「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年02月26日

「壁」が崩されるとき……ベルファストの「ピース・ウォール」の撤去が始まった。

ベルファストには「ピース・ウォール peace wall」と呼ばれるものがあるということは、これまで何度か書いた。「プロテスタント」と「カトリック」の分住が完全に定着している地域で、両者が接する場所に築かれている「隔離壁・フェンス」だ。相互に、相手側の武装勢力やチンピラ集団がもの(火炎瓶などを含む)を投げ込んだりするのを阻止することが主目的のひとつである。

この「壁」がある程度長く伸びたものは「ピース・ライン peace line」と呼ばれていて、東ベルファストのニュータウナーズ・ロードの辺りのものについて結構詳しく書いた記事がある。また2012年の調査報告書についてもある程度書いてある

「ピース・ライン」は、今では「紛争(の跡地の)観光」の目玉だが、報道や現地の人々のブログなどを見る限り、「紛争」が過去のものになった今もこれらが撤去されていないのは、「観光資源だから」というより、「住民が即時の撤去を望んでいないから」と思われる。地域/コミュニティを分断する壁なんかないほうがいいに決まっているのだが、今すぐに撤去することには不安がある、というような複雑な心情は、きれいごとではないリアルな現場には、やはりある。

そういう「壁」を除去するということには、たいへんな思い切りが必要だろう。

その「思い切り」の動きが、北ベルファストから伝えられた。場所はクラムリン・ロードのホーリー・クロス教会(カトリック)の向かい、あのアードイン地区だ。
https://twitter.com/BelTel/status/702904323949400064

夜間だから見づらいが、クラムリン・ロードを進む車の中から撮影された「撤去された壁」の映像。



撮影主(アップロード主)は、この映像に寄せられたコメントに返信して、次のように述べている。

... they are planning to take down 21 different peace walls in Belfast in the next year. I have to be honest, I didn't think it would have been taken down in our lifetime.


「私たちが生きている間に撤去されるとは思っていなかった」。

北アイルランドはまたひとつ、「不可能だと思われていたこと」を可能にした。 (^^)

以下、詳細。













News Letterの記事より。
Rabb McCallum, of the Twaddell Ardoyne Shankill Communities In Transition (TASCIT) group, an IFI Peacewalls project, said: “This is a brave and a bold step taken by residents who have seen more than their fair share of the conflict yet have an eye on the future and a better way of life for themselves and their families.

“Hopefully, their course of action will inspire others to consider how we move forward together as a society.”







Google Earthで上空から見る。これだけの影のできる高さの「壁」があり、少し芝生の空間があって、通路があって、そして各家の庭がある。(画像はクリックで原寸)

crrdpw.jpg

資料として、この一帯の「インターフェイス」一覧。
http://www.belfastinterfaceproject.org/map/cluster-9-crumlin-road-ardoyne-glenbryn

4801000096北アイルランドのインターフェイス
佐藤 亨
水声社 2014-01

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紛争という日常: 北アイルランドにおける記憶と語りの民族誌紛争という日常: 北アイルランドにおける記憶と語りの民族誌
酒井 朋子

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ 紛争の記憶と生きる: 北アイルランドの壁画とコミュニティの変容 食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道 恋する文化人類学者 赤毛のハンラハンと葦間の風

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4787233874紛争の記憶と生きる: 北アイルランドの壁画とコミュニティの変容
福井 令恵
青弓社 2015-04-25

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4891768274北アイルランドとミューラル
佐藤 亨
水声社 2011-03

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※この記事は

2016年02月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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