「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年03月17日

アイルランドに「春」を告げる、セント・パトリックス・デーの光景

今年はイースターが早く、セント・パトリックス・デーと1週間ほどしか離れていない上に、1916年のイースター蜂起から100周年というのも重なっていて、むしょうにあわただしいのだが、本日3月17日はセント・パトリックス・デーである。

セント・パトリック(聖パトリック)はアイルランドにキリスト教をもたらした聖人で、3月17日は命日(宗教的な用語を使うと「帰天した日」ということになるだろうか)。これが「アイリッシュのアイデンティティ」の日として祝われるようになったのは、アイルランド島の外に脱出した(せざるをえなかった)ディアスポラの間でのことだった。発祥の地は北米で、アイルランド島そのものが大騒ぎするようになったのは、ここ20年ほどのことである(「アイリッシュのアイデンティティ」というものは、アイルランド自身、特に都市部にとっては、わりと微妙なものだった。「ダブリンのプロテスタント」の手記など、探せば読めると思う)。私自身、「セント・パトリックス・デーにお祭り騒ぎして、何でもかんでも緑にしてしまう」文化・習慣は、「アメリカのもの」という印象が強い。かつて、こういうお祭り騒ぎをしているという情報が私にも得られたのは、ニューヨークやボストンやシカゴのような米国の諸都市だったからだ。現在は、「照明で、世界各地の名所やランドマークを緑色に染める」という「グローバル・グリーニング」なるキャンペーンをアイルランド共和国政府の観光当局が率先して行なっている。これは毎年、拡大の一途だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Patrick%27s_Day

セント・パトリックス・デーは、現在はアイルランドでは南北の区別なく共通して、パレードが行なわれたりする祝日(休日)になっているが、北アイルランド紛争のころまでは、北アイルランドの「ブリティッシュ」のアイデンティティの人たちは、行政機構も含め、無視していたという。今はベルファストでもセント・パトリックス・デーのパレードが行なわれる。(→【更新】今年のパレードについてのBBC News記事

北アイルランドの「ブリティッシュ」を自認するユニオニスト/ロイヤリストのコミュニティで「われわれの文化が脅かされている」という(先鋭化した)言説が根強くあるのは、北アイルランド紛争という局面が終わってから「アイリッシュネス」に対する北アイルランドでの態度が柔軟になってきたことによる「包囲の心理」のあらわれのひとつで、その象徴が「旗を掲げる」という行為である。2016年1月に発起人が「終結」を宣言した「フラッグ・プロテスト」(旗デモ)は、そのような文脈にある。「アイリッシュ(緑)か、ブリティッシュ(オレンジ)か」という二者択一の二元論を刷り込まれているコミュニティにとって、「アイリッシュも、ブリティッシュも」というのは、そうやすやすとは受け入れられないようだ(と、「緑色一色に染まった光景」を、「クリスマスも初詣も」の葬式仏教徒はただ眺めている)。

でも、現在もなおそのようなかたくなさを見せている人たちがいるとしたら本当に一部の「強硬派」だけだろう。今は、ユニオニストの政治家たちもごくナチュラルに、セント・パトリックの日のお祝いをしている。よくイベントが行なわれるストーモントの議事堂の正面ホール(大階段)も16日、緑色に染まり、セント・パトリックス・デーのイベントの始まりを告げた。





下記の「緑色の照明を浴びたジャイアンツ・コーズウェイ」の写真(ジャイアンツ・コーズウェイの観光客向けアカウントのツイート)は、DUPのイアン・ペイズリー(ジュニア)がRTしていたので、NIのリストに流れてきていたものだ。「われわれはブリティッシュなので、アイリッシュネスを受け入れない」という態度は、ウケを狙う政治家がそのようなポーズを取るという表面的なことでさえ、もう歴史のかなたに行っている。




ただ、ユニオニスト/ロイヤリストの側には、ずっと以前から、「シャムロック」のお祝いというものはあった(そのような歴史的事実が一種の糸口になり、北アイルランドにおいて「セント・パトリックス・デー」が対立の日ではなく楽しいお祝いの日として定着してきたという経緯は、あるかもしれない)。英国がアイルランドを支配していたころ(「アイルランドの独立」というか「アイリッシュ・フリー・ステートの成立」というか、「南北アイルランドの分断」というか……の前)の英軍のシンボルがシャムロックで、これは今も王族が軍服姿で登場する公式の場で身に着けているのを見ることもある(例えば結婚式のときのウィリアム王子)。その文脈にある図像を集めてツイートしているのが、アバターにレッド・ポピーとRFCのロゴを入れている「シャンキルのジョージ」氏だが、ここで彼がアイルランド語(ゲール語)を使っていることに注目しよう。





