kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年04月24日

イースター蜂起から(日付上の)100年にあわせ、ダブリンでシン・フェインが党大会を開催

今日、4月24日は、アイルランドのイースター蜂起開始から100年の記念日である。といっても、アイルランド共和国での「100周年記念行事」は、毎年の記念式典と同様に、宗教的祝祭の日である「イースター」に合わせて行なわれたため、既に書いた通り、3月の間にもう終わっている。アイルランド共和国が宗教色の薄い国家だったならば、そのような記念行事も「イースター」に合わせてではなく毎年4月24日に行なわれていただろう。

100年前、1916年4月24日は、イースター・マンデーだった。対英武装蜂起を準備してきた武装勢力(アイリッシュ・ヴォランティアーズ、つまりアイルランド義勇軍など)はこの日、放送設備のあったダブリンのGPO (the General Post Office) を占拠した。しかし実はこの蜂起は、武器調達の不備(ロジャー・ケースメントの逮捕)といった事情により、直前の日曜日に中止命令が出ていた。そのため、予定していたよりずっと少ない人数で圧倒的武力を有する英軍に対して決起してしまうことになった反乱軍は、「アイルランドから英国を撤退させる」にはまったく及ばず、月曜日に始まった蜂起は金曜日にはほぼ鎮圧されていた。……といった経緯は、ウィキペディアの日本語版でもかなり詳しく書かれているので、そういったページをご一読いただきたい。

GPOに立てこもっていた蜂起の指導者たちは、28日金曜日に壁に穴をあけて、近くの長屋作りの商店街の一軒に逃れた。この商店街が「ムーア・ストリート」で、蜂起指導者たちが逮捕前に最後に身を置いたのが16番地(魚屋)だった。ダブリンの中心部にあるこの通りは、現在でも、「ダブリンで最も古い野菜・果物の露天市」が立つ通りとして知られているが、1990年代の「ケルトの虎」の好況期(不動産ブーム)に再開発計画が持ち上がり、以降、経済が失速しても、破綻してIMF/EUのベイルアウトを受けることになっても、その再開発計画は生きながらえていた(市の中心部なので、そうなることはわからんでもない)。その計画では、「古い長屋作りの商店街は取り壊し、近代的な建物を建てる」ことになっており、すなわち、イースター蜂起の最後の記念地が、取り壊されることになる。

これに対し、「ムーア・ストリートを守れ」というキャンペーンを主導したのが、1916年の共和国樹立宣言署名者の親族(子孫の代だが)やナショナリスト政党のシン・フェインで、そのキャンペーンが奏功し、行政がムーア・ストリート16番地を「国の史跡」として保存・保護することを決定したのが、今年3月だった。ただし、どうやらこれにも抜け穴があるようで、長屋作りの建物のうち16番地は保護されるが、それ以外は……といったあたり、雲行きが怪しそうだ。詳細は3月20日付のガーディアン記事を参照:
http://www.theguardian.com/world/2016/mar/20/dublin-moore-street-protesters-easter-rising

ともあれ、こうして「英雄たちの記念すべき場所」であるムーア・ストリート16番地を取り壊させないというキャンペーンを成功させたシン・フェインは、今年の党大会を、イースター蜂起の開始された4月24日に一番近い金・土(つまり22日金曜日と23日土曜日)に、ダブリンで開催した。今年の標語は、Join the Rising. ウェブサイトは次のように、「蜂起の英雄たち」を配したデザインになっている。

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※画像クリックで原寸大のキャプチャを表示。



今年のシン・フェインの党大会は、全部ではない(ようだ)が、RTE(アイルランド共和国の公共放送)で(たぶん映像なし・音声のみ)で中継され、党のサイトでも中継されていた。

1日目、22日(金)はマーティン・マクギネスのキーノート・スピーチがあり、北部6州(北アイルランド)の政治家たちによる「和平」に関する動議などがプレゼンされ、採択された。

2日目はアイルランド共和国の内政(福祉・社会保障、水道料金、ホームレス問題など)についてのスピーチで、党の外からそれらの分野で活動をしている団体の代表など、普段国政の場で発言権を持たない人たちが発言し、35年前の1981年の今頃、ロングケッシュ(メイズ)刑務所で断食して2ヶ月を迎えようとしていたボビー・サンズの日記の朗読が行なわれ、シン・フェインとは連帯の関係にあるバスクの独立派、バタスナ(それぞれ武装勢力はIRAとETA)のアルナルド・オテギが登壇した(バスクは、2006年にシン・フェインなど「北アイルランド和平」の当事者が関わる形で和平プロセスが開始されていたが、オテギは2007年にスペイン当局に拘束され、2008年に釈放されたものの、2009年に再度逮捕されて2016年3月1日に釈放されたばかり)。そのあと、党大会の締めくくりに党首、ジェリー・アダムズのスピーチが行なわれ、最後にアーマー州(北部6州)のクロスマグレンの若い姉妹によるアイルランド国歌(兵士の歌)で幕を閉じた。

