kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年03月27日

イースター蜂起100周年の記念式典と北アイルランド

先ほどまで、オンラインで全世界に公開されていたRTE(アイルランド共和国の公共放送)の生中継で、ダブリンでのイースター蜂起記念式典を見ていた。式典は毎年行なわれ、毎年RTEがリージョンによる制限をつけずにネットで中継しているが、100周年の今年は式典も拡大版、RTEの番組も拡大版だった。

式典は、コアの部分(大統領による献花、軍人による1916年の共和国樹立宣言の読み上げ、最後の空軍によるフライパストといった部分)は例年とあまり変わらなかったが、その後のパレードが拡大版で、軍だけではなく警察も、刑務所当局も、沿岸警備隊も、消防隊も、果ては救急隊までパレードに参加していた。救急車がパレードしてるのなんて、初めて見た。つまりは、アイルランドという国家が、「国のため」に保持している機動力が全部集合していたのだが、ここは中立国のアイルランドゆえ、ミサイルなどではなく、消防車や救急車や沿岸警備隊の救命艇がパレードしていたという次第だ(軍の装甲車は出ていた。アイルランド軍は世界各地の国連のPKO、特に地雷除去に参加しているので、国連の水色のベレー帽をかぶった退役軍人もパレードしていた)。

この100周年という大きな節目のイベントについての現地のツイートは、いつも見ている「北アイルランド」のリストをベースにしてアーカイヴしている。(現在、関係ないものを取り除く編集作業中だが、しばらくかかる。)
http://chirpstory.com/li/309321

ダブリンでは「国家」をあげての行事となったが、それと北アイルランドとのかかわりは、例によって、一筋縄ではいかない。ダブリンの式典を中継するRTEの画面にはマーティン・マクギネスの姿があったが(あと、SDLPの代表団も参列していたことはツイートされている)、シン・フェイン(の名称を現在に受け継いでいる政党)のトップ、ジェリー・アダムズは、例年のごとく、ベルファストのミルタウン墓地――「北アイルランド紛争」で死んだIRAのメンバーたちが埋葬されている墓地――でスピーチを行なった。「リパブリカン史観」全開の内容だ。


ブラック・マウンテンはこうなっているそうだ。





アイルランド共和国での式典で目立った言葉が「すべての人」、「インクルーシヴ」だった。その点についても、あとでまたちゃんと振り返りたいが、今は一休みしたい。

故イアン・カイル・ペイズリーの息子で、政治家になっているイアン・ペイズリー・ジュニアの双子の兄弟で宗教家のカイル・ペイズリーさんが、こんなツイートをしている。




※この記事は

2016年03月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:36 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