英国のエスタブリッシュメントが、アイルランドを「わがもの」として扱っていた時代に「アイリッシュネス」を公式の「歴史」の中に書き込んでいたことは、英軍以外にも確認できる。例えば下記は、DUPの政治家であるジェフリー・ドナルドソンがRTしている英国会の観光客向けのアカウントのツイート。ウエストミンスターの議事堂内にある、アイルランドにとって重要な三人の聖人(「Banbaの名前もある」という指摘にも注目)のモザイク画の写真だ。

rtjdsp.png


さて、NIのリストには、アイルランド島の反対側(南東の端)、ケリー州ディングルから、歴史的なパレードの写真も流れてきた。19世紀末の土地戦争 (the Land War) で、日の出から日没までのパレードが禁止されていた時代(「パレードの禁止」というより「集会の禁止」かもしれない)、午前6時に行なわれていたパレードが、今も「アイルランド島で一番早く行なわれるパレード」として続いているそうだ。
http://www.dinglepost.com/post/45672982392/the-early-morning-6am-st-patricks-parade-in
http://ireport.cnn.com/docs/DOC-1108650





同じく夜間〜夜明け前のダブリン空港。




ダブリンのジャーナリストが撮影したショッピングモールでのこんな光景も、誰かのRTで流れてきた。




ダブリンからはこんなのも。昨年の写真だそうだが、「シラフのときに食うと、あれ、こんな味だっけと思う」という評判が相次いでいるケバブ屋で注文するセント・パトリックを激写。




聖パトリックが埋葬されているという言い伝えがあり、それにちなんだ地名がつけられているダウン州のダウンパトリックでは(このツイートはSDLPのマーガレット・リッチーのRT経由):




デリーの城壁も(これは現在アメリカで毎年恒例のセント・パトリックス・デー外交活動中のマーティン・マクギネスのRT)。




ベルファストのアルスター・ミュージアムでは、恐竜ちゃんが緑色を浴びている。




そしてオンラインでは、Google doodle:







さらに……




「緑色一色に染まった世界」の中で、ブレていないのはアムネスティ・インターナショナルのパトリック・コリガンさん。




ロード・アルダーダイスは、北アイルランド和平プロセスを雛形にして和平プロセスが進められているコロンビアでシンポジウムに出席している。コロンビアの内戦は、継続期間は北アイルランド紛争と同じくらいかもしれないが、悲惨さでは正直、比較にならないほどひどい。軌道に乗っている和平プロセスが無事に進展し、当事者たちが納得と心の平安を得られ、コミュニティにとっての亀裂が癒されることを、心から願っている。






北アイルランド警察では、ヘイト・クライムに関するコンファレンスを行なっている。
















そして私の手元には、シェイマス・ヒーニーの本がある。Between my finger and my thumb, the green book rests...










なお、本稿のはじめのほうで「緑かオレンジか」の二者択一を刷り込まれていて「緑もオレンジも」は受け入れがたいという「強硬派」のことに言及したが、そういう人たちはオレンジの側だけにいるわけではない。

セント・パトリックス・デーのTwitterのBBC News NIのフィードより:

stpaddydaybbcni16.png


この数時間後のBBC News NIのトップページ(クリックで原寸):

bbcnewsni17march2016.png

※この記事は

2016年03月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:00 | TrackBack(2) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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ワシントンDCなどでの「セント・パトリックス・デー外交」と、招待されてたのにセキュリティに止められたジェリー・アダムズ
Excerpt: 1つ前のエントリで、北アイルランドでも緑色一色に染まっていることについて少し書いたが、その北アイルランドの自治政府2トップ(正副ファースト・ミニスター)は毎年恒例の「アメリカ詣で」に行っている。「セン..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-03-18 01:01

セント・パトリックス・デー補遺。WHに入れなかったアダムズと、デリーのプロテスタントの件
Excerpt: アイルランド成分濃度が高すぎて、次から次へといろんなものが出てくるから、エントリが書き終わらない。17日は水とお茶とコーヒーしか飲んでいないのに、目にする成分のため頭がぐるぐるしていて、追記するとわけ..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-03-18 03:16

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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