「北アイルランド和平プロセス」が進行していた間は、シン・フェインは「イースター蜂起から100年となる2016年までに、統一アイルランドを実現する」という目標を掲げていた。むろん、ことはそんなにスムーズに進行するわけもなく(それがスムーズに進むのだったら、そもそもアイルランドの南北分断はなかったに違いない)、変な諦念とかじゃなくまともな意味での「現実主義」に照らし、シン・フェインの「語ること(言葉遣い)」も変化・変容してきた。Brits out的なあれかこれかの二元論ではなく、より包括的なアプローチを言葉にして語るようになった。その点は、またいずれ、時間をかけて見ることにしたい。

今回の党大会は、RTEでも放送されていたので、Twitterはずいぶんと「野次馬」が多かった。シン・フェインを「野次る」外野といえば、かつては北アイルランドのユニオニスト政党・武装勢力やSDLPだったが、アイルランド共和国の国政にがっつり絡むようになった(そのことを、FGもFFもなかなか認めようとしていないが、事実は事実である)今では、アイルランド共和国の人たちの比率が高い。

そういった点を確認できるよう、シン・フェインの2016年党大会のハッシュタグ、#SFAF16 (Sinn Fein Ard Fheis 2016) のツイートを、全部アーカイヴしてある。例によって「可読性」などまったく考えていない、ただの「ログの保存」である。

Sinn Fein Ard Fheis 2016 (1) ←マーティン・マクギネスのキーノートはこちら
http://chirpstory.com/li/312774
※収録ツイート件数は、1600件近く

Sinn Fein Ard Fheis 2016 (2) ←ジェリー・アダムズのスピーチはこちら
http://chirpstory.com/li/312776
※収録ツイート件数は、600件ほど

アイルランド共和国からみれば、シン・フェインのナショナリズムはいかにも古めかしく、化石じみているかもしれないが、うちらにとっては「(大部分がアメリカでつむがれ、語り継がれてきた)アイリッシュ・ナショナリズムの《物語》」、「アイリッシュ・ナショナリズムの歴史観(ナショナリスト史観)」という点において、非常に興味深い。特にジェリー・アダムズのスピーチは、そのこってこてのベルファスト・アクセントともあいまって、独特の「音楽」を奏でる。

アイルランドにはすべてがある、と岡村昭彦は言っていた。

……なんていうと、ロマンティシズムに傾きすぎているように聞こえるかもしれないが。

タイミング的に、北部6州では地方選挙(ストーモントの北アイルランド自治議会の選挙)を控えてはいるが、アイルランド共和国のほうでは総選挙が終わったばかりで、アダムズのスピーチには政治的なスコア・メイキングの気配(「煽り」)はあまり感じられなかった(むろん、「シン・フェインとは絶対に組まない」という態度を何より第一にしているFFへの批判はみっちりとなされていたが)。その分、「ナショナリズム」、「シンボリズム」がわかりやすかったように思う。

100年前、「4月24日に、ダブリンへ」は、英国の支配から脱するために武器を手に取った人々の合言葉だった。今もそれは、ナショナリストの《物語》として、生きている。



Oh, I am a merry ploughboy and I plough the fields all day
Till a sudden thought came to my head, that I should roam away
For I'm sick and tired of slavery since the day that I was born
And I'm off to join the IRA and I'm off tomorrow morn

And we're all off to Dublin in the green, in the green
Where the helmets glisten in the sun
Where the bayonets flash and the rifles crash
To the rattle of a Thompson gun

I'll leave aside me pick and spade, I'll leave aside me plough
I'll leave aside me horse and yoke, I no longer need them now
I'll leave aside me Mary, she's the girl that I adore
And I wonder if she'll think of me when she'll hear the rifles roar

...

http://www.azlyrics.com/lyrics/dubliners/offtodublininthegreen.html








※シン・フェインのサイトで音声で聞けると思います。
http://www.sinnfein.ie/

※この記事は

2016年04月24日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:53 | TrackBack(1) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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武力から言語環境
Excerpt: 物理的な力である武力が、社会構造に埋め込まれ、経済に埋め込まれて、文化を形成し、言語環境を作り出していったといえます。
Weblog: 哲学はなぜ間違うのか
Tracked: 2016-04-29 20:20





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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