kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年03月25日

イースター蜂起から100年。

何年か前までは、「2016年のイースターの時期は、私の視界はイースター蜂起100周年であふれるのだろう」と思っていた。しかし現状、イースター蜂起100周年関連は、多くが「あとで読む」の状態である。このエントリも「あとで書く」の状態で見切り発車でアップしている(→その後、最後まで書きました)。

というわけで今日は「グッド・フライデー」、イースターの週末の始まりである。次の日曜日が「イースター・サンデー」で、それからの1週間が「イースター・ウィーク」だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Easter_Week

「イースター」というと「欧米の春の行事」というイメージが強いのか、「イースター蜂起」という概念が通じないことがよくある。「プラハの春」について「古都の春は美しいのでしょうねえ」などとすっとぼけた反応があるのと同じような感じだ。「イースター蜂起」は、うららかな日差しの中、子供がうさちゃんの着ぐるみで卵型のチョコを食べているといったイメージとはまったく関係がない。

1916年、英国の支配下で約束された自治(ホーム・ルール)が第一次世界大戦を理由・口実に停止されたまま宙ぶらりんにされていたアイルランドで、イースター・ウィークに、(数としては少数の)武装主義者がダブリンで対英武装蜂起を決行した(決行直前に中止命令が出されたため、ダブリン以外の諸都市では大規模な蜂起にはならなかった)。目的はアイルランドの英国からの独立。今もディシデント・リパブリカンが掲げている「英国人はアイルランドから出て行け」という標語はこのころのものだ。

月曜日に始まった蜂起は、土曜日に武装勢力の降伏という形で終結。ダブリンは多くの街路が破壊され、反乱軍の側は82人の戦死者と1600人を超える負傷者を出し、英軍は157人の戦死者と300人以上の負傷者を出した。戦闘の巻き添えとなって落命した非戦闘員(一般市民)の死者は200人を上回り、負傷者は600人を数えた。ウィキペディアの日本語版がかなり充実しているので(百科事典にしてはちょっと詳しすぎるくらいだ)、興味のある方はご一読いただきたい。(なお、本段落の数字の出典はウィキペディアの日本語版である。)

蜂起の指導者たちは5月上旬に死刑を宣告され、銃殺された。それにより、「恐ろしい美が生まれ出た」――詩人のウィリアム・バトラー・イエイツはこの蜂起をうたった詩、Easter 1916で、そのように言語化した。"A terrible beauty is born".



上記は、イースター蜂起100周年の今年、アイルランドの公共放送RTEが制作したイエイツに関するドキュメンタリー(ボブ・ゲルドフが案内役)のために、「イースター1916」を読む……というよりそらんじる、リーアム・ニーソンの映像である。

心を打たれる。

「イースター蜂起」については、非常に評価が高いドラマがある。2001年に公開(放映)され、制作はBBC北アイルランドだ。主演(革命に身を投じるお坊ちゃん)はジェイムズ・ダーシー。原題はRebel Heartだが、邦題は『アイルランド・ライジング』で、日本版のDVDも出ている(DVDはテレビ・シリーズをかなりカットしてあるそうで、ストーリーの細部にちぐはぐなところがあるのはそのせいだとのこと。なお、DVDは今は中古しか手に入らないと思う)。下記は予告編。



B00260OPKSアイルランド・ライジング [DVD]
ARC 2009-04-21

by G-Tools


※ここにアイルランド共和国政府の行事予定を書く。
現政権が「われわれには実績がある」と余裕で臨んだ2月の総選挙の結果、どの政党もどう連立しても過半数を取らないというおもしろいことになってしまったアイルランド共和国政府は、「建国の礎」であるイースター蜂起から100周年という大きな機会を何年も前から準備してきたが、その行事に当たる首相が「次の人が決まるまでの暫定首相」の立場ということになってしまった。それでも行事そのものは予定通りだ。首相府のサイトに日程が掲示されている。
http://www.taoiseach.gov.ie/DOT/eng/Historical_Information/1916_Commemorations/Events/Centenary_Programme_2016_-_List_of_State_Ceremonial_Events.html

既に前段階の行事(旗の掲揚など)は行なわれているが、イースターの週末以降の行事は、土曜日(26日):
http://www.taoiseach.gov.ie/DOT/eng/Historical_Information/1916_Commemorations/Events/Centenary_Programme_2016_-_List_of_State_Ceremonial_Events.html

Centenary Programme 2016 via kwout
※一番右の欄のYes/Noは一般に公開されているか否かを表す。



日曜日(27日):


月曜日(28日):


……というようになっている。

これら政府主催のセレモニーのほか、ディスカッションや講演、展覧会などは多数企画されている。公共放送RTEのサイトに日程表としてまとまっている。
https://1916.rte.ie/

