「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年02月22日

「猫の日」に、イラクと欧州を結ぶ人と猫のニュースを読み、Banksyがガザ地区に描いた猫をまた見直す。

Happiness

2.22で「にゃーにゃーにゃー(にゃんにゃんにゃん)」で「猫の日」である。ネットが日常的なものになってからできたものかと思っていたが、「日本の猫の日実行委員会が1987年に制定した記念日」とのことで(組織の名称が「実行委員会」ってのが時代を感じさせる)、ほぼ30年前から続いている「ネット以前」のものだった。

日本では語呂合わせで2月22日だが、「猫の日」は世界各国でそれぞれ定められている(ウィキペディアにも書いてある。米国では10月29日で、時差の関係で日本では10月30日だが、時期的にハロウィーンと重なっているので案外目立たないかもしれない)。欧州の多くの国では2月17日が「猫の日」で、今見てみたら、イタリアから関連のツイートがけっこう流れてきていた

Twitterを英語で使っていると、しょっちゅう「今日はナショナル・なんとか・デー」(「なんとか」の部分には動物や食べ物の名称が入る)というツイートが流れてくるが、2月20日はNational Love Your Pet Dayだったそうだ。アメリカのペット・グッズ関連業界のイベントだろうか。

……などというどうでもいいことをゆるく思いつつ、ブラウザのタブの一枚でFlickrの「猫」関連グループを眺める。そういう趣旨のグループは数え切れないほどあるが、一番大きいのはAll Catsというこのグループだろうか(猫そのものを被写体とする写真のグループで、人間が画面に入っていないもの専門)。「猫」関連のグループは、世界のいろんなところの猫さん大集合でどれも見ていて楽しいのだが、自分が猫を見るのは街中なので、自分が参加するには、街中にいる猫を撮影した写真を集めるグループが一番しっくりくる。「AlleyCat (町猫)」という名称のそのグループは、グループ名に漢字が入っているのが理由なのか、あるいは単に「街中の猫」の写真が撮影される圏の違いなのか、日本と中国からの参加者が圧倒的に多いようだ。

実に、猫は世界中にいる。それを言うなら人間だってそうなのだが、猫は人間と一緒に、人間たちの中で暮らしている。パレスチナのガザ地区でも、シリアでも。

シリアで「蜂起」が始まって1年くらいの間は、「ネット革命家」やその支持者たちは、「インターネットなんだから、やっぱり猫だろう」ということだろうが、猫をよく話題にしていたし、一部は「シリアの革命ねこたち」というようなTumblrのページを作ってさえもいた。やがて、シリアからはそのような「軽い話題」も聞こえてこなくなった。シリアで猫というと、包囲され食料が入ってこない街で特別に、猫を食料としてもよいというファトワ(宗教上の決定・指示)が出たというようなことばかりになった。

アーティストのBanksyは、2015年初めにガザ地区に潜入した際、「ねこちゃんを描いておけば、みんな、見るんだろ?」とばかりに、イスラエルの軍事力で破壊されたベイトハヌーンの家屋の残された壁に、かわいい子猫の絵を描いてきた。

gazacatbanksy.png


6月には、その壁の持ち主(家を失った人)が鶏小屋に使う材料を集めてその壁の周りを囲んで絵を保護するようにしたそうだが、青空のもと、「廃墟」でしかなかったこの壁にかわいいねこちゃんが登場したときには、子供たちが喜んでいる様子が伝えられていた。
http://edition.cnn.com/2015/12/03/world/gallery/year-in-pictures-2015/

猫は人とともにある。

イラクからも、「猫」の話題が来ている。正確には、イラクから脱出を余儀なくされた人間たちと、猫と、欧州の人々の協力の話題だ。




飼い猫の「クンクシュ」を連れてイラクを脱出した一家(お母さんと子供たち)はギリシャのレスボス島に何とか到着したが、あまりの人の多さにびっくりしたクンクシュがパニクって逃げ出してしまった。飼い猫とはぐれた一家はそのまま欧州の中へと進むよりなかったが、クンクシュはギリシャで猫たちの中に紛れ込んでいた。見慣れない猫を見つけた活動家は、真っ白なクンクシュを保護して「ディアス(デウス、神)」と名づけ、飼い主探しを始めた。Facebookを中心にネットで広範囲に(共通語である英語で)呼びかけが行われ、ドイツを経て、ノルウェーで難民として当座の居場所を得た一家と猫のクンクシュは再会を果たした。











ギリシャ語でもドイツ語でもノルウェー語でも、クンクシュについてのツイートはある。











保護されたときはもっさもさでガリガリだった白い猫は、保護した人たちによってもふもふのふわふわの姿を取り戻し、ノルウェーの家族のもとへ届けられた。










大げさなように聞こえるかもしれないが、これは「人と人をつないでいく、希望の物語」として語られている。暴力と敵意と疑念とデマが支配的な世界で。

「猫なんか」と言う人もいるかもしれない。けれど、猫がいたからこそこういう「つながり」ができたのだし、それがネットによって目に見えるものとして記録もされている。

そんなニュースを見ている「猫の日」である。






今日の東京は曇りで薄寒く、陽だまりもできないので、いつものねこさんはいつもの場所にはいないだろう。こういう日、あのねこさんはどこにいるのだろうか。雨の日は。雪の日は。

※この記事は

2016年02月22日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 16:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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