「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年04月19日

「私たちの求めるウェブ」のために。

先日、Twitterが「最初のツイートから10年」ということで少し話題になったが、記事の「コメント欄」やSNSが定着し、「当たり前化」したのは、ここ10年内のことだ。

「ウェブログ」と呼ばれていたものが「ブログ」というより短い名称で定着した「Web 2.0」の時代、英語圏では(日本語圏のことは私はよく知らない)、新聞社のサイトの各記事のページにも、一般に広く使われている「ブログ」(当時は英語圏ではBlogger, WordPress, Live Journalなどが広く使われていたし、MySpaceも「ブログ」として使うことはできた)と同じような「コメント欄」が設置されるようになった。記事を書いた人に、記事を読んだ人が直接、簡単に「感想(反応)」の言葉を(公開した形で)送信できるようになったことで、「編集」を介さず即時的な情報共有が行なわれ、「集合知」(および、もう少しあとの時代に「クラウドソース」と呼ばれていくもの)により、ただ単に新聞社の記事がそこにあるだけより、全体として、よりよいものができていくのではないか、という期待が、2000年代半ばにはとても高かったし、実際に「コメント欄」で有益な情報を得るという体験は、私も多くしていた。北アイルランドに関してはSlugger O'Tooleのコメント欄では、それがなかったら知ることができなかったであろうことをたくさん知った(「紛争地」のウェブ媒体では、「誰彼構わず、おまえの言っていることが気に食わないと殴りかかっていく」ようなスタイルを取る人はまずいなかったし、議論がヒートアップしたときに「プレイヤーではなくボールに行け」とイエロー・カードやレッド・カードを出す管理者のモデレーションがすばらしかった)。

あのころは、そのような「充実した情報空間」がそのまま維持され、定着し、発展していくと思われていた。私もそう思っていた。いわゆる "civil" な態度(日本の感覚でいうと「適切に丁寧語・敬語を使う」といったこと)は、知らない人と話をする場合にはリアルであれネットであれ大前提だったし、ときどき現れる「荒らし」は「相手にしない」という鉄則でたいがいは対応できた(自分のブログにも「荒らし」は出現して、げんなりするようなことはあったけれども)。「荒らし」のようなのは例外だ、ということは広く了解され、共有されていたと思う。

しかし実際にはどうだったか。

その点について、先週から英ガーディアンが意欲的なシリーズを始めている。

The Web We Want
https://www.theguardian.com/technology/series/the-web-we-want


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新聞社のサイトが記事にコメント欄をつけるようになった時代(がっさりと、今から約10年前)、ガーディアンはそれについて先進的でなおかつ徹底的な取り組みをしたメディアだった。ガーディアンのコメント欄では、多くの場合、有益な情報交換がなされていた。それは、例えばCIAの拷問について国際人道法という立場から批判的に検討している記事に対し「テロリストをかばうのか」などと噛み付いてくる人が(あまり)いない、というような、知的にある程度均質な読者層を抱えていたから、という事情もあっただろう。そういうのを読んでいると、私も自分にできる情報提供はしようと思ったし、そう思ったのは私だけじゃないだろう。ガーディアンのコメント欄は、その「議論の場」にいることで何かを得られる場だったし、何かを得たそれぞれの人が何かを提供するという「情報のエコ・システム」が機能していた。

ガーディアンに限らず、他のサイトでも、そのような「エコ・システム」が機能しているところはあったけれど、最も広範・非限定的な読者・閲覧者を抱えていたのは、私が見ていたサイトの中ではガーディアンだった。コメント欄は、投稿したあとでモデレーションが入ることはあるけれども(意味のない罵倒、茶化すだけの投稿の類は非表示にされる)、BBCのサイトのコメント欄と違って「モデレーターがチェックするまでは投稿は非公開」というふうにもなっていなかったし、オープンで風通しのよい雰囲気はあった。

だがいつしか、そのガーディアンのコメント欄も「荒れ」るようになった。元々「荒れ」やすいトピックというのはあったが、そうでないところでも、屁理屈、あげ足とり、どうでもいいまぜっかえしが行なわれ、陰謀論者が陰謀論を書き捨てていくようなことが多くなった。論説・意見のページ(Comment is Free)では、書かれていることの内容にではなく、書いた人に「意見」されることが目立つようになり、やがて、「コメント欄なんか見ても、何も有益なものはない」状態になった。一応、「よい」と思われたコメントはup voteできるようになってはいたが、私が見るようなトピック(国際ニュース)では、「組織票」めいた動きがはっきりしていることが多く、見るだけでげんなり、うんざりすることが増えて、やがては「コメント欄なんか見たってしょうがない」と言わざるを得なくなった。今自分のログを見ると、2014年夏にはそういうことを明確に書いている(その前も書いてるかもしれないが、自分のログを自分でさかのぼってて気分が重くなるので、それ以上先には行かない。ガーディアンのコメ欄がアレなことになったのは、2011年のリビア軍事介入が潮目かもね)。過去の発言をいくつか貼り付けておこう。




























