国家の行事はRTEが中継する。たぶんウェブでも見られると思う(毎年、GPO前での式典はRTEで中継されているし、私も見られるときは見ている。そして毎年、「アイリッシュ・リパブリック樹立宣言」を聞いて涙ぐんでいるのだが)。
https://1916.rte.ie/featured-reflecting/the-state-commemoration-of-the-1916-rising/

ベルファスト(北アイルランド)でもディスカッション、講演会などのイベントは21日から28日のFeile Belfastで行なわれている(エドワード・カーソン以降「親英派の巣窟」のように見えているかもしれないが、ベルファストは、ユナイテッド・アイリッシュメンのころから「反乱者」を多く生み出してきた。ここらへんも詳しく書き始めると書き終わらないので、先に行く)。
http://www.feilebelfast.com/

※ここにアライアンスの一件を書く。

で、これらとは別に、ダブリンのアイルランド大統領府(大統領は国家元首だが、政治には関わらない)も記念行事を行なうのだが、それに招待されているデイヴィッド・フォード北アイルランド自治政府司法大臣(アライアンス党)が招待を断わったということがニュースになり、ベルファストでは議論が起きている。
http://sluggerotoole.com/2016/03/21/justice-minister-declines-dublin-rebellion-commemoration-invite-citing-lack-of-reflection/

フォード大臣が招待を断わったのは4月に入ってからの行事だ。つまり、イースター・ウィークが終わっても行事は続く。実際にイースター蜂起は4月24日に開始されたので、本来なら4月24日が記念日だし、現代国家なら4月24日を記念日にすると思うのだが、アイルランドは一貫して「イースター」の時期にこの蜂起を記念し続けている。それについての批判(というか文句)のツイートも見たが、こういうところはこの先も当分は変わらないだろう。そもそも蜂起指導者たちは「ソーシャリスト・リパブリック」を宣言したのに、なぜあえて宗教色の強いナラティヴをとるのかというあたりも、掘れば根は深そうだ。ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』でも『ジミーのホール(すみません、正確な邦題を覚えてない……)』でも、英国を退陣させたあとのアイルランドがいかに教会に支配されるようになったかを組み込んでいた。




この旗(アイリッシュ・リパブリック)の《意味》が、私は当初、わからなかった。日本語ではThe Irish RepublicもThe Republic of Irelandもどちらも「アイルランド共和国」になってしまうからなおさら、日本語では説明しがたい。

1916年に蜂起指導者たちが樹立を宣言したのは、「アイリッシュ・リパブリック」(なおかつ「ソーシャリスト・リパブリック」)だった。

蜂起の鎮圧と独立戦争を経て「自由国」となり、その後英連邦からの離脱をもって「アイルランド共和国」となったアイルランドは、The Republic of Irelandである。

「アイルランドは南の26週と北の6州がひとつの国を構成するもの」との考えで現在のThe Republic of Irelandを正当な国家を認めることを拒み、その「統一アイルランド」の達成のためには武力の行使も正当化されると今なお考えている人々(ディシデント・リパブリカンと呼ばれる人々)は、Twitterのアバターや背景画像などに、「アイリッシュ・リパブリック」の旗の写真を使っていることがある。

1916年4月、GPOのてっぺんにはアイリッシュ・トリコロールが掲げられたが、「共和国樹立宣言」の読み上げの際に掲揚されたのはトリコロール旗ではなく、「アイリッシュ・リパブリック」の旗だった。その旗は、戦闘にさらされても燃えるなどすることなく現存している。
The best-known flag of the Easter Rising is not the Tricolour that flew over the GPO in 1916 but the Irish Republic one on display at the Proclaiming a Republic exhibition in the National Museum of Ireland at Collins Barracks, Dublin.

It is something of an achievement that the Irish Republic flag still exists. It hung from the flagpole closest to the Prince’s Street side of the GPO and was shot at many times. It bears the scorch marks of the inferno inside.

The flagstaff was hit on the last day of the Rising and the flag was found lying on the roof of the GPO.

