「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年04月03日

【訃報】ザハ・ハディド(この方は、イラクのモスルのことをどう見ていただろう)

もうずっと前のことのように感じられるが、3月31日に建築家のザハ・ハディドさんが急死したとのニュースがあった。私はTwitterを見て知った。Zaha Hadidという名前がUKのTrendsに入っていて、また何か受賞したか、あるいはテレビでドキュメンタリー番組でもしているか、あるいはカタールの2022年ワールドカップのスタジアム建設(強制労働の疑いがある)について何か発言したのだろうと思ったら、人々が「思い出話」をしていた。

私は建築のことは何もわからない。東京オリンピックは、基本的に興味がないので(と書くとまた「反日」と殴りかかってくる人がいるかもしれないので長々と書くが、オリンピック全般について興味がない。ただし2012年は好きな都市で開催されたので、開会式・閉会式は楽しく見た)、東京五輪関連のニュースも特に熱心には追っていない。だから私には、東京オリンピックとザハ・ハディドについての知識が著しく欠けている。あのニュースを熱心に追っていたら、この訃報も見え方・聞こえ方が違ったのかもしれない。

私がちょっとだけ見聞きしたことがあるザハ・ハディドは、「白人男性の世界である建築業界で、イラク人(つまりアラブ人)の女性として活躍した人」である(「東京五輪のスタジアムの人」ではなく)。

……と書くと「『アンビルト unbuilt の女王』だ、活躍なんかしてない」云々という苦言を生じせしめるかもしれないが、ザハ・ハディドはプリッカー賞をとった最初の女性建築家である。

英語圏で見ると、ザハ・ハディドという人のそういう面を、(東京五輪に関係なく)ストレートに見ることができるような文章などが多い。






ザハ・ハディドについてWikipediaを見てみようと思ったのは、訃報があったあとだった。イラク人で、ベイルートで学んで、1970年代に英国に移り、以後英国籍を取得し……といったことは、ウィキペディアを見るまでもなく、資料として見た記事にプロフィールとして書かれていたので知っていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zaha_Hadid

イラクに生まれて、70年代から国外を拠点としているということは、誰も何も言わなくてもだいたいわかる。「察する」っていうか、「それしか考えられない」。つまり、ご両親がサダム・フセイン政権下のイラクにはいられなかったのだ。

ウィキペディアにはこうある。

Her father, Muhammad al-Hajj Husayn Hadid, was a wealthy industrialist from Mosul, Iraq. He co-founded the left-liberal al-Ahali group in Iraq in 1932, which was a significant political organisation in the 1930s and 1940s. He was the co-founder of the National Democratic Party in Iraq. Her mother, Wajiha al-Sabunji, was an artist from Mosul. In the 1960s Hadid attended boarding schools in England and Switzerland.


あ。

お父さんは、バアス党のクーデターでつぶされたリベラル左派の政党の共同設立者。

そしてご両親とも、モスルの出身。

イスイス団が乗り込んでいって我が物としてしまったモスルの。

ザハ・ハディドは、モスルのニュースをどのように見ていただろう。モスルやニネヴェでの文化財破壊のニュースを。宗教主義者たちの「歴史の否定」を。

イラクは最近、「建築ブーム」に沸いていると聞く。サダム・フセイン政権下で無視されていた南部(シーア派の多い地域)にどんどん建物が作られているという。しかし、そこにはお決まりの「汚職、政治腐敗」がある。





ザハ・ハディドは、イラクには建築物を残していない。彼女のデザインがイラク国会の新しい議事堂に採用されていると報じられているが、まだ完成していない。これはご自身の目で見届けたかっただろう。




イラク首相も、突然の悲報にメッセージを出していた。











※この記事は

2016年04月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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