「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年04月14日

「Twitterカード」の自動表示と、「衝撃的な視覚情報」による不意打ちについて。

Twitterで表示変更がなされ、「Twitterカード」が設定されているURLを含むツイートでは自動的にその「カード」が展開され、URLを末尾に置いてツイートすると、そのURLが直接的には表示されなくなったということについて、昨日書いた。ツイート本文内にURLが表示されないので、そのツイートに付随して表示されている「Twitterカード」が真正なものなのかがわからないということについても、実際に「EFF.org」の「カード」を示しているツイートで、「カード」のリンク先は「フォロワー爆増」のアプリ(と称するもの)だったという実例を使って説明した

これらの問題点は、「スパム」や(「悪意ある」なんちゃらが仕込まれているURLがはられていた場合)「セキュリティ」に関するものだが、今回のTwitterの表示変更でもうひとつ、地味に困っていることがある。

何かのURLをツイートすると、そのURLに設定されている「Twitterカード」が自動的に展開されてしまうのだが、「国際」の分野であれこれ報道記事をTwitterに投げることが日常の自分としては、その「Twitterカード」に(うちらの感覚では)強烈な写真が設定されていることもあるということは、案外リアルに問題になる。

「強烈な写真」といえばイスイス団のプロパガンダがあるが、それに限らない。世界各国・各地で「メディアに出す写真」の基準がいろいろあって、日本は非常に厳しいと言えると思うのだが(死体や人体の損壊はほぼ絶対に見せないことになってるでしょ)、その基準が当たり前という人たちがネットでやたらと「グロ画像」だの「閲覧注意」だのというセンセーショナルに騒ぎ立てるばかりで人間の尊厳には一切配慮しない言葉遣いをするような写真が、報道記事のトップに普通に出てくる国・地域もある。カーボムが爆発したあとの本当にめちゃくちゃな現場の映像がテレビで流され、現場写真が新聞に掲載されるケースもあったし(レバノン)、クレーンを使って空高く吊るすという公開絞首刑の写真が普通に流れてくるケースもある(イラン)。今はもうその局面ではなくなっているが、シリアの「内戦」が「内戦」と呼ばれるようになるまでの間に「革命」派のメディアが「政権による暴力」(白色テロ)を記録し伝えようとしていたオンラインの各種媒体では、筆舌に尽くしがたい写真・映像が(多くの場合はgraphic imagesという注意書きを添えてはあったが)何点も掲載されていた。

そういう写真がある(かもしれない)記事を、自分からクリックして読みに行くときは「心の準備」ができているので、衝撃的な写真が出てきても、まあまあ対応できる(それでも無理な写真もあるけれど)。しかし、「普通の報道写真」や「ねこ写真」のようなものが流れてくるのを前提としているような場に、何の断り書きもなくいきなりそのような「衝撃的な写真」がばーんと流れてくるような、いわば「不意打ち」の形では、「心の準備」も何もない。

そしてそのような「不意打ち」で凄惨な写真を見せられたときの衝撃と「被害」の感覚(まさに「見せ《られた》」という感覚)は、心理的に大きな傷となることがある。

だからこそ、報道機関は「衝撃的な写真や映像(視覚情報)」を含むものにはその旨の注意書きを添えて情報を提供する(「ショックを受ける人がいるので、報道しない」のではなく)。

ただしこの「衝撃的な写真があります」という文言自体が「センセーショナリズム」そのものになっているケースもたくさんある。下記のように。





ここで「今日8度も流している」と指摘されているこの映像は、人が車に撥ね飛ばされる瞬間をとらえた防犯カメラの映像で、撥ねられた人が無事だったから公開されているとはいえ、めちゃくちゃ衝撃的だ。それについて「閲覧禁止」と書いた上で何度も何度も流すことは、ただの「見るなよ、絶対に見るなよ」の手法だろう。だが、多くの場合は(デイリー・メイルのようなセンセーショナリズム専門の媒体は別として)、「衝撃的な視覚情報」についての注意喚起は、純粋に、「うっかり見ないほうがいいですよ」という意味のものだ。

つい笑ってしまったのだが、つい先日、BBCは16世紀の絵画についてまで、「ショッキングな視覚情報」の注意書きをしていた。「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)のプロパガンダが当たり前になった後の世界は、旧約聖書を題材にしたカラヴァッジオ(伝)の作品までトリミングする。



この記事↑のBBCの「Twitterカード」はこんなふう↓。





一方、ガーディアンの「Twitterカード」は、そういうトリミングなし。(ただしここでは「カード」は非表示にしておくので、見たい方は記事のURLをクリックしてください。)