It was made from wool and house paint and bore the letters “Irish Republic” in white and orange on a green background.

http://www.irishtimes.com/news/ireland/irish-news/rising-from-the-ashes-irish-republic-flag-on-display-1.2573071


で、「アイリッシュ・リパブリック」の旗をよく使っているのはディシデンツの人たちで、シン・フェインは行事での再現パレード(コスプレ)のようなときは使っているが、今も、印刷物などで目に見えるところではこの旗は見当たらないようだ。機関紙、An PhoblachtのTwitterの画面:



このAnPのアカウントでは、グッド・フライデーに行なわれたパレードの写真が、もうツイートされている。








※ここにAnPを入れる。

シン・フェインは、イースター蜂起でGPOからの脱出を余儀なくされた指導者たちが逃げ込んだムーア・ストリートの建物(長屋式の建物で、商店が入っていた1階の壁をぶち抜いていた)の保全運動に取り組んできたが、先週ようやく、その運動にひとつの結論が出た。建物は政府の「史跡認定」を勝ち取ったので、取り壊しは免れる(ダブリンの中心部なので、再開発のために取り壊しが行なわれようとしていた)。ただし法的に抜け穴はあるようなので、建物の保全については完全に安心はできないようだ。ガーディアンの20日付記事に詳しい。
http://www.theguardian.com/world/2016/mar/20/dublin-moore-street-protesters-easter-rising

※BBCのあれも入れる。

さて、日本時間で金曜日の夜、BBC Radio Ulsterの1時間番組でイースター蜂起についてのディスカッションをしていた。さまざまな視点から、この「歴史上の重要な出来事」をどうとらえ、どう位置づけるかということが語られた。






BBCは英国のメディアなので、「アイルランドの反乱」を「反英的」と断罪すると思われるかもしれないが、そうではない。現在の政治に関することでは「連合王国のユニオンの維持」が大前提になるが(したがってシン・フェインのようなナショナリストが主張する「統一アイルランド」には冷淡である)、歴史的な出来事については政治的な判断をするような態度は基本的に取らない。

アイルランドのことはアイルランドのメディアで、とも思うのだが、アイルランド共和国では、イースター蜂起は「現在のアイルランドの建国の礎」(英国からの独立運動の明確な始まり)として、一種、神聖にして不可侵なものとして扱われており、それゆえに反動で、「イースター蜂起は過大評価」といった(広義での)修正主義を通り越したような、「イースター蜂起は完全に無意味だった」というような言説も見られる。その「無意味」説に、その発言の内容への評価云々ではなく「言いづらいことをよく言った」という意味での賞賛が向けられることもあり、あまり健全な言論状況には見えない。目立つことを目的にした極端な発言は、見るだけで疲れてしまう。アイルランドの歴史の専門家ならアイルランド共和国のメディアでこの「100周年」を見ているほうがよいのだろうが(きっと優れた歴史家たちが多くを語っている)、私はそうではないし、BBCで定点観測しつつときどきアイルランドのメディアを見るといういつものパターンを逸脱することはない。それにベルギーの連続爆破などのニュースが多いので、「100年前の出来事」についてみっちり語るようなものは、ほとんど見ることができていない。「イースター蜂起100周年」は、アイルランドでは何年も前から準備されてきた国家的な機会で、だからこそ私はその「歴史的瞬間」を待っていたのだが、現実には、日々忙殺されている。読むべき本、読もうと思っていた本も読めていない。積読山はますます標高を高くしていく。

ともあれ、そのBBCラジオで、ディスカッションの休憩を取る間に流されていたのが、The Foggy Dewという曲だった。1995年にチーフタンズが綺羅星のごとくのゲスト・シンガーを迎えて制作したThe Long Black Veilというアルバムに収録されている曲で、シンガーはシネイド(シニード)・オコーナー。



"As down the glen one Easter morn to a city fair rode I" (イースターのある朝、谷を降り、街の市場へと向かうわたし)という歌いだしのこの曲は、イースター蜂起を歌ったものだ。元々は蜂起には全然関係のないラヴソングで、蜂起後に新たに歌詞をつけたものだそうだ。そういった背景解説は「世界の民謡・童謡」というウェブサイトに詳しく書かれているので、興味がおありの方は参照されたい(ただし、このページにつけられているイースター蜂起記念行事の写真は、こりゃリパブリカン・シン・フェインのカラーパレードじゃないっすか……つまり「コンティニュイティIRA」の陣営で、シン・フェインとは別です。リパブリカン・シン・フェインは「自分たちこそ正当なシン・フェイン」と考えているにせよ。あと「ワイルド・ギース」は「傭兵」ではなく「兵士、軍人」ですね)。

Right proudly high in Dublin town
Hung they out a flag of war.
'Twas better to die 'neath an Irish sky
Than at Suvla or Sud el Bar.

