「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年02月09日

Index on Censorshipのジャーナル、「タブー」特集号(今日まで無料開放)

先日少し言及した通り、Index on Censorshipのジャーナルの最新号が、今日(2月9日)まで無料開放されている。アカデミックなジャーナルで、普段は「自分の通っている大学の図書館が購読していたら図書館で読む」ような媒体が、だれにでも開かれる貴重な機会だ。

無料開放されている今号のテーマは「タブー」で、目次は下記:
http://ioc.sagepub.com/content/44/4.toc

一通り、各記事の見出しと冒頭だけは見て、2本くらい記事を読んだ段階だが、非常に興味深いと思った。

中でも、かなりわかりやすく、身構えずに、それでも鋭い「論考」を、言葉にあまり頼らずに見ることができるのが、特集の最後に置かれた各国の風刺画家11人の作品の紹介(本人のコメントつきのもある)。下記URLからアクセスできる。(無料開放の期日をすぎると、そのままではアクセスできなくなる。以下、本稿でそのままはりつけているURLについては同じ)
PDF: http://ioc.sagepub.com/content/44/4/52.full.pdf+html
HTML: http://ioc.sagepub.com/content/44/4/52.full

最初に紹介されているのがセルビアの作家、Predrag Srbljanin(テーマは「性」)。続いてヨルダンのOsama Eid Hajjajの作品が2点(テーマは「宗教主義」。ヨルダンは1951年に同性愛を合法化/違法でなくしたと。イングランドよりずっと早かったんだ)。その次がエクアドルのBonil(テーマは「家庭内暴力」)とVilma Vargas(テーマは「宗教」)。そしてチリ人でイングランドに拠点を置くFiestoforo(テーマは「妊娠中絶」)、フランスのT0ad(テーマは「非・性的な裸体」)、英国のBen Jennings(テーマは「性」、というか「変態性欲」だな、これは……)と、インディペンデント紙の風刺画家Dave Brown(テーマは「歴史修正主義」、というかストレートに、ネタニヤフのトンデモ史観)。

そして、これが一番すごいと思ったのだが、英ガーディアンの風刺画家、Martin Rowsonの4コマ作品。テーマは「タブーに切り込むと標榜すること」。すばらしい。「タブーに切り込むと標榜しながら、単に下品なだけのお笑い(コメディ)」に笑わないということが、ひとつの場でいかに白眼視されるか。これは日本では(Fワードなどの汚い言葉というより)「下ネタが通じない、お堅い奴」が白眼視される状況を引き合いに出すのがわかりやすいだろう。
http://ioc.sagepub.com/content/44/4/52/F10.expansion.html

続いて、私の大好きな北アイルランドの風刺作家、Brian John Spencer(12月に、「ようやくピーター・ロビンソンを風刺画にして手応えを感じ始めたのだが、引退しちゃうんだよな」とボヤいていた)。テーマは「ひとつのタブーが打ち破られても、別のタブーはそのまま残っている状態」。つまり「同性愛」と「死」で、ストリートに現れるプラカードでは「ソドミー」と「胎児殺し」(妊娠中絶)だが、これを「笑い」にするには少し間接的にしなければうまくいかないのだろう。これも見事。ここで「男性カップル」を使わないのもクレバーだ。
http://ioc.sagepub.com/content/44/4/52/F11.expansion.html

最後は、この数年、ますます宗教保守による世俗主義への圧力が強まっているバングラデシュのKhalil Rahmanの作品で、テーマは「女性」。
http://ioc.sagepub.com/content/44/4/52/F12.expansion.html

他の記事は、けっこうがっつり読まないとならないものが多い。

巻頭に、"Talk does not cost lives, silence does" (話すことで失われる生命はないが、黙っていることで失われる生命はある)と題されたRachael Jolley編集長の文章があるのだが、これがこの特集の基本的な方針を示している。

私はそれに、必ずしも共感しない。これを突き詰めると「デマ」でも何でも、自由に発言すべきということになるが、それはインターネットでだれでも好きなように「書き捨て」ができるようになり、どんな情報でもリーチする範囲が爆発的に広くなった今の社会では、あまりにナイーヴすぎる考え方だと思う。アイリッシュ・リパブリカンの武装闘争支持のメッセージは、彼らの支配域の壁にスプレー・ペイントで書かれているのと、YouTubeにアップされたIRAのテロに関する映像のコメント欄に書かれているのとでは、単純にリーチする範囲が全然違う。壁に書くのは「犬のマーキングと同じこと」かもしれないが、ネットのコメントはそうではないだろう。それに、つい数日前、「Twitterが表示方法を変更する」とかいう無根拠な《噂》がネットを席巻し、#RIPTwitterとかいう騒ぎが起きたばかりだ。

