「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年03月16日

誰も止めようとはしない虐殺と、「情報戦」を振り返る #withSyria

前2件のエントリ(→1件目および2件目)の続き。

今朝方、ジャーナリストの黒井文太郎さん(イスイス団についての新書を3月9日に出されたばかり)が次のようにツイートしていらした。





「異常事態」が続いているのはシリアだけではない。「虐殺」「ジェノサイド」という言葉が、比喩ではない用法で、ポンポン飛び交っている。少し前に「1991年のイラクのシーア派とクルド人の蜂起から25年になる」ことをツイートしていた「グレンダイザー」アバターのハイダルさんは(この乾いた事実の記述から、この人の背景は読み取れるはずである)、イエメンでサウジアラビア(を中心とする連合軍)が行なっていることについて、シリアが「革命から5年」を迎えたというツイートがどんどん流れてきている時間帯に、次のようなツイートをしていた。これは連続ツイートの一部で、ここで紹介されている映像は、イエメンのハッジャ (Hajjah)という町の市場がサウジアラビアのジェットに爆撃され、120人が殺されたというアラビア語のニュース映像のクリップである。




「シリア内戦」(を含む「我々か、我々以外か」という対立構造を前提とする紛争)を、基本的な理解を阻むほどにややこしく、難しいものであるかのように見せているのは、主に、このような「虐殺」の報告があったときに、「虐殺の事実」を問うのではなく、「虐殺の報告」の信憑性を問うというプロパガンダだ。それは対立の向こう側(およびその同盟者たち)から投げつけられる。「投げつけられる」というより「野に放たれる」のかもしれない。シリアの場合は対立が「セクタリアン(宗派・教派)」的なものだから、より「難しく」感じられる(「宗教紛争」という見かけをとってしまうし、そのように解説したがる人もいる。実際「あのシーア派連中が」、「いつものスンニ派のやり口だ」といった語られ方も珍しくない)。

さて、「報告の信憑性を問うというプロパガンダ」と今書いたが、それはどのようなものか。

わかりやすく言うと、「一般市民で混雑している市場が爆撃された」(言うまでもなく、基本的に、このようなことは国際人道法違反である)、「爆撃したのは○○国のジェットである」という報告に対し、「情報機関が工作しているので、映像は信用できない」と漠然とした一般論らしきものをぶつけてくるとか、「死体に見えるのは実は人形だ」と奇妙奇天烈な主張をぶつけてくるとか、「そこにいるのは全員が役者で、映像は全部やらせ」と言い張るとかいったことが行なわれる(こういう環境があるからこそどこぞの映像作家が「フィクション」であることを明示せずに作った「感動の記録映像」は、深刻な問題を生じさせるのだ)。攻撃されたのが実際に市場であるときにも、「ここは一般市民で混雑した市場ではなく、実際には武装勢力の訓練施設である」という虚偽情報が堂々と流されることもある。これは「情報」を武器とした「情報戦」である。これは議論に参加せず見ているだけの人に何らかの情報(あるいは「考え方」など)を抱かせることを目的としたもので、相手を「論破する」ことは必ずしも目的ではない。

そして、議論の過程で「情報は全部工作機関が洗浄済みですよねー」などと納得・賛成・共感してみせる人が出現したり、「以前、こんなとんでもない戦争プロパガンダがあったという事実がありますし」など過去の実例を思い出させる人が出現したりしていくうちに、議論に参加せず見てるだけの人は「そうなんだー」と納得したり、「うっかり信用できませんね」と妙に一般化した結論を得て安心したり、「簡単に鵜呑みにしない自分はリテラシーが高い」という自己肯定感を得たりして、もともとの「○○国のジェットが、一般市民で混雑した市場を爆撃した」という報告内容は、ただ単にスルーしてしまう。その国際人道法違反は問われずに済んでしまう。その違法行為を問われたくない側(今の例では「市場を爆撃したジェット」の持ち主である「○○国」)にしてみれば、ウハウハの結果だ。

これが一連の流れ作業のようになっている。以上の説明はかなり単純化したものだが、複雑な場合でも、最も本質的な部分の展開は、フローチャートにしようと思えばできるくらい、パターン化している。

2009年7月のイランの首都テヘランでのデモのときに、渋滞にはまって動けなくなったタクシーから降りて、体を伸ばしがてら外の様子を見ていたネダさんという女性が、近くの建物の上にいた狙撃手による一発の銃弾で殺されたときは、「あの人は女優だ。すべて演技で、本当は死んでなんかいない」などとまことしやかにささやかれた(「よかった、撃ち殺された女の人はいなかったんだ」というネットのテンプレそのままだ)。

