「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年02月10日

アブ・グレイブ刑務所について。もしくはウィキペディア日本語版のデタラメな記述を修正するのにどのくらい時間と手間がかかるかについて。

2月5日(金)、アメリカから、12年前の出来事に進展があったというニュースがあった。何かの事件の真犯人がわかったとかそういうことではない。ACLU(アメリカ市民的自由連合; 「アメリカ自由人権協会」ともいう)が、2003年10月から米国政府(国防総省)に開示を求めてきた資料がようやく開示された、というニュースだ。書いているのは軍事・情報関係専門で、エドワード・スノーデンの「暴露」についてもガーディアンUSで多くの記事を書いてきた元WiredのDanger Roomの「中の人」だったスペンサー・アッカーマン(Twitterを見るとわかるが、「イクメン」しながら、仕事をしている)。開示されたといってもごく一部に過ぎない。ACLUが開示を要求していたのは1800点、今回開示されたのはそのうちの約200点だ。ACLUの闘いはまだまだ続くのだった……

Nearly 200 images released by US military depict Bush-era detainee abuse
Spencer Ackerman in New York
Friday 5 February 2016 20.59 GMT
http://www.theguardian.com/us-news/2016/feb/05/us-military-bush-era-detainee-abuse-photos-released-pentagon-iraq-afghanistan-guantanamo-bay

ということでブログを書こうと、エディタを立ち上げて、ACLUが何を求めていたのかを説明するために、情報・ソースがまとまっている英語版ウィキペディアでそのトピックを改めて読み返すことにした(何しろ12年以上前のことだ。物事の前後関係や細部は、何かを書けるほどには覚えていない)。

agwpd.png英語版ウィキペディアの検索窓に、abu ghraibと打ち込んだ。その2語を全部打ち込むまでもなく、探し物はサジェストされた。「アブ・グレイブにおける拷問、および非収容者の虐待」

「アブ・グレイブ」(日本語圏では当初、「アブ・グライブ」とも表記されていた)はイラクの地名である。ここには大きな刑務所があり、サダム・フセイン政権下で逮捕された政治囚(反体制派)が拷問され、殺害されて埋められていたというが、2002年、おそらく国連査察が入っていたころのことだろう、囚人は特赦で釈放され、関係書類は施設内で燃やされ、詳細はわからなくなってしまった。ウィキペディア英語版に書いてあるが、90年代に行なわれた大量殺人(大量処刑)の犠牲者の遺体がまとめて埋められていた場所が複数個所発見されている。しかし2004年以降、「アブ・グレイブ」という地名から広く連想される人権侵害は、それではなくなっている。

2003年3月20日に開始されたイラク戦争(国連での決議を取り付けず、米英を中心とし「国際的」な体裁を整えたいわゆる「有志連合」によって行なわれた、国際法上の正統性を有さない対イラク武力行使。当時こういうことを書くと、大変なことになったんですよ。あのころSNSなんかあったら、私、ネットやめてたと思う)で、4月9日にバグダードが陥落し、サダム・フセイン政権が崩壊した後に、米軍(建前上は「連合軍」)がこの施設を接収した。当時、この施設にはバアス党員や「テロ容疑者」(それは誰だってありえた。逮捕するのに根拠など特になかったのだから)が収容されていた。その施設の名前(「アブ・グレイブ刑務所」)が国際ニュースに普通に出てくるようになったのは、2004年4月、米CBSの時事番組『60 Minutes』で、ここで米軍が何を行なっているかが示されたあとだ。

……という説明を、2016年2月のスペンサー・アッカーマンの記事についてブログに書くときに書き添えておく必要があると思ったので(もう「アブ・グレイブ刑務所」といっても、話が通じなくなっているだろう。何しろ2005年7月7日のロンドンの同時多発テロでさえ、「ああ、言われてみればそんなことがありましたっけねぇ」という反応だ)、いろいろと情報がソースつきでまとまっているウィキペディア英語版を参照したのだ。

agwpd2.pngと、左側のサイドバーを見ると、「アブグレイブ刑務所における捕虜虐待」として日本語版へのリンクもあるではないか。自分で書かずとも、ウィキペディアから引用できれば、アッカーマン記事について書くのが楽になるし、ACLUとイラク戦争についてちょっと書き添える余裕もできるだろう。

「捕虜」という日本語の用語に個人的に疑問はあるが(あれは米軍占領下で起きたことなので、米軍・米国防総省の認識どおりの用語を使うべきだと思うが、米軍・国防総省は「彼らは戦争捕虜 prisoners of warではなく、敵性戦闘員 enemy combatantなので、ジュネーヴ条約関係ない、よろしく!」ということを言っていたのだ。これは、「親米派」は隠したがるだろうが、語り継いでいかねばならない事実である)、実際に当時の日本語の報道ではその用語が用いられていたと思うし、何の迷いもなくクリックした。

