「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年02月21日

「人間の盾」戦術を仮にとったとしても、もう通用しないのではないかと思わざるをえない。

2002年、米英が「なんとしてもイラクを爆撃する」と意気込んでいたころ、メディアで注目された言葉のひとつに「人間の盾 human shield(s)」というのがあった。「人間の盾」とは、誰かの攻撃の標的になりそうなものの前に人間が立ちふさがって、攻撃を思いとどまらせるということだが、当時のイラクの大統領、サダム・フセインは、米英を含む諸外国の人々を大勢イラクに入らせて、米英の攻撃を思いとどまらせようとした。その「盾」の参加者の中には、その機会にイラクの実情を見て、外部に伝えようという人たちもいた。

そういう非常に大きな目立った出来事を経て、「人間の盾」という言葉はニュースでよく見るものになったが、その意味合いというか「色」は(少なくとも英語圏で伝えられている事柄に関する限り)、「卑劣な独裁者やテロ組織が、自分たちの身を守るために、無辜の一般市民を自分たちの前に立たせるもの」という方向に傾いていき、ほどなく、民間人の標的に攻撃を加えた者たちがその攻撃を正当化する際の言い訳として通用するものとなっていった。「確かにわれわれは民家を攻撃した。しかし、その建物の陰から武装勢力が攻撃をしかけてきたので反撃しただけだ。武装勢力は卑劣にも、民家と中にいる一般市民を『人間の盾』として利用したのだ。亡くなった市民は気の毒だが、責められるべきは彼らを殺したわれわれではなく、彼らを殺させる状況を作った卑劣な武装勢力である」というストーリーは、今さら腹を立てるのもばかばかしいくらい、既に陳腐化している。

この異常性は、それについて発言すると「反米め!」などと殴りかかってこられるという地べたのリアリズムによって、より異常になっている。「人を殺すな、ましてや民間人を殺すな」と言うことが「反米」などの政治性で解釈されるというこれは、いったい何なのだろう。

……ということを、私は「人間の盾」という言葉を見るたびにもやもやと、0.5秒くらいの間に思うのだが、その「人間の盾」について、どうも状況が変わりつつあるのではないかということを、もはや「戦争」と呼ばれさえしないバラク・オバマの「テロとの戦い ver 2.0」に関連するニュースの中で、ときどき感じることがある。

つまりそれはもう、「無視されることが前提」になりつつあるのではないかと。(そして、それが本当に「もう」なのかどうか、私にはわからない。1945年3月、なぜ東京の下町はあれほどに燃やし尽くされたのか。)






今頃になってシリア内戦について関心を持ったという人は、知りもしない話でしょうけど、これ↓とか、振り返っておくといいですよ。2012年12月。軍による人質救出作戦。これはまだ表ざたになった情報が多いほうかもしれない。そしてこれは別に「米軍だから」云々とかいう話でもない。

しばらくツイートが途絶えていたジャーナリストは、武装勢力に誘拐されていた(解放確認) #シリア
http://matome.naver.jp/odai/2135582673513306001


リビアでのセルビア大使館職員の死について、よりニュアンスがあるのは、当然のことだが、セルビア政府の反応だ。










セルビアは、旧ユーゴスラヴィアを事実上継承している(旧ユーゴの大使館の建物が、今はセルビアの大使館になっている、など)。チトーの時代の旧ユーゴは東西冷戦の時代において、「非同盟」を牽引した国だ。そのころに構築された国家間の関係は、基本的に、今も維持されている。その「非同盟」というのは、要は(欧州において)「NATOでもワルシャワ条約機構でもない」ということで、「親米」でも「親ソ」でもないということだったが、今も残る《意味》があるとすれば、それは「(明示的に)親米ではない」ということだろう。

そういう国の大使館員も、車列が襲われて拉致されてしまうのだ。

今回亡くなったセルビア大使館員のお二人は、大使一家を乗せた車の車列でチュニジアに向かっているときに後方から追突され、どのくらいやられているかを見るために運転手が外に出たとたんに武装した男たちに囲まれたという(不幸中の幸いで、大使一家は無事に国境を越えたそうだ)。

拉致犯が果たして、彼らを「セルビアの大使館の人たち」と認識していたかどうかもわかっていないかもしれない(単に「外国の大使館員」「ヨーロッパ人」として狙ったのかもしれない)。

気の毒でならない。

※この記事は

2016年02月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 10:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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