こういうことがあるのは、何も「非欧米圏の政情不安や内戦のような『難しい』トピック」に関してだけではない。例えば、米国のコネティカット州で起きた小学校乱入銃撃事件に関して「事件は銃規制をもくろむ当局のでっちあげで、児童も教師も死んだことにされているだけで実は別の名前を与えられて別天地で安全に暮らしている」とか、「葬儀などマスコミ報道の映像・写真で確認できる人は全員プロの俳優で、他の災害・事件・事故の現場にもいる」(風貌が似ている別人をいちいち探して難癖をつけているだけだが)とかいう、読んでる側の頭がおかしくなるような発言はネット上にたくさんある。犠牲者のきょうだいの写真を貼って「死んだはずの人が生きている証拠を発見」と主張するとかいう人もいるし、ご遺族に対する誹謗中傷をしつこく続ける人もいる(→詳細は以前書いている)。

コネティカット州の小学校乱入銃撃事件のように、身近でも起こりうる事件で、報道によって十分な情報が広く与えられるケースでは、上記のような「なかった論」の影響の範囲は限定的である(影響の深度は別として)。同じような傾向を持った人が集まっている場でもない限りは、「でもあの事件って、本当は起きてなかったんですよね。映像に出てくるのはみんな俳優ですし」などと言えば、ドン引きされる。リアル世界でもネットでもそうだ(ネットは、自分の主張を延々と繰り返して周囲に誰もいなくなっても、リアル世界と違って主張をしている本人は気づかないという特性もあるが)。

しかしこれが「情報機関が絡んでいそうな《海外》での出来事」になると、「映像はやらせ、映像に出てくるのは俳優」とかいう説の「トンデモ」度が下がるようだ。言葉もわからない映像の真正性は、自分自身では、確認しようにも限界があるのだから、いろいろと、閾値が違っているのかもしれない。「みんなが知ってるような大手マスコミなんか信じるほうがバカ」と信じている人が、「大手マスコミでなければ信じるに値する情報を流している」という誤った論理的帰結を抱いている場合は、「CNNやBBCの伝えることは何一つ信じないが、Redditの書き込みは信じる」などということもある。

「情報戦」というのは、こういうところで行なわれている。

情報工作が暴かれて国際的な大ニュースになり、赤っ恥をかかされて大統領の声明だとか議会の公聴会だとかでおたおたするのは、実のところアメリカ合衆国くらいなものだろう(世界の秩序は今なお「パックス・アメリカーナ」が基本で、米国が多くの目にさらされ、多くの批判にさらされていることは何も不思議はない)。英国はMIなんとかやGCHかんとかがあんなことやこんなことをしてるというのが暴かれても基本的に動じないし(それどころか、例えばスノーデンの暴露を報じたガーディアンは、スノーデンがリークしたデータの入っているパソコンを破壊させられたし、北アイルランドは今なおスパイを守るために闇に押し込められている「真実」が軋みを生じさせている)、ロシアなど、工作が暴かれておたおたするような人はどこにもいないんじゃないかという印象を禁じえない。約10年前に書かれたリトヴィネンコ氏殺害に関する本を先日再読したのだが、この本に名前の出てくる人の何人が不慮の死を遂げただろう……というよりも、この本に名前の出てくる人の何人が、今も生きているだろう。

だが、アメリカのことがたくさん報じられるのがデフォの日々のニュースを普通に見てる限りでは、「悪いことをするのは常にアメリカ」という印象を多くの人が受けるのが、デフォだろう。1960年代から活動する英国の画家、ラルフ・ステッドマンのドキュメンタリーで、ステッドマンが「アメリカはろくなことをしない(アメリカは世界をどんどんダメにしている)」と述べているが、これはこの人個人が極端な反米主義者だからではなく、ベトナム戦争やカウンター・カルチャーの時代には一般的なことだ。


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問題は、このような「アメリカは世界をダメにしている」というものの見かたから、「世界をダメにしているのはアメリカだ」→「世界をダメにしているのはアメリカだけだ」→「アメリカ以外は世界をダメにしていない」という誤った理屈で、誤った結論を得てしまうことだ。つまり「アメリカは悪、アメリカでなければ善」というカルトじみた二元論を。

