「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年03月15日

#Mar15 というハッシュタグが、きっとあんまり伝わらない言語圏で。 #withSyria

「5年目」となるタイミングで、いつの間にか全面的に軍事力を投入していたロシアが撤兵を決め、軍事・安保系ジャーナリストたちが何人も「驚いた」と発言していた。実際に武器・兵員の撤退開始が確認されるまでは信じないという向きもあっただろうが、撤退開始が確認されたことも既に報道されている。

そう、今日で「5年目」である。











https://withsyria.com/

2016年3月15日のこのサイトをデスクトップ・スクリーン・キャプチャーの映像で記録しておいた。(音楽はPodington Bearというアーティストがクリエイティヴ・コモンズのBY-NCで公開しているSpringtimeという曲を使わせてもらっている。)



5年前の3月15日の自分のTwitterのログを見返すと、関東各県では計画停電が実施されていたが、「東京ではトイレットペーパーが入手難だ」といったことなどを書いている(傍目からは「東京都民はえらそうだ」と、鼻持ちならない態度に見えるだろう)。原発のことにも関心は向けていたので少しはRTなどはしているが、私自身は、3月11日から12日にかけての夜の時間帯に、モニターの中で気仙沼市が橙色の炎を上げて燃えているときに(私は津波に飲み込まれていく田園地帯をヘリで撮影した映像の数時間後に同じモニターの中に見たその光景に、心底ショックを受けていた)、「原発について注意を喚起するためにこれをRTしてください」みたいな接触が複数回あったことで逆に原発については関心が後退していた。「私が何かを書かなくても、誰かが書く」というテーマなら私が書く必要性などまったくなく、むしろ「その筋の玄人」にお任せしたほうがよいし、私には「私でなく誰かがやる」ことが確実なトピックより、個人的に高い関心を持ってずっとフォローしてきたトピックがあった。「アラブの春」である。

5年前の3月15日の自分のTwitterのログには、「アラブの春」と呼ばれたあの熱狂の、後から思えば既に完全にピークを過ぎていた欠片がたくさんある。そのほぼ1ヶ月前にはリビアが「始まって」いた。バーレーンは極めて重大な局面にあった(ことはバーレーンという独立国家の問題ではなく、「サウジアラビアの衛星国であり、米軍の海外拠点となっている国の問題」であるという点で)。パレスチナでは西岸地区とガザ地区の「統一 Unity」を求める民衆運動が #Mar15 のハッシュタグで予告されていた。私の第一の関心は、パレスチナにあった。2011年は2006年の選挙から5年。そろそろ動くだろうと思っていたのだ。

今から思えば、日本においては、2010年12月にチュニジアで始まった「アラブ各国の民衆デモ」が2011年1月のチュニジア大統領海外逃亡、エジプトのカイロでの非常に印象的な、青空床屋までできるような平和的で楽しげな「タハリール広場に集う人々」の光景の丁寧な報道に続き2月12日のエジプト大統領退陣と来たところに、「バーレーンも熱いらしい」という流れがあり、その勢いで「リビアの民衆も立ち上がった」(中心地のベンガジと東部以外では、どの程度「民衆蜂起」と呼べるものだったのかはわかりませんが)ほか、「アラブ各国でも追随するようにデモが起きている」ということで多くの人が感銘を受けていたときに、3月11日の大震災があったということになるだろう。そして、3月11日のあとの日本では「民衆によるデモ」という形式は、「カイロの人々のように」的なナラティヴで、手放しの礼賛を受けるようになっていったのではないか。

「カイロの人々のように」という礼賛は日本に限ったことではなかった。ギリシャでもマドリードでもロンドンでも、「エジプト人のようにデモをする」というフレーズが(往年のヒット曲のタイトルに重ねるように)繰り返されていた。だが、日本では、何というか、あまりにも鮮烈だった2011年1月下旬から2月12日のカイロのタハリール広場だけが「イメージ」として膨らんでいた一方で、「その後」に関心が向けられる前に、3月11日の大震災で、「アラブの春」への関心が大幅に減退していたのではないか(「よその国のことどころじゃない」ということで)。

そして、シリアで「始まった」のはまさにそういうタイミング、2011年3月15日 #Mar15 だった。



(実際には、2011年3月15日よりも前からシリアでは行動が起きてはいたが、当時流行っていた「ハッシュタグ革命」としては #Mar15 であった。そして私は個人的にはシリアは普段特に見ていなかったので、#Mar15 は本当に唐突に見えた。)

