「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2016年02月08日

ロンドンのドックランズ爆弾事件(IRA)から、20年になる。

1996年2月9日は金曜日だった。当時、金融・商業の一大拠点として大規模な再開発が進められていたロンドン東部のドックランズ地区は、既に「閉鎖された港湾施設の跡地」、「寂れたウォーターフロント地域」ではなくなっていた。この一帯の港湾施設が現役だった時代に使われていた貨物鉄道の線路を利用して整備されたDLR(ドックランズ・ライト・レイルウェイ)が1987年に最初に開通したカナリー・ウォーフ(「ワーフ」は日本語で変な読みが定着したもの)地域は、1990年代初頭の英国経済の不況の時期には低迷していたオフィス需要の増加に沸いていた。つまり、IRAにとっては大きな「経済標的」になっていた。

午後5時半ごろ、ベルファストと、アイルランド共和国の首都ダブリンに電話が入った。「停戦(後述)の終了」を宣言し、カナリー・ウォーフに爆弾を設置したことを告知するIRAからの電話だった。すぐにロンドン警察に連絡が行った。カナリー・ウォーフのサウス・キー駅付近からは人々が退避させられた。

午後7時1分、サウス・キー駅付近に停められていたトラックが爆発した。トラックには500キロの肥料爆弾が積まれていた。再開発で新たに建築された「外壁はほぼ全面ガラス」みたいな建物のガラスが粉々に砕け、退避しきれなかった人々の上に降り注いだ。爆風・衝撃波で飛ばされた重いもの(コンクリート片、金属板など)が飛んだ。「ドックランズ爆弾事件」と呼ばれるIRAのボム攻撃だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/1996_Docklands_bombing
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/10/newsid_2539000/2539265.stm

爆弾の被害を記録したAPの映像(後半部分は、「IRAの停戦破棄」を受けてシティで実施された検問の様子):


すさまじい被害状況だが、死傷者は数としては少なかった。死者は2人(逃げ遅れた個人商店主と店員)、負傷者は39人だった。ただし、負傷者の中には四肢切断、失明、身体麻痺の人もいる。

IRAは「われわれは爆発前に告知を行い、人的被害が出ないように退避する十分な時間を与えた。死傷者が出たのは残念なことだが、それは、爆発に間に合うように退避させられなかったロンドン警察の責任である」という内容の声明を出している。(IRAを美化する人たちは、「IRAは爆弾予告を行い、人を退避させる」ことだけを強調するが、それがめちゃくちゃな欺瞞であることは言うまでもなかろう。)

第一報を含む発生時のニュース(複数)を1本にまとめた資料ビデオ(爆発の規模などがまだわかっていない状態で、「IRAの停戦破棄」が中心的なトピック):


この17ヶ月前の1994年8月、IRA (Provisional IRA) は停戦を宣言していた。IRA……ええっと、シン・フェインのいわば「正史」としては、この「1994年の停戦」を、1990年代の最も大きな節目と見ている。英国政府にとってもそれは同じだ。つまり、「1994年の停戦で、実現へ向けて軌道に乗った和平プロセス」は、公的に書かれている《物語》だ。(なお、私はそれを当然だと思っているし、一定範囲で歓迎もしている。)

しかし、「歴史(正史)」は「勝者が書く」ものだ。

「勝者」ではない者たち(なんて言うと怒られるかもしれないが、実際、普通に客観的に情勢見てたら何が現実かはわかると思う)にも、それなりの《物語》はある(部外者が聞くに値するかどうかはまったく別の話だが)。

20年が経過して、1990年代後半の和平プロセスの最初期における「IRAの主流」と「IRAの非主流」の対立というかせめぎあいについても、いろいろつっこんだ話が少しずつ(インターネットを使って、知ろうと思えば知れる範囲で)だれでもアクセスできるようになっていて、そのころ、何が起きていたのかが、私のような者にも何となくわかるようになってきた。

1994年8月の停戦の後、「和平交渉」は進まずにいた(英国政府はIRAの武装解除を要求していた。IRAには絶対に飲めない条件である)。IRAは武器を取ることをやめているのに、依然として北アイルランドには英軍が駐留したままだ。局面が打開されそうな気配もない。そういう状況下で、アイルランドでは、(現時点で)最終的な「勝者」にならなかった者たちに、事態の(《物語》の)主導権が戻ろうとしたことがあった。