この誤った理屈には、「日本には四季がある」→「四季があるのは日本だけ」という例もある。そのときに「四季があるのは日本だけなら、どうして英語でspring, summer, autumn (米語ではfall), winterと、四季を表す単語があるのだろうか」、「ヴィヴァルディは『四季』を作曲したとき日本に来ていたのだろうか」など、客観的にツッコミをいれることができれば、この誤った理屈に陥ることは避けられるのだが、「アメリカは悪、アメリカでなければ善」論の場合は、「プラハの春」(1968年、ソ連軍によるチェコスロヴァキア民主化運動武力弾圧)やら「天安門事件」(1989年、中国政府による民主化運動武力弾圧)やらといったツッコミ材料を提示しても、のらりくらりと言い逃れる材料程度にしかならないようで、つまり「アメリカは悪、アメリカでなければ善」というのは「大前提」なのだろう。

しかも、何かそれを揺るがすような新情報があっても、人はその「大前提」を揺るがすことのないように解釈するほどの。

そのような「アメリカは悪」という大前提を利用した情報戦は、シリアの「革命」が、2011年3月に本格的に始まってからの数ヶ月のうちに「1日の死者が今日もまた100人を超えた」という状況のなか、大々的に展開されていた。そのころのことはTwitterのログを掘ればいろいろわかるだろう。私のだけでなく、シリア情勢を「革命」の側から伝える情報を見ていた人たちのログを見れば、それなりに多面的に見るということができるだろう。

「1日の死者が今日もまた100人を超えた」という情報には、もっと語るべき細部があったのだが、当時、そんなことは言わずもがなではないかと思っていたことは確かだ。ここは自分でも反省しなければならない。「言わずもがな」なことなんか、ないのだ。全部、事細かに、いちいち繰り返さねばならないのだ。

Twitterの140字ではそれができない。

そしてTwitterでは、そこまではできないという限界を了解して人々が情報をやり取り……しているのならよいのだが、「断片的な情報しか流せない」媒体であることを、あっけにとられるほど見事に活用したプロパガンダが行なわれている。つまり単純化の妙というか。

2011年3月、シリアの「革命」が始まってからしばらくの間は、おそらくは大震災直後というタイミング的な問題で日本語圏ではほとんど誰も関心を向けなかった。私も、シリアもきっと(同時期に「政府に対する民主化要求運動」が起きたヨルダンやモロッコなどのように)「いつもの面々が政権に要請をつきつけ、政権の側が善処することを約束する」というような形で決着するのではないかとも思っていた。それより島国であるバーレーンの、大国サウジに叩き潰されそうな(そのうえ、ジャーナリストがヴィザを拒否されるなどしてて入れず密室化している)民主化運動(彼らは「革命」とは言っていなかった)が気にかかっていた。

あれもこれも、間違っていたのだと、5年目に、改めて思う。

「5年目」を迎えたときにTwitterで見た資料的なものを張っておこう。

下記はイスイス団相手だけど、アサド政権がどういう兵器を使っているか。サーモバリック爆弾をパルミラに使っているという。パルミラはイスイス団の掌握下にあるが、普通に都市だ。民間人もいる。




一時期、シリアの「革命」にコミットするかのような言動をとっていた米オバマ大統領が、そのころ「レッドライン」と位置づけていた化学兵器について、ドイツの報道。





上のほうで、「一般市民で混雑した市場を爆撃」という例を(イラクの「グレンダイザー」アバターのハイダル氏のイエメンについてのツイートを参照しつつ)引き合いに出したが(市場の爆撃は、シリアでももういちいち誰も指摘しないくらい頻発している)、そのような「非人道行為、国際法違反」が問われることがなかった一方で、「シリアで用いられる化学兵器」(「誰が用いるか」は明言されない)については「国際社会」が動いた。一定の成果も上がった(とされている)。

そして?

バラク・オバマの言った「レッド・ライン」とは何だったのか。

「北アイルランドのIRAの武装解除」の茶番劇のほうが、まだまともに見える。



まだ続き書きます。この件は、「書く書く詐欺」にせず、書きます。

前記事:
2016年03月15日 #Mar15 というハッシュタグが、きっとあんまり伝わらない言語圏で。 #withSyria
http://nofrills.seesaa.net/article/434973023.html

2016年03月16日 #withSyria 5年目を迎えたウェブ上の光景を少し。
http://nofrills.seesaa.net/article/434980041.html


※この記事は

2016年03月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:37 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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