この絵の場合は、16世紀の絵だし、あらかじめカラヴァッジオ(かもしれない)とわかっているから、ISISがラッカを掌握したあとにSNSにがんがん流しまくっていた「生首陳列写真」を何度も何度も見せられて心底うんざりしきっている自分でも見ても大丈夫だったが、「カラヴァッジオだ」とか「ユーディットだ」とかいったことを前もって知らずにいきなりこの写真(絵)だけ見たら、トラウマタイズされていたかもしれない。美術館に「江戸末期の粋な浮世絵(錦絵)」を見に行ってふふんふふんと楽しんだあと、順路に沿って進んだ部屋でいきなり血みどろの無惨絵(無残絵)に遭遇したときにISISの「生首陳列写真」が頭の中に展開されて、早々にその展示室を出て、しばらく椅子に座っていなければならなくなったこともある。(ISISのプロパガンダを見せられる前は、無惨絵なんか、見ても「ただの絵」としか思わなかったんだけどね。話、ずれるけど、「マンガでの児童ポルノ」について「ただの絵だ」として取り合わない人たちが大勢いるってのは、これと同じことだと思う。)

さて、すぐ上でガーディアンの記事の「Twitterカード」を非表示にしてエンベッドしているように、Twitterの画面でも「URLだけ・Twitterカードなし」でツイートできるのなら、「リンク先には衝撃的な写真があります」などと書き添えて注意を喚起することができるのだが(そして、私はそうしたいのだが)、ユーザーには何らなすすべなく「Twitterカード」が自動的に展開されて表示されるようになってしまったことで、「Twitterを見ていると写真に不意打ちされる」という問題は、ますますひどくなった。(私がTwitter.comの画面を見ないことにしたのは、その問題が非常に大きい。)

「無法地帯」的な扱われ方をしていた2ちゃんねるでさえも、かつてそういう性質の「衝撃画像」は「精神的ブラクラ」と呼ばれ、ユーザー同士での「うっかり見るな」という注意喚起が行なわれていた。Twitterにはそういうセーフティ・ネットもなく、システム設計者はますますアグレッシブに「画像をあらかじめ表示させる」方向性を追及していく。以前、Twitterは音楽でいえばエレクトロニカの雰囲気があったのだが、上場以降はメインストリームのメタルみたいで、何かもうあーはいはいっていう感じがしている。派手にすれば人は集まるかもねー、的な。

実は、「Twitterカードの表示」についての今回の変更に気づいたのも、「自分のTwitterのページに何でこんな写真が展開されてるの」というものがあったからだ。

12日、お昼を終えてお茶を飲みながらYahoo! ニュースを眺めているときにAFP BBの配信記事が目に止まったので、AFP BBのサイトに飛んで、その記事をTwitterに流した。AFP BBの日本語記事は大変に短かったので、あとで原文を探してみようという意味での「メモ」でもあった(「殺人犯」が処刑されたのか、「ジャーナリスト」が処刑されたのか、どちらの面を重視した記述になっているのかが大変に気になった)。

同僚殺害のイスラム過激派系ジャーナリストを処刑、ソマリア
2016年04月11日 23:30 発信地:モガディシオ/ソマリア
http://www.afpbb.com/articles/-/3083637?pid=17751998

この記事ページのTweetボタンからフィードした結果が、下記である(いろいろ加工済み)。

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前項で述べた通り、日本語のTwitterカードが「最初の2文字しか表示されていない」(見出しにいたっては、このケースでは1文字だ。あまりにひどい)という、解消可能なのに放置され続けているばかげた問題ゆえに、単にこの写真だけがどーんと流れてきているように見える。

AFP BBはフランスの国際通信社AFPの報道を日本語化して流しているサイトだが、この記事には、日本の感覚では「報道写真」として掲載されえないような写真が使われている。この写真自体は「流血」の類ではないし、さほど「衝撃的」ではない。しかし見出しと記事によって与えられている文脈の上でこの写真について「考えた」場合(そしてその「考える」時間は、0.1秒もいらない)、この写真を見た者はしばらく停止せざるをえない。そのような「衝撃的な写真」だ。

自分で選択できるなら、この写真は私はTwitterには流さない。文脈を自分で作れるブログなら貼っていたかもしれないが、Twitterというのは徹底的に「文脈」を拒否する場だ。基本的に140字の断片が次から次へと流れてくるだけの場には「文脈」の居場所などないし、「文脈」がなければ語れないようなことについては、Twitterでは沈黙しなければならない。(←うっとうしいでしょうけど一応書いておくと、ウィトゲンシュタインの "Whereof one cannot speak, thereof one must be silent." です)

いきなりこの写真だけが表示されているということが起きて、私はしばらく考え込んでしまった。そのときの連続投稿が下記である。











さらにげんなりしたのが、下記の件だ。スティーヴン・フライという人は、英国ではメンタル・ヘルスについてのご意見番のような位置づけで発言などしているのだが(精神疾患の当事者でもある)、その人が人間の感情についてuglyという形容詞で上から目線で断罪しているという信じがたいことが実際に起きている(だから精神医療の専門家でもない人にそういうセンシティヴな問題の旗振り役をさせるなと……)。