それが、私の時間を吸い取った。数時間、さっくりと吸い取った。そして、特に誰も注目もしない。でも、惜しいとは思っていない。正直、虚しいとは感じているが、やる必要があることだ。日本語圏では、ウィキペディアのこのデタラメな記述が、ほかのサイトにコピペされて引用されている。このデタラメがそのように「信頼される記述」として存在し続けることは、「歴史の改変」に直結している。そしてそういう、「記述が信頼されるものかどうか」という根本的なことが、今回のように「誰か気づいた人がいれば……」という、いわば「運任せ」で、その上に「その人の善意(ボランティア精神)任せ」である、というシステムは、「知」のシステムとして、もう破綻している。そのことに、私は非常に大きな危機感を覚えている。

今回私は「見なかったことにしよう」と思わなかったのは、1時間くらいなら時間のゆとりがあったからだ。しかし、1ヶ所に手をつけたら、あそこも、ここも、全部デタラメだったため、原典(英語での報道記事)の確認も含めて、到底1時間では終わらなかった。

こういう経験をしたら、結論はひとつ。「もう、当分の間、ウィキペディア日本語版は見ないようにしよう」だ。見てしまったものを「見なかったことにする」のは良心が痛むが、最初から見ないでいれば何も問題はない。

(そして数年後に見て「ぎゃー」ということになるのだが。前も映画『Hunger』のあらすじで「ボビー・サンズは親切な看守に同情して、暴力をやめたのでした」的な、あの映画の何をどう見たらそういう解釈になるのか、というか1981年のハンストについて、参照できる日本語の文献を読んでれば、絶対そんな解釈はできないはずだが、ということが書かれていて、英語版を参照しながら全部書き直したことがある。)

修正の顛末を、私はライヴ・ツイートしていた。記録しておこうと思ったのだ。こういうことが発生すると、どのくらい時間が吸い取られるものであるかを。

途中で疲れて小休止したりしているので、途中からはあまり厳密な「ライヴ・ツイート」ではないということはあらかじめお断りしておく。







※「当時」といっても2003年ではないと思う。2004年にアブ・グレイブの拷問が露見してニュースになったあとのことのはず。




※足の裏を鉄の棒で殴られたあとのあざのような写真が出てますね。(足の裏を鉄の棒で殴るのはありがちな「拷問」。)








※「非開示の写真の中には、米軍兵士が非拘束者をほうきの柄で犯しているものがあると考えられる」。イラク人女性がほうきの柄を突っ込まれている写真があるといわれてましたよね。




※アッカーマンの記事に書いてあるんだけど、DODはこの開示について「われわれはオープンな態度で、自分たちの黒歴史も開示することをためらわない」とかいう態度。最高のブラックジョーク。実際には12年も時間稼ぎをして、しかも要求されているもののごく一部をちょっと見せて、さらに、重要な情報は墨塗り。ACLUにとって、まだまだ先は長い。。。


そしてここからが↓↓ウィキペディアの件。







※「誤訳の修正」なら、原文の参照と日本語の調整を含めても20分かそこら。でも「原文に書いてないことが書いてある」場合は、「要出典」をつけるだけですまなければ、何時間でもかかる。








※2003年のイラク戦争で米国が占領して、CPAという機関が行政を担い……云々書こうとすると、また正確性を期すために調べ物をして時間が吸い取られるので省略。ともかく、サダム・フセインが逃げたあとのイラクはしばらく「議会」がなくて、「立法者」(議員)はいなかった。で、何でこんなことに、ウィキペディア利用者・編集者が誰も気づかないのかという……。「794年に大化の改新が行なわれた」って書いてあってもスルーされそうな勢いを感じる。








※ここで、「最初の版」がソースとしているガーディアンの2004年5月の記事をまたじっくり読むなどしている。そして少し時間をかけ、さっとご飯も済ませた(投稿時刻に注目)あとで……




※ここでもう一度ガーディアンの記事を見直した。Rumsfeldで全文検索かけたりとか。














※例えば「スポーツ選手の経歴」などは、間違ったことが書かれていたらファンが気づいてさっと直せる。ウィキペディアを含む「集合知」というのは、そういう「潜在的な校閲者」を想定したシステムであるという点。