そして、そのガーディアンがコメント欄を大幅に縮小したことをはっきりと述べたのは、2016年1月末のことだった。

Online comments: we want to be responsible hosts
http://www.theguardian.com/media/2016/jan/31/comments-audience-censorship-criticism










同じタイミングで、音楽誌のQuietusもコメント欄撤廃を宣言した。



現行のThe Web We Want (WWW) という特集は、実は発端は1月末の「コメント欄大幅縮小」の記事にある。

ウェブでの情報交換/対話/議論といったものについて、関心が少しでもおありのかたは、このガーディアンの特集を見てみるとよいのではないかと思う。(ちなみに、TwitterであれFacebookであれ、そのほかのサイトであれ、アメリカに拠点がありアメリカで開発されているSNSは、ポリシーを策定しているのはアメリカの事例を前提にしているアメリカ人、それもほとんどが白人の男性だ、ということは、知っておいて損はない。別に悪意はないだろうけれど、彼らはアメリカの、というか広くても英語圏のことにしか目が届かないというのを前提としておくべきだ。)

シリーズThe Web We Wantが始まったときの私の連続投稿:



























マデリーン・マッカンというのは、2007年に3歳で行方不明になった女の子の名前。マデリーンが行方不明になったのは、「いい仕事をして高収入を得ている」一家がポルトガルで休暇を楽しんでいるときのことだった。英国では「誰かがつきっきりで面倒をみていて当たり前」の存在である3歳の幼児がいなくなるということは、「親が怠慢だから」という非難に直結する。実際、マデリーンが姿を消したのは両親がディナーを楽しんでいる間だったということで、「親が悪い」という大合唱が起きた。それもしつこく、何年にもわたって。

程度・範囲ということで言えば、あの「大合唱」のさまは、日本語圏での、例えば「暑いから冷蔵庫入ったwwwww」とかいって写真をアップしているアレな若者への非難と同じような感じだった。さらに、現地ポルトガルの警察官が、捜査に進展がみられないなか、英国のタブロイドを舞台にあることないこと語ってたというしょーもないおまけもついている。両親が、娘を見つけるためにかなりの費用をかけてキャンペーンを展開するなどしていたことも、「反感」をかき立て、ネット(というか「ネット世論」)的には、「両親が極悪人」ということになった。そういった「被害者バッシング」の言説のエコー・チャンバーになったのが、YouTubeのコメント欄とTwitterだった。YTのコメント欄なんかまじめに受け取ってる人は誰もいなかったかもしれないが、Twitterはそうではなかった。タブロイドを読んだ人が「感想」を言いあい、「絶対怪しいって」と口々に噂しあうエコー・チャンバーのなかで、憎悪は増幅された。

The McCanns were subjected to intense scrutiny and false allegations of involvement in their daughter's death, particularly in the tabloid press and on Twitter. They received damages and front-page apologies in 2008 from Express Newspapers, and in 2011 they testified before the Leveson Inquiry into British press misconduct, lending support to those arguing for tighter press regulation.

https://en.wikipedia.org/wiki/Disappearance_of_Madeleine_McCann


Nicola Rehling writes that the narrative around the disappearance was shaped by social media. Twitter, one year old when Madeleine went missing, was the source of much of the vitriol. Social media's attacks on the McCanns reportedly included threats to kidnap one of their twins, and when Scotland Yard and Crimewatch staged their reconstruction in 2013, there was talk of phoning in with false information to sabotage the appeal.

One man who ran a website devoted to criticizing the couple received a three-month suspended sentence in 2013 after leafleting their village with his allegations, and the following year a Twitter user was found dead from a helium overdose after Sky News confronted her about her McCann tweets. Eilis O'Hanlon wrote that the disappearance "could almost stand as a metaphor for the rise of social media as the predominant mode of public discourse."

https://en.wikipedia.org/wiki/Disappearance_of_Madeleine_McCann#Social_media


ガーディアンは、現在のThe Web We Wantの特集で、"toxic web" という強烈な言葉で現状認識を語っているが、webがtoxicになりうるということを英国で最初にまざまざと示したのは、マデリーン・マッカン失踪事件に関する「ネットの反応」だったと思うし、それはガーディアンのコメント欄が一番充実していた時期(2000年代後半)から始まっていた。

そのことをこの「インテリしか読まない媒体」はどう考えるのだろう、というかどう位置づけるのだろう、ということにも、私は関心がある。

※この記事は

2016年04月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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