シリアの「革命」は、そういうタイミングでソーシャル・メディアに登場した。

そのころ、日本では「正直、海外ニュースどころじゃない」というムードが支配的だったと思う。元から「欧州や中東などのニュースに関心が高い人々」の狭い範囲を超えて広く関心を集めたのが「アラブの春」という「大ニュース」だったが、東日本大震災が起きて、「アラブの春」は「多くの人が関心を寄せる大ニュース」の一番手ではなくなっていたと思う。(私自身は「欧州や中東などのニュースに関心が高い人々」の一人だが、どうやら「デモに関心が高い人々」の一人だと思われていたフシもある。改めて述べておくが、「デモ」には特段の関心はない。それについての議論をネットで、つまり知らない人がどう解釈し、どう絡んでくるか、どう「殴りかかって」くるかわからないような環境で、するつもりはない。)

そういう状況だったのだから、「シリアの『革命/蜂起』」についてろくすっぽ何も把握していないという人が大勢いること自体は、不思議ではない。

多くの人々が、「原発がー」、「東電がー」、「菅直人首相がー」という大騒ぎをするだけして、もう騒ぐべき(人々が「騒ぐ」ことで話題になるような)ことがなくなったときには、たぶん、「シリアの『革命/蜂起』」は「シリアの内戦」になっていたのだろうし(それでも、国連がシリアの事態を「内戦 civil war」と扱うようになるまでには、ものすごく時間がかかっていた。村が丸ごとつぶされ、都会では医療関係者が殺されるなどしていても、国連は、UNHCRを含め、「内戦」と呼ぼうとはしていなかった。特に日本語圏では。そのことについても私はTwitterに書いてる)、関心を持ったときには「複雑すぎてわけがわからない」状態だったのだろう。

旧ユーゴの解体などをリアルタイムに見てきた立場では、シリア内戦は全然「複雑すぎてわけがわからない」ようなものではないのだが、震災への関心が中東への関心をしのいでいる間に、日本語圏ではなぜか「政府対反政府などという、単純な構図では、ないのですよ」という《語り》が支配的になっていて、「なんだかわからないけど複雑だ」という先入観を叩き込んでいたのかもしれない。

その「政府対反政府などという、単純な構図では、ないのですよ」という《語り》の勢いは実に凄まじく、フランスの植民地支配を経験しているシリアという国のアレッポのような大都会で、開明的でリベラル(自由主義)のインテリなどが主導する「非暴力の民主化闘争」を日本人ジャーナリストが現地取材したビデオについてまで、「でも、この人たち、アルカイダの味方ですからね」というコメントがつけられるというありさまだった。画面に「非暴力」という文字が表示されていてもなお、「アルカイダの味方」呼ばわりするというのは、「アルカイダ」をよほど広く定義していても不可能なことだが、同じようなプロパガンダは実は「あるある」である。

問題は、それが「プロパガンダ」であるということに気づかない素直な人々を、そういう《語り》は、やすやすと取り込んでしまうということなのだが。

(そして「何事も真に受けたりしない、懐疑的で賢い私」を確認して、人は安心するのだ。それと同時にとんでもないbullshitを食わされているとしても)

……書き終わらないね。

ともあれ、この5年間の流れを今からたどりたいという方には、ガーディアンが「この5年」を1本の記事として読めるように編集したページがあるので、それがおすすめである。

Syria's civil war: five years of Guardian reporting
by Martin Chulov, Ghaith Abdul-Ahad, Emma Graham-Harrison, Ian Black and Patrick Kingsley.
Editing and design by Simon Jeffery, Chris Fenn, Finbarr Sheehy and Paul Torpey
http://www.theguardian.com/world/2016/mar/14/syria-civil-war-five-years-guardian-reporting

これをざーっと眺め、胸がつぶれるような思いを抱えて(覚えている記事が多い)、無言でツイートだけした。




このツイートのstatsがこう。

tw15mar2016.png


Total engagements  4
Detail expands  2
Likes  1
Link clicks  1


:)

リンクのクリック件数、1。一。いち。

:)
:)
:)



本稿には続きがあります。

2016年03月16日 #withSyria 5年目を迎えたウェブ上の光景を少し。
http://nofrills.seesaa.net/article/434980041.html

※この記事は

2016年03月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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