例えば「サッカー記者やサッカーファンによるコミュニティで、Wikiを使ったサッカーに関するエンサイクロペディア」なら、(「アンチ」の問題のような面倒くさい話は別の問題として)「○○選手が○○年から○○年までどのチームに在籍していたか」といった事実関係や、ルール周りのこと、用具・用品類の項目など多くの「目」がある項目については、ほっといても「正しい」(正確な)記述ができあがると期待される。しかしそのコミュニティで、全然別の話題、例えば「樹木の種類」や、「民主主義の成立と発展」のようなことを同じ形式でエンサイクロペディアで扱おうとしても、うまくいかない。同じ「スポーツ」の分野でも、サッカーについて詳しい人たちがクリケットや野球について書けるわけではない。一方で、専門外の人が書いたサッカーについての不正確な項目を、サッカーに詳しい人が修正したがるかどうか。「見なかったことにする」可能性のほうが高いのではないか。そういうことを考える必要がある。

……と、ここで手元でエディターを開いて、修正すべきパラグラフを書き改めて、Wiki特有のマークアップ(すっごいめんどくさいんですよ、普通のHTMLに慣れてると)を、覚えてはいないのでいちいちヘルプを参照するなどしながら、入れていく作業をしていたのだけど、その上のパラグラフも何か違和感があったのでチェックしてみると……。









※ここで一度「見なかったことにしよう」と考えていた。しかしそうするには、今回の「デタラメ」はあまりにひどすぎた。アブ・グレイブでの米軍管理下における拷問を、「イラクの立法者」がやらせていた、などという何の根拠もない記述は、「見なかったこと」にできるものではない。

なぜあの記述が、度重なる編集を経ても残されていたのか、本当に謎だし、謎がどうのこうのという以前に、絶望を覚える。

そしてもう1点、より根本的なところで「歴史の捏造」になっているところ。あれこれ検討しながら、自分の労力が最も少なくて済む方法を模索。







※ここで、その「内部告発者」について日本語圏で(カタカナで)検索して出てきた当該のNHKスペシャルの内容のメモなどを読んでいる。私はそのNHKスペシャルは見ていないと思う。当時はテレビはあったが(今はない)、私、アメリカにはまったく全然興味はないので、米軍内部で何があったとかは正直関心すらなかった(作業する上で必要とされる範囲で情報を入れてはいたが、関心がないので作業が終わったらその瞬間に忘れるレベル)。国際法に照らしてどうかということは見てたけど、米軍内部での調査とか、別に……。(それが通じなくて困惑することがほんとに頻繁にあった。「日本人たるもの、アメリカに興味がないはずがないでしょ」みたいな思い込みは本当に強いからね。2000年代以降はそれに「韓国」が加わってるけど、すみませんが韓国もまったくどうでもいいです……好きとか嫌いとかではなく、関心がない。関心がないので、「あなたにも意見があるはずです」と見せられるとイライラする。でも重要なニュースは、あとで参照する必要が出る可能性が高いので、自分の手元で検索可能な形にするためのメモは取ることもある。そしてSNS時代の今は、公開可能な形でメモを取ると、かなり高確率に、わけのわからないからまれ方をすることになる。別に「あなた」のために書いてるわけじゃないんですが。「お前には承認欲求があるんだろう」と絡んでくる人のほうが、よほど承認欲求の塊)

ここで私がネット検索をして読んだような「報道のメモ」は、イラク戦争のときには非常に多くの個人ブログで見られたが、SNSの時代になってブログが衰退気味になったあとは、往時ほど目に留まらなくなってきたと思う。それに、SNSが普及したあとは、「誰もが承認欲求を持っているので自分の意見を書きたがるのだ」みたいなアホで痛い「かまってちゃん」的な通説がまかり通り、そのような「単なるメモ」は「鍵つき」の状態で行なわるようになってきているかもしれない。私も「単なるメモ」は公開するのをやめた。常にそのSNSの「場」にいるという状態を可視的に作っていたら、ろくなことがないからだ。



※このリンク先は、ほんと、読むと有益。

さらに少し時間を置いたあとで……







※ここでさらにわけのわからない記述に遭遇するなどしているので、資料を探したりあれこれしている。








そしてこのころの検索のところで、そもそもこのブログを書き始めたきっかけのニュース(スペンサー・アッカーマンが書いた記事)に関連するACLUとDoDの法廷闘争のことが見つかる……




でも、これとは別に、「日本語版ウィキペディアのアブ・グレイブ拷問に関する記述のおかしなところを、改めなければならない」という課題があるわけですよ。。。

そしてようやく書き上げたのが:








……というところで、私の行なった編集・執筆を校閲したあとはどうぞみなさん、編集・加筆・訂正してください。

で、最終的に私が言いたいのは、

実態がこんなふうでもまだ

「集合知」とかほざいている脳内お花畑は

一度、お金のやり取りが発生する形で、

まともな編集物を

編集する立場に立ってみてください


ということです。

アブ・グレイブ刑務所での米軍による拷問などというド・メジャーなニュースに関してでさえ、日本語版ウィキペディアはこうなんですよ。これ、どうするんですかね。私は知らない。ウィキペディアの運営にはかかわってないので。

※この記事は

2016年02月10日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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