「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年04月22日

【訃報】プリンス

目を丸くして「え? えええ? え? ええーっ?!」と画面を見つめ、「なんでなんで」と言ってた感じで、基本的に(プリンスのホームであるアメリカではなく)イギリスのBBCの報道のフィードと、ほかいくつか、いつも見てるリストで見たものなどを集めただけですが:

プリンス(アーティスト)の突然の訃報に、「ちょ、マジで2016年……」の声
http://matome.naver.jp/odai/2146126683915699501


表題の件での(確実な)情報の共有と、トレンド入りしていた "seriously 2016" での人々の感情の共有。Twitterはこういうとき、真価を発揮しますね。マイケル・ジャクソンが亡くなったときは2009年のイランの動乱のさなかで、イラン国内からも、イランの宗教政治を逃れて亡命した1979年の革命家たちからも、アメリカやイギリスや日本の人たちと同様に追悼の声が上がってて、それによって、新たに1つの面が可視化されてたと思います。ただ、「音楽のジャンル」が細分化し、「みんなが知ってるヒット曲」がどんどん少なくなり(私も「ヒット曲」は聞かないし、もうほとんど知らない)、日本では特に「洋楽」なんか聞かないよっていう人がメインストリームになってくるにつれて、元から共有される可能性のあるものが狭まってきていることも確かで……でもプリンスという人は「音楽のジャンル」というくくり方を無意味にしようとしてた人ですよね。とか、ほんといろいろ。

プリンスは、いろいろあってオンライン・ストリーミングでは楽曲を提供しないという方針を取っていて、「YouTubeで検索して出てくる映像を埋め込む」ようなことはこういうときにすべきではないと思うので(人々のツイートを見てても、YTのクリップが流れてくることはほとんどなかった)、上記の「まとめ」にはほとんど音楽クリップは入っていないのですが、それでも、プリンス以外の誰かが権利を持っててアップロードされている本人のライヴの映像は入れてあります。NFLが権利を持ってるスーパーボウルのハーフタイム・ショー(2007年)のとか、Rock 'n' Roll Hall of Fameでのすさまじい演奏の映像とか(スティーヴ・ウィンウッドがオルガンにいるんだけど、途中からその音がまったく聞こえなくなる……音はしてるんだけど、耳が行かなくなるという、ちょっとありえないような演奏)。

あと、映画Sign o' the Timesのトレイラーも入れてあります。

合掌

※この記事は

2016年04月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:53 | TrackBack(0) | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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