「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年04月16日

ドイツで、トルコ大統領をバカにしたコメディアンが、トルコ政府の要請に応じて訴追されるかもしれない(ドイツ国内法で)。

https://twitter.com/nofrills4月15日(金)、英語圏の「国際」ニュース方面で話題になっていたのが、トルコのエルドアン大統領である(キャプチャ via kwout)。

トルコのエルドアン大統領といえば、昨今、あからさまに「表現の自由、報道の自由」に圧力をかけていることで「国際」ニュースを賑わしている。この3月には、政権に批判的だった有力新聞Zamanを政府が非常に強引に接収した(口実は「Zaman紙はテロ組織とつながっている」というものだった)ことが国際的に大ニュースになった(日本ではどの程度報じられていたのかは私は知らないが、3月12日付で朝日新聞の現地記者さんが当事者にインタビューした記事が出ているので、「なぜメディアは報じないのかー」とかいうことでは全然ない)。

Zaman紙の接収の前にもトルコでの報道の状況は悪化していた。またエルドアンは、首相だったころ(大統領になる前)からかなり強権的な態度を見せており、Twitterを遮断しようとすることも頻繁なら、米国籍を有するジャーナリストが国外追放にされたりもしている。それに、エルドアンであろうとなかろうとトルコでは微妙なトピック(アルメニア虐殺、クルド人のアイデンティティ)をめぐってはたびたび、言論・報道に関する事件が起きてきた。そこにもってきて「治安当局が非武装の民衆に対し催涙ガス」というような形で、有力新聞Zamanが強引に接収されたのだから、いやがおうにも関心は高まる。3月以降、English PENが『包囲下のジャーナリズム』と題する報告書(筆者はトルコのジャーナリスト)を出すなど、国際的に思想の自由・言論の自由・表現の自由・報道の自由を追求している諸団体や人々の目がトルコに注がれている。

そんな中で、4月15日にエルドアン大統領が注目されていたのは、トルコ国内でのメディア統制・規制よりさらに上を行くことが、欧州で進行していたためだ。

12日付のNYT記事によると、事のあらましはこうだ――ドイツのテレビで活躍しているコメディアンで、時事ネタ(風刺ネタ)が得意なJan Böhmermannさんが、数週間前、ドイツの公共放送ZDFでやっている番組でエルドアン大統領をネタにした詩を読み上げた。これが本人の逆鱗に触れたようで(なぜトルコまで伝わっていったのかはちょっとわからない)、アンカラではドイツの大使が呼びつけられた。事態はそこで終わらず、ドイツとトルコの外交問題になった。

ZDFは番組を放送後、オンラインで見られるようにしているが、当該の番組は一時取り下げて、問題とされた詩を削除した形で再度アップした。事はこれで収まらず、4月9日から10日の週末に、トルコ大使館が正式にドイツ外務省に対し、コメディアンのJan Böhmermannさんを、ドイツの法律に基づいて起訴するよう要請した。

ドイツには、ほとんど知られていない法律がある。「外国のリーダーを侮辱すること」を犯罪・違法行為とするというものだ(今回の騒動後、メルケル首相はこの法律を撤廃する意向を示している)。トルコ大使館はこの法律を使うよう、ドイツ外務省に要請したのだ。

NYTの記事の後半には、この法律について詳しいことも書かれているが、ここでは割愛する(最高刑は5年だそうだ)。問題は、「ドイツ国内でドイツ人が行使した言論の自由について、国家元首とはいえ外国人がいちゃもんをつけられるのか」と要約できる。





ドイツとトルコの間には「大人の事情」がある。ユーラシア大陸のアジア側からトルコを経由して欧州に入ってくる「移民・難民」たちのことだ。彼らを「難民」と位置づけないことも問題だし、「難民」は難民条約で保護することになっているのに、欧州に来る前にいたところに送り返すなどということをしようとしていることはとんでもないことだが、今はそのことには触れない。

その件に関し、ドイツはトルコと「よい関係」を築き、強化するようにしなければならない。(多分にアレな気質のある)国家元首を怒らせることは、ドイツにとって望ましいことではない。と、こういう話は下記のPolitico記事に詳しいのではないかと思う(私は「あとで読む」にしたままだが)。