それに、「今日の雲はきれいだな」と思って写真に撮ってTwitterなりInstagramなり何なりにアップすると、誰かが「ひょっとして地震雲か」とコメントをつけて拡散することもあるのが今の「情報社会」だ。誰かがパクって「どこそこで観測された地震雲」と断言しているものがバイラルすることだってありうる。

一方で、政府は「言論の自由」の場をどんどんせばめようとしている。先日IoCなどの報告書で見た通りだ。そういう現実にどう対処していけるかというのが今の最も切迫した課題であるはずで、その解は「野放図な "言論の自由" の推進」ではなかろう。

しかし、IoCの編集長のこの文章からは、それとは別の態度が見て取れる。「タブーを破ること」、それ自体が《善》(というかGreater goodというべきか)であるという前提だ。

そこには、「タブーを破ること」自体が目的化するという危険性がある。さっき見たMartin Rowsonの風刺画はそれをテーマにしたもので、それゆえにますますすばらしい。

あと、編集長の文章に添えられている写真が、ウクライナの例の勘違い・偽フェミニズムのカルト集団なのだが、あんなのをちやほやする前に、「女性の抑圧からの解放」ならほかにも注目すべき運動はいくらでもあるだろう。例えば、エジプトの体制に挑んだ「処女検査」反対運動。活動家のサミラ・イブラヒムはその後、「反ユダヤ主義」の発言をしたという騒動があり、英語圏のメディアもちやほやしなくなった。それこそ挑むべき「タブー」のギリギリの事例だろう。

というようにいろいろと考えるところがある。





あと、NYTのコミュニティ・エディター(コメント欄のモデレーションの担当者)と、Spikedの副編集長の対談があるのだが:
http://ioc.sagepub.com/content/44/4/81.full

これのSpiked(オンライン・メディアで、気軽に読めるマッチョな右翼メディア)の言い分を見て、約10年前に個人ブログのコメント欄に投稿されたものを削除したとか、コメント欄を閉鎖したとかいったことがあると「検閲だーーー」とムシロ旗を立てて押し寄せてくるイナゴの騒動を思い出した。英語圏でも日本語圏でもあったよね。

※私は、現在ではコメント欄に反対する立場です。元のテクストに敬意を払いもしない、ひどい場合には読んですらいない人たちが、自分の言いたいことを言ってスッキリする場でしかないので。個人の発言というものは基本的にそういうものかもしれないけれど、そのための場を、いちいちこちらが用意して差し上げる必要はないわけです。言いたいことがあるなら自分で場を作ればいい。それができなかった時代(「ホームページ」を開設しなければ自分の発言の場がなかった時代)とは違って、今はブログなりFBなりでできるのだから。

※「タブーに挑む俺様が発言する自由」があるとして、「それを読まされない、見せられない自由」もあるわけですよね。コンビニの店の前に自転車を停めるときに「女性の身体」を「性的なもの」としてしか扱っていないエロ本の表紙を見せられるのが日常という中に身をおいていて、ひしひしと感じるわけですが。そして「性的なものを嫌うのはタブーだから、それに挑む」とか「性はすべての抑圧からの解放だ」とかいう言い分もあるんですが、それを誰かに強制する自由など、誰にもないわけです。



Index on Censorshipは、2005年の「ムハンマド戯画騒動」のときに、問題の「風刺画」(と称するもの)を掲載することを拒んだ媒体のひとつだったと記憶しているのだが(記憶違いかもしれない。要確認)、今回も、このテーマであるにもかかわらず、シャルリーエブドの画像は(少なくとも目立つ形では)出していない。その点は編集方針・編集判断として注目してよいと思う。アカデミックな位置づけの媒体で、運営は利益を追求しなくてもよい非営利団体だから可能なのかもしれないが。

オンライン版は、上述の通り、通っている大学が購読しているなどの環境でない限りはアクセスしづらい。特に何年も前の記事を読みたいときは今回のような無料開放もないので困るのだが、印刷された雑誌は古書として出回っている。プレミアがついているのかなあという価格の号もあるが、たいがいは安価(1000円以下)で、オンラインでのアクセスを検討するより、紙で古書で買ったほうが安い。

読みたい号があったら、"Index on Censorship" のamazon.co.jpでの検索結果をチェックすると見つかるかもしれない。

※この記事は

2016年02月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 15:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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