1996年2月9日のドックランズ爆弾事件は、そういうことだろう。

当時、Provisional IRAおよびシン・フェインを主導していたのは、シン・フェインを率いていたジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスに代表される「和平派」だった。一方で、PIRAの中には「アイルランドから『英国人 (Brits)』を追い出すまで、断固として武装闘争を継続する」という考え方の人たちもいた。その考えがどこまで厳密で真剣なものだったのかは議論の余地があると私は思うが(例えば「英国人 Brits」をどう定義するのか、英軍・治安当局以外にも「英国人」は大勢いるのだが、その人たちを「追い出す」ことなどできるのか))、1996年2月の時点で一時的に、彼ら「強硬派」が事態を動かす立場に立った。そうして行なわれたのがドックランズへのボム攻撃と、その4ヵ月後に続いたマンチェスターでのド派手なボム攻撃(奇跡的にも死者ゼロ)などイングランドでの数々の攻撃だ。特にマンチェスターはアイリッシュの人々が多く、ここがIRAのボムの標的にされたことは、コミュニティに深いショックを与えた(マンチェスターの人から直接その話を聞いたことがある)。

そのまま「強硬派」が事態を掌握していたら、《物語》は今とは別のものになっていただろう。

しかし実際には、一度動き始めた「和平」(IRAの「武装闘争」の停止)へ向けての取り組みは、止まらなかった。「強硬派」の「爆弾に物を言わせる」戦術についていく人たちは少数に留まった。そこらへんの詳細はあまり明らかになっていないが、少しは書かれているものもある(リンク先のソース参照)。

1996年2月にドックランズ爆弾事件で破られた停戦は、1997年5月の総選挙の結果、政権がジョン・メイジャーの保守党からトニー・ブレアの労働党に移ったあと、7月19日に復活した。(このときの日本国政府の反応(外務大臣の談話)は現在もウェブで閲覧することができる。この時期のことはウィキペディアで年表形式でまとめられているのを見るとよくわかると思うが、ブリテン島でより北アイルランドでの英軍を標的とした攻撃が頻発していた。)

このころに「政治」の生々しい現場でどのようなことがあったかは、既に語られるようになっている。ブレアの補佐官で北アイルランド和平プロセスのアーキテクトであるジョナサン・パウエルの下記の本などだ。

0099523736Great Hatred, Little Room: Making Peace in Northern Ireland
Jonathan Powell
Vintage 2009-04-02

by G-Tools


一方で、「軍事」、「武装組織」のほうで何があったかは、私でも(つまりだれでも)アクセスできるような場ではほとんど語られていない。そちらは、現在進行形でもあるわけで、それが語られるようになるのはまだしばらく先だろう。そしてその「しばらく先」が到来したときには、たぶんそんなことに関心を向ける人はほとんどいなくなっている(直接の関係者と、研究者くらいなものだろう)。

ロンドンでIRAが実際にどんなことをしていたかでさえも、どんどん忘れ去られているようだ。2005年7月7日の公共交通機関爆破テロのときはまだコミュニティの記憶として残っていたが(そしてそれを「テロ慣れ」と説明すると、アメリカでのヒステリックな反応が標準的だと刷り込まれている人たちから「テロに慣れたりするわけがない」的な文句を言われる。実際に90年代にロンドンにいた日本人が、私も含め、「ロンドンはテロ慣れしてるよねー」というナラティヴを共有していたことは事実なのだが、たぶんそんなナラティヴは、検索可能なものとして「ネットには書いてない」から「ない」とされかねない。Mixiなどで個人の日記を掘れば出てくるかもしれないが)、20年も経過すれば、記憶は薄れる。あれほど執拗に続いていて日常生活の一部となっていた「テロの脅威」の記憶でさえも。

もっとも、ロンドンにとっての「テロの脅威」は、行為主体が「アイリッシュ・リパブリカン」から「イスラム過激派」に変わっただけで、それ自体は継続している。ロンドンご自慢の監視カメラ(CCTV)網を含むオーウェリアンなシステムも、元はIRA対策だったのだが、IRAという脅威が過去のものになっても、システムは往時のものにどんどんアップデートを重ねて現役であり続けている。それどころか、今はsnooper's charterの時代だ。