ダブリンの町の真ん中に誇り高く
戦争の旗を彼らは掲げた
アイルランドの空の下で死ぬほうが
スヴラやスド・エル=バールで死ぬよりよい


Sud el Barはトルコの北西、海に面した村である。1915年4月のガリポリ上陸作戦で、当時はまだ英国の一部だったアイルランドの部隊が上陸した地点だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sedd_el_Bahr

Suvlaもガリポリ上陸作戦での英軍の上陸地点である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Suvla

英軍の一員として異国に送られて死ぬより、故国で独立のために銃を取って死ぬほうがよい、という歌詞である。

第一次世界大戦は1914年7月に始まった。当時、アイルランドでは、前世紀から英国会で大モメにモメたあとでようやく成立に至った「アイルランド自治法」によって、英国の支配からある程度は解放されることになると思われていた。この「自治法」が、第一次世界大戦の勃発で施行が延期され、英国によるアイルランドの支配は続き、それに対する不満が「イースター蜂起」へとつながったのだが、「蜂起」に参加するようなナショナリスト(というか英国からの分離主義者 separatistsととらえたほうがわかりやすいかもしれない)とは別の階層の、英国への忠誠心が高い人々――アングリカンの信仰を有するアイルランドのミドルクラスの人々――は、英国のために戦うことを志願し、軍隊に入って最前線へ送られていった。ガリポリに上陸したアイルランドの部隊はそういう人々によって構成されていた。

アイルランドの独立後、これら「第一次世界大戦時に英軍のために戦ったアイルランド人」たちは、国家によって徹底的に無視され、あるいは「アイルランドの大義への裏切り者」と扱われた。その人たちが表舞台で、「アイルランドの歴史の一部を作った人々」という扱いを受けたのは、2011年5月のエリザベス女王のアイルランド訪問のときである。マカリース大統領に国賓として招かれたエリザベス女王は、「アイルランド独立のために戦って死んだ人々」の追悼施設と、「英軍の一員として戦って死んだ人々」の追悼施設の両方を訪れた。それについては当時のブログに書いてあるので、ご参照いただきたい。

2011年05月17日 アイルランドは、歴史を「歴史」にする。
http://nofrills.seesaa.net/article/201657302.html


アイルランド共和国はその後、独立(というか「自由国」の成立)の前の段階で英軍の一員となったアイルランド人への国としての態度を改めている。そういった人々もまた、「アイルランド人 Irish」であったという再確認は、国家がその「過去」と向き合うという困難な作業でもある。

むろん、国家のレベルではなく個人の体験として、一家の物語として、その「過去」を自分の一部としている人々も多くいる。「多数派」ではないが、少なくはない。「アイルランドのプロテスタント」たちだ。独立後、どんどんカトリックの宗教国家の色彩を強めていくアイルランド(学校教育がもれなくカトリックだったりした)で「少数派」として決して楽な立場にいたわけではない人々。

一方、1912年の「アルスターの誓約」で「アイルランド自治法」から除外されることを望んだ北アイルランド(アルスター)のプロテスタントたちは、アルスターにおいては「多数派」だった。リーダーのエドワード・カーソンが、「観光名所」化しているインターナショナル・ウォールに……なんて話を始めたらいつまで経っても書き終わらない。その話は別項にしよう。

というわけで「南」(アイルランド共和国)ではがっちがちのナショナリスト史観が少し修正されつつあり、英国の支配下で英国に協力的だったことが即「アイルランドの大義」にとっての裏切りだと扱われなくなりつつある。

しかし、1916年イースター蜂起での義勇軍(反乱勢力)への鎮圧作戦を行なった英軍兵士たちとなると、ガリポリ上陸作戦の兵士たちと同じように扱うには、いろいろと無理がある。北アイルランド自治議会にも英国の下院にも議席を持つ(英国下院には非出席主義だが)シン・フェインは、今もまだ英軍に対しては「不支持」を明確にしているはずで(だんだんうやむやになってはきているにせよ、アフガニスタンから帰還した英軍部隊のベルファストでのパレードで、「無言の抗議」を行なった人たちだ)、その点、「外国の軍隊への敬意を示す」的なことができるようになっているアイルランド共和国の政治トップや大統領とは立場が少し違うのだが、そのシン・フェインの機関紙のツイートでは、グラスネヴィン墓地(ダブリン)で、蜂起鎮圧にあたった英軍兵士たちへの追悼式典が行なわれたことで蜂起関係者の親族(というか子孫)が立腹しているというフィードが流れてきている。




こうして始まった「イースター蜂起100周年記念」の期間は、過去や未来について人々がそれぞれに知識を広げたり深めたりし、考え、意見を持ち、それを表現する期間になるだろう。

ネットがあるから、私も東京にいて、それらに情報としては接することができる。






※書きかけ→なんとか書き終わったよ。アップした翌朝だけど……

※この記事は

2016年03月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(1) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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イースター蜂起100周年の記念式典と北アイルランド
Excerpt: 先ほどまで、オンラインで全世界に公開されていたRTE(アイルランド共和国の公共放送)の生中継で、ダブリンでのイースター蜂起記念式典を見ていた。式典は毎年行なわれ、毎年RTEがリージョンによる制限をつけ..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-03-27 23:39





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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