のための鋼鉄(武器)を手に取っている。サヌアの街に空爆が雨あられと降り注ぐようになって1時間後、仲のよい友人にメッセージを送ったことを覚えている。ぼくは「もしぼくたちが、ひとつの新しい世代として、イエメンのために何もできなかったと確定したとしたら」と尋ねた。

友人をそれ以上ヘコませないようにしたかったのだろう、その友人はこう応えた。「そうかもしれない。けど、いずれにせよ何もできることはなかったのだということも忘れないようにしよう」。そのときはぼくには楽観的な部分があり、ぼくは彼の答えを受け入れることを拒んだのだった。

しかし1年が経過した。もうそろそろ認めなければならないだろう。ぼくらは何もできなかったのだ、と。そして、この正気を失った戦争を止めることに成功しない限りは、ただ何もできなかったというより、とてつもなくひどい形で何もできなかったということになるだろう。


ヤヒヤにカメラを捨て、銃を取らせた1人のジャーナリストの死。彼の名前でウェブ検索すると、ユネスコのサイトにDGの声明が掲示されているのが見つかった。

30.03.2016 - UNESCOPRESS
Director-General deplores killing of journalist Mohammed al-Yemeni
http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/resources/news-and-in-focus-articles/all-news/news/director_general_deplores_killing_of_journalist_mohammed_al_yemeni/

“I condemn the killing of Mohammed al-Yemeni,” the Director-General said. “Once again, I call on all parties to respect the civilian status of journalists in keeping with the Geneva Conventions. Media workers must be allowed to carry out their work, which is particularly important in times of crisis, when information can help save human lives and facilitate dialogue.”

Al-Yemeni was a freelance cameraman. He was killed on 21 March while covering clashes in the city of Taiz.

The Director-General of UNESCO issues statements on the killing of media workers in line with Resolution 29 adopted by UNESCO Member States at the Organization’s General Conference of 1997, entitled “Condemnation of Violence against Journalists.” These statements are posted on a dedicated webpage, UNESCO condemns the killing of journalists.


ほかにもいくつかの「ジャーナリストの安全」に関するサイトや報道機関のサイトに彼の死のことは掲示されている(例えば英国のジャーナリストの労組)。

でも、彼の死によって、「記録し、伝えること」への信念を失ってしまい、カメラを置いて銃を手にしたジャーナリストがいることは、これらの記事には書かれていない。



先日のオバマ大統領の広島訪問について、アル=ムスリミさんがツイートしていたこと。




これに対するリプライで、「広島の被爆者に謝罪はしていないよ」という指摘はあるが:




森さんとオバマ大統領のこの「抱擁」の写真は(そしてNYTのあまりよく書けているとはいえないキャプションは)、「謝罪」を思わせる。(NYTが、140字のフィードの中で情報操作するのはいつものことだが、森さんが被爆米兵の特定の活動をしてきたこと、大統領がそれに「感謝の意」を表したことを、もっとはっきり書くべきだ。)

27日、ホワイトハウスのサイトでの生中継でオバマの「口先だけのきれいごと」(すばらしいスピーチだったが、いつも持って歩いている「核のボタン」を広島にも持ってきていたなどの現実と合わせてみると、申し訳ないけどそうとしか評価できない。ただしその「口先だけのきれいごと」はこの人じゃなければ言えなかっただろうし、「口先だけ」でも実際に広島に足を運んで語ったという意義は大きいと思う)を聞きながら、「こういう白々しいきれいごとを説得力があるかのように聞かせることができる能力は、この人はとても高い」と思いつつも本当に釈然としなかったのは、「核は悪」という主張の裏に「核でなければ悪ではない」という言いぬけの穴がひそんでいるということを、美しい言葉の中に、改めて感じさせられていたからだ(「どんな言葉・用語を使っていなかったか」を検討すると興味深いだろう)。大量破壊兵器による都市への攻撃が「悪」なのは、シヴィリアン(文民・民間人・非戦闘員)への無差別な攻撃、disproportionateな武力の行使だからではないのか? 核であろうとなかろうと。本当に「平和」を考えるなら、「平和のための核兵器廃絶」を考えるなら、そこからスタートしているはずだ。しかしオバマはそうではない。







イエメンでは、ジャーナリストが活動を続けても無駄だと判断して武器を手にしたり、国外に脱出したりしている。

一方で、イエメンからの報道が高く評価されているというニュースもあったばかりだ。英国で、アイオナ・クレイグさんがオーウェル賞を受賞した。2014年12月までイエメンを拠点としてきたジャーナリストだ(その後も、内戦の局面に入ってから取材に入っている)。ちなみにクレイグさんは女性だが、「イスラム世界の女性記者だから女性の取材だけをしている」とかいったことはない。











※この記事は

2016年05月31日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