Provisional IRAの中でも「ちょっと別」的な存在だった集団が、サウス・アーマー・ブリゲードだ。アイルランドの南北を隔てるボーダー(境界線、国境)に接する地域で活動する彼らは、ボーダーをまたいで活動するリパブリカン武装組織を対象とする英軍・治安機関を激しく敵視しており(相互に「敵視しあっていた」のだが)、ベルファストでの「政治」の感覚はあまり共有していなかった。

ドックランズ爆弾事件では、実行グループが証拠を消しきれておらず、ロンドン警察によってかなり簡単に特定されたのだが、その結果逮捕・起訴されたのは、このサウス・アーマー・ブリゲードの一員だった。

最終的には、実行犯の特定が事実上完全に断念されているマンチェスター爆弾事件でも、攻撃を組織したと思われる人物はサウス・アーマーに住んでいたという。(その件で個人名を特定した新聞もあったが、特定された人は潔白を主張している。)

後に、Provisional IRAが「和平」のプロセスに向かうという結論を出したときに組織を離反し、「リアルIRA Real IRA」と呼ばれた分派組織(その後、ほかの小規模な分派組織と合同し、現在は「自称IRA」、「ニューIRA」などと呼ばれる組織となっている)を作ったリパブリカンの中には、このサウス・アーマー・ブリゲードのメンバーたちも含まれていた。
In 1997, several members of the South Armagh Brigade, based in Jonesborough and Dromintee, following Michael McKevitt, left the Provisional IRA because of its acceptance of the Mitchell Principles of non-violence at a General Army Convention in October of that year and formed a dissident grouping, the Real IRA, which rejected the peace process.

https://en.wikipedia.org/wiki/Provisional_IRA_South_Armagh_Brigade#Ceasefires_and_the_peace_process


さて、そのドックランズ爆弾事件から20年となる日を前に、BBC Northern Irelandがドキュメンタリー番組を制作した。2月8日(月)の午後9時からオンエアされるとのことで、紹介記事がサイトに出ている。番組そのものは、UK内からの接続でアクセスすれば、iPlayerで見られるのではないかと思う。

Docklands bomb: Senior officer details hunt to catch those responsible
By Colletta Smith, BBC News NI
5 February 2016
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-35503934

番組では、事件の捜査を指揮したロンドン警察対テロ部隊(当時)のCommander John Grieve(警視長)に話を聞いている。グリーヴ氏は2002年に警察を退いている。北アイルランドに関しては、和平プロセスにおける武装組織の活動状況をモニターするIMCの一員としての活動(2004年以降)がある。

今回のBBCのインタビューで、グリーヴ氏は当時の爆弾犯特定の詳細を、初めてメディアに語っている。

グリーヴ氏(当時の階級はCheif Inspector: 警部)は実際に爆発の瞬間を遠くから目にしていた。「光がしゅーっと伸びるのが見えました。地平線上に長く伸びた平たい閃光のようなものです。ロンドンの反対側(西側)からも見えたので、大きな爆弾だとわかりました」

爆弾はサウス・アーマー(アーマー州南部)でトラックに積載されていた。それがアイリッシュ海を(フェリーで)渡って、イングランドをずーっと南下してきて、DLRの線路の下に停められていたわけだ。

グリーヴ氏は、「飛散したガラスで数百人が負傷していた」爆発直後の現場のことを、「まるで映画の中の光景のようでした」と語っている。夜間のことで、消防隊のサイレンの光や、救急隊員・警官が手にしている懐中電灯の光が鮮明に記憶に残っているようだ。

グリーヴ警部がテレビで情報提供を求めたところ、ほどなくして、最初の手がかりがもたらされた。空き地にトラックが放置されているという情報提供だった。部下を現場に急行させると、非常に有力な証拠があった。タイヤの間に挟まっていた雑誌だった。火をつけて燃やしてしまうつもりがうまくいかなかったのではないかというが、ともあれ、不注意にも残していたその証拠には、指紋がはっきり残されていた。