スティーヴン・フライは、私は「ことばというものについて見事な技能を持っている芸能人」と思っていたし、先日のTwitterでの騒動(公的な場で昔から親交のあった映画『マッドマックス FR』の衣装デザイナーを「女浮浪者 bag lady」とおどけて呼んだことで大炎上し、その結果フライがTwitterを*また*やめた)のときは「身内のジョークだということもわからん人たちからやんややんや言われて気の毒」と思ったくらいなのだが、今回は完全に幻滅した。顔も見たくないレベルだ。(友人などへのアドバイスではなく)一般論として、こういうことを言える感覚の持ち主をちやほやすべきではない。

フライが批判されるバックグラウンドのひとつが、彼のプライベートにある。同性愛者である彼は「ゲイの(法的)権利」の獲得の段階が「同性結婚の実現」という形で一段落した今、結婚している。ウィキペディアにもはっきりとは書いていないのだが、同じ芸能界で活動しているそのパートナーはフライの30歳も年下で(ソース)、そのことでフライはいろいろと言われている(陰口をたたかれている。なお、これは「ゲイ差別」ではない。ヘテロセクシュアルでもホモセクシュアルでもそれだけ離れていたら、「話題」にはされるだろう)。個人的には、そんなのほっとけばいいじゃんと思うのだが(30歳年下のパートナーも、アラサーの立派な大人である)、芸能界ではジミー・サヴィルの本性暴露以降明るみに出たようなことが起きているといった点からの批判もある。そのような批判が妥当かどうかはさておき、今回「炎上」しているフライの発言は、ちょっとしたことに過敏に反応せざるを得なくなってしまった「子どものころに性的な暴力の被害を受けた人々」のことを「自己憐憫という人間の感情の中でももっとも醜いもの」に囚われていると断罪し、「大人になれ grow up」と怒鳴りつけるようなもので、それ自体が上に立っていなければできないような発言だ。自分を「一般人がうるさいのでTwitterをやめざるを得なくなった被害者」として憐れんでいる人物が何を言うか、という批判などが出てくるのは当たり前だろう。









こういった批判の「集大成」とでもいうべき論説記事がガーディアンに出ていたので、わたしはそれを一読してTwitterに流した。筆者は「フライは成功した中年男性でカネも持ってるから、発言に影響力があるだけ」と結論していて、その点については私は「うーん」と思っているのだが、論点の整理が的確でよい記事だと思った。あとでブログにしようと思ったときに参照しよう、的な意味でのツイートだ。





しかしこの「スティーブン・フライを批判する」記事でも、ガーディアンがフライの(いつものように得意げな、「違いのわかる大人の男」みたいな表情をしている)写真を使っていて(それ自体は普通の編集判断だろう)、その写真が「Twitterカード」として組み込まれている。

なので(上に埋め込んだものでは「カード」を非表示にしているが)、Twitterの画面で見ると、批判記事でまでこの「えらそうな芸能人」の顔を見せられるということになる。







それから、こういうのもちょっとどうなのかと思う。スクラブや歯磨き粉など日常的な化粧品に入っている合成樹脂性のマイクロビーズが環境汚染・環境破壊につながっているということで、米国では販売禁止から段階的に使用禁止とする法的な枠組み作りが行われているのだが、そういったことについて英国でも機運が高まっているという報道記事。しかし、「Twitterカード」では特定のメーカーの化粧品カウンターの写真で(マイクロビーズが入ってる製品としてわかりやすい写真ってのはこういうのじゃないと思うんだけど……)、的外れだ。




この写真に出てくるメーカーは「2017年までにマイクロビーズを使わないようにする」というコメントを出しているのだが、そのコメントで「マイクロビーズが使用されている」と述べられている製品は、この写真のような「化粧品カウンター」で買うようなものではない。

Microbeads of polyethylene (i.e microplastics) are small particles that are used as scrubs in three types of cosmetics products (exfoliants, cleansers, shower gel) for their unique cleansing properties and more gentle sensation.

http://www.loreal.com/media/news/2014/jan/l'or%C3%A9al-commits-to-phase-out-all-polyethylene-microbeads-from-its-scrubs-by-2017


というわけで「Twitterカード」でますます写真が《拡散》されるようになったあとのことを思うと、正直、気が重くなる。

こういうの、何か違うよね。

(基本的にシステム設計が「広告、マーケティング」に最適化されてるんだと思うけど……URLを入れたときに「Twitterカード」として表示される写真が、「報道写真」ではなく「製品の魅力的な写真」であることを想定してるんではないかと)

タグ:twitter

※この記事は

2016年04月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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