「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年03月09日

【訃報】うちらが普通に耳にしている「ポピュラー音楽」を形作った人たちのひとり、ジョージ・マーティン死去。

ビートルズ(の音源)を聞いて「いいな」と思うようになったのは、実のところ、35歳を過ぎてからである。英語圏でよく「シェイクスピアはすごいすごいと言われるので戯曲集を読んでみたが、クリシェ(常套句)が満載でたいしたことないと思った、などと言う無知な人」が笑い話になるが(シェイクスピアが戯曲の中で使ったのがウケて、定着して、現在では「クリシェ」になっているものが非常にたくさんある)、私にとってのビートルズもそれと同じようなもので、あらかじめ「スタンダード」だったのだ。これは「世代」的なことではなく、あくまで個人的なことである(同い年や1〜2歳違いの人たちに、熱いビートルズ・ファンは何人もいる)。若いころ、「ビートルズは別に……」と言うと、年長者からも同年代の人たちからも、すべてを否定されるようなくさされ方をしたこともあったが(「何もわからない」、「耳がない」など)、それがよけいに私をこのバンドから遠ざけた。同世代でそういう感じで、何となくビートルズと疎遠だった人は、けっこう多いのではないかと思っている(根拠は、Oasisが大ブレイクしたときに「あれって、どうなんすかね」、「うーん……」という会話になった人が、少なからずいたこと)。

それに、自分が「洋楽」を聞き始めたときはニューウェイヴの時期で、そのころに「尊敬すべき先輩たち」だったパンクの人たちは(演技、ネタで)先行世代をけなしまくっていた。ジョージ・ハリスンやキース・リチャーズがレスペクトされていることは、私はロンドンで実際に音楽やってる(だいたいが同世代の)人たちと話をして知った。音楽雑誌がどんだけ持ち上げていようと、インタビューに応じているミュージシャンがけなしていようと、信じちゃいけないんだということを身を持って知った。

そんな話はどうでもいい。

【訃報】ジョージ・マーティン(今のポピュラー音楽を形づくった人。ザ・ビートルズなどのプロデューサー)
http://matome.naver.jp/odai/2145750427896475601


訃報を聞いて最初に頭に浮かんだのは、In My Lifeのチェンバロのソロだった。



それからTomorrow Never Knowsのイントロ。(このミックス、ちょっとびっくりした。)




※この記事は

2016年03月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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