続いて、監視カメラの映像で特定されたイングランド北部のドライヴインの灰皿からも親指の指紋が採取された。「幸運にも、掃除の人が灰皿を磨く前でした」

3番目に、北アイルランドとブリテン島を結ぶフェリーの切符からも同じ親指の指紋が採取された。

しかしそれらは、警察のデータベースには載っていなかった。

捜査はここで行き詰るかに見えたが、このとき、サウス・アーマーでIRAの狙撃チームの摘発のためのロンドン警察(日本でいう「警視庁」)と北アイルランド警察(当時はRUC)の合同作戦が行なわれていた。北アイルランドから「狙撃チームを逮捕した」との電話連絡が入ったとき、グリーヴ警部は「そうか、それはよかった」と返事をした。まさか、それがロンドンでの爆弾事件と直につながっているとは思っていなかった様子だ。

「先方は、車も押さえたしライフルも押さえた上に、全員生け捕りにできてよかった、と言いました。さらに、逮捕した狙撃者たちの指紋を指紋識別の警官が検分しているときに見た最初の1セットが、例の3枚の親指の指紋と一致するとわかったのです」

このときのRUC側の担当者、アラン・メインズ氏(階級はDetective Inspector)は、「ライフルを持って車に乗っていたところを現行犯で逮捕してみれば、その人物はカナリー・ウォーフの爆弾の容疑者でもあるということで、そんなのは、警察の世界では、宝くじに大当たりするようなものです」

こうして、ロンドンの警察が追っていた事件の容疑者が、無事に北アイルランドで逮捕された。容疑者のジェイムズ・マカードル (James McCardle) はドックランズの事件を含む爆弾テロで「爆発を共謀した」として起訴され、1998年6月に有罪となり、禁固25年が宣告されたが、2年で釈放された。1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意)での「北アイルランド紛争期の政治的暴力で有罪となり服役中の者は、釈放する」という取り決めがあったためだが、この人の釈放ではちょっといろいろあったらしい。当時のNI担当大臣の暗黒卿マンデルソンが、 Royal Prerogative of Mercyという裏技を使っている

で、捜査担当者が捜査秘話を激白しているだけなら、「事件から20周年」のドキュメンタリーとしてありがちな感じだ。だがこの番組紹介記事の末尾には、なぜか、「アメリカの議員」のコメントがついている。そのコメントは、「テロ組織と交渉する」ことをプロセスの一部として組み込んでいる英国流のやり方に「疑問を呈する」ものだ。

関係ないじゃんね、アメリカは。

というか、PIRAへの草の根支援をしていたのはだれだ、という点では大いに関係があるのだが。

そしてこの記事を読み終えて、「20年経過してもまだ、IRAの内部のことはこういう場では語られないのだなあ」という思いは強まるばかりだ。

サウス・アーマー・ブリゲードは、「正史」が語る「IRA」と「IRAを名乗っているがIRAではない者たち」(つまりディシデント・リパブリカン)との関係をはっきりさせるためには重要な存在なのだが。

そして「歴史」や《物語》がどうであろうとも、あの爆弾の被害を直接にこうむった人がいるということにはまったく変わりはない。落命した2人(ニューズエイジェントの店主と店員)は、何がどう語られようとも「事態(北アイルランドと英国の関係)にはまるで無関係なのに、それのための政治的暴力によって殺された」のだし、手足を奪われ、身体を麻痺させられるなどした人たちもそのような暴力に単に巻き込まれた。たまたまそこにいたから、被害にあったのだ。それは私だったかもしれない。あなただったかもしれない。家族の誰かだったかもしれないし、友人だったかもしれない。たまたまそこに居合わせたことで、あるいは自分がいる場所をたまたまテロリストが標的にしたことで、生命・身体が脅かされる。

昨年(2015年)の事件の記念日に、ベルファスト・テレグラフはあの爆弾で視力と両脚を奪われ、視力を奪われ、身体が麻痺した状態に置かれている人のご家族にインタビューしている
The bomb went off as he sat in his car nearby.

His wife Gemma said: "My Zaoui is blind, paralysed, brain-damaged and has no leg. He is very disabled and now he is in nappies.

"My Zaoui and other disabled victims need help so we can provide better care.

"My Zaoui has been let down by the Government. I'm praying that the MPs in the committee will help my poor Zaoui and all those left disabled by Gaddafi IRA Semtex."


そう、あのボムには、リビアのカダフィ大佐が「反米・反英なら何でも応援するよ」ということでIRAに提供していたプラスチック爆薬(セムテックス)が使われていたのだ。そして2015年までは、「リビアの支援でIRAが行なった爆弾攻撃の犠牲者は、リビア政府に補償を要求することができるのではないか」という主張が英国会でも議論されていたのだ。

しかしそれは、「リビアが補償しない」ことが問題なのではない。英国政府が、自国の国内テロでの被害者に対し、十分な社会保障を提供していないことが第一義的に問題になっているわけだ。テロに巻き込まれた結果として働けない人、介護を必要としている人が、テロ組織メンバーが失業手当や年金などで受けられるよりも少ない金額しか受け取れないのが現実である。

「事件から20年」。その機会にBBCが制作したドキュメンタリーに、そういった点への言及があるかどうか、私にはわからない(普通に見ることができる環境ではないので)。

2011年の追悼式典のときにカナリー・ウォーフの地域メディアが出した記事が、非常にはっきりしている。
http://www.wharf.co.uk/news/south-quay-bomb-remembered-15-8360845
It was just after 7pm on a Friday, February 9, 1996. Inam Bashir and his co-worker John Jeffries were in their newsagents on Marsh Wall.

Opposite, Zaoui Berezag had just pulled up in his car after agreeing to work his wife Gemma's cleaning shift at Midlands bank to allow her to look after one of their children, who was feeling ill.

Zaoui was in the car with their two other children.

Just then, a blaze of light tore through the street, emanating from a half-tonne bomb planted in a car transporter truck outside the shop.

...

Zaoui and his children survived but their lives would never be the same. Zaoui spent two weeks in a coma and was left with severe mental disabilities.

He now has carers but his wife also spends most of her day's looking after him. Left with a mental age of about five, he can no longer be a father to his children.


2011年のこの式典のときは、まだ、リビアの#Feb14の「革命」は始まっていなかった。ムアンマル・カダフィの政権は、そのまま続いていくだろうとだれもが思っていた。だからテロ被害者は、カダフィに向かって語りかけていた。

それはたぶん、本人の耳に入ってすらいなかっただろう。早々と政権を離脱して亡命して、悠々自適と言われている元外相のムーサ・クーサ(IRAに対する支援の当事者でもあるはずだ)の耳には入っているかもしれないが。



ドックランズは「職住近接」の形で再開発されており、サウス・キー駅付近はオフィス・ビルだけでなく集合住宅も建設されていた。金曜日に仕事を追えて帰宅したばかりの人が、自宅にいて爆発を目撃・経験している例も多く、その一人の証言がBBCのサイトに残されている。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/witness/february/10/newsid_2737000/2737847.stm

なお、BBCのOn This Dayのページは、当時の報道をそのまま文字として残しているページだが、記事本文の右側にあるIn Contextというコラムは後日のパースペクティヴで書き加えられた「解説」である。その部分に、こんな一節がある。逮捕され起訴された容疑者(被告)の罪状についてだ。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/february/10/newsid_2539000/2539265.stm
Murder charges - for the deaths of the two men killed, newsagents Inam Bashir and John Jeffries - were dropped when the judge dismissed the jury because of concerns about press coverage.


ドックランズ爆弾事件の被害者を、「北アイルランド和平プロセス」を無事に進めるために、英国政府はかなりひどく無視しているのだと思う。そしてガス抜きとして機能したのが、「カダフィは補償せよ」という運動だ。

シニカルなようだが、これが「英国流」だと思う。



YouTubeを見てたら警察の映像があった。右上の時計の時刻は狂っているようだが。

※非常に生々しいのでうっかり見ないほうがいいかもしれないです。女性のパニクった叫び声などが入ってるので。



この警察の映像と、既に上でみたニュースの映像をつなぎ合わせた映像もある。アップ主は、現場近くのオフィスに出張で来ていて、仕事を終えてホテルに戻る前に、金曜日だからということでスーパーマーケットにビールを買うために同僚と立ち寄ったため、爆風・衝撃波の直撃を免れたという。
https://www.youtube.com/watch?v=isTRFKTlHew

そして、これらの