この「コメディアンの詩」は、もちろんドイツ語で書かれているのだが、以前当ブログでも紹介したIndex on CensorshipのMapping Media Freedomのページに英語での概略が掲載されている。4月1日付なので、もう2週間前だ。
https://mappingmediafreedom.org/#/2133

それによると:
Böhmermann read out a profanous poem called Abusive Criticism in front of a Turkish flag on his show to highlight that this type of satire or criticism is not allowed in Germany. He acknowledged that he was being deliberately offensive. Many observers criticised Böhmermann’s poem as offensive for its use of crude Turkish stereotype and references to Erdogan having sex with animals.


つまり、非常に非常に下品なものだ。そういうのを「風刺」と位置づけるかどうかについては意見はいろいろあると思うが(ドイツ語がわからないので「詩」について評価することはできないのだが、私は個人的には、ここに説明されているような「自称・風刺」は「言ってる本人と身内だけがおもしろがっているもの」だと思うし、単に口汚くけなして言いがかりをつけているだけのものは、何も「風刺」などしていないとも思う)、このコメディアン氏の発想や表現は「自由」だというのは、ゆるがせにできない大前提だ。

しかし彼は、その表現(ふざけた詩という形式での、言葉による表現)により、罪に問われるべきである、というのがトルコ政府の言い分である。

それを突きつけられたドイツ政府はどう出るか……というのが今週の話題で、その結論が出されるのが15日(金)だったので、金曜日はエルドアンという名前が注目されていた。その名前がUKでTrendsに入ったのは、メルケル首相が件のコメディアンの訴追を認めるかどうか、結論を出したときだった。

首相の結論は、聞いた瞬間に「これはひどい」と言わざるをえないものだった。

Chancellor Merkel announced the government has given persmission for the prosecution to go ahead under section 103 of the criminal law, offence to a state representative.

https://mappingmediafreedom.org/#/2133


こうしてウェブはふき上がった。

































これは「多くの人々がいっせいに "Je suis..." と叫んで連帯の意を表明する」事案なのではないかと私などは思うのだが、"Je suis..." のブームはとっくに過ぎ去ったようで :-P 管見ながらそういう言葉は見かけない。今回のコメディアンさんは(ドイツ語が読めない私は英語になっている情報でしか判断できないので、「笑い」に重要な要素を見ていないかもしれないが)、ステレオタイプを使い、下品なくさしかたをするのが「風刺」だと主張しているというあたりも、シャルリーエブドそっくりなのだが。

ともあれ、この事態に、「風刺」の人たちが黙っているはずがない。









エコノミストさん、ぱねぇ。
(・_・) 特に4コマ目が。

KAL20160416.jpg

ソーシャル・メディアでの情報の伝達や広がり方について研究してきた@zeynepさんは、下記のように、いわば「ストライザンド効果」を生じさせるのではないかと指摘している。



その通りだろうとは思うが、問題は、それが「エルドアンはいい笑いものになる」という結果を生じさせるにしても、「エルドアンが政治的にダメージを受ける」という結果にはなりそうにもないということだ。トルコは「戦争」中である(対クルド)。それも、何年もかけて「和平プロセス」のムードをさんざん漂わせてきた挙句に、「それでは票が集まらない」とでも判断したのか、かなり唐突に180度方針を転換してPKKのエリアに空爆を行い、トルコ国内のクルドのエリアには苛烈な包囲戦を行い(報道写真を見たが、シリアのアレッポくらいの破壊。というか、写真をチラ見したときはサラエヴォかと思った)最近はPKKの分派だという組織がトルコの軍隊や都市を標的にした爆弾攻撃を行なっているという「戦争」状態だ。そんなときに、国家元首の足元が、「笑いものになった」くらいで揺るぐことはなかろう(ほかの例としては、近いところで、米国のGWBなども参照)。






あと、「我が国に対する侮辱である」と言って、ことを「外交問題」にしたりするという方向性は、今、リアルに恐ろしいと思っている。





↑↑この件↑↑、下記。



※この記事は

2016年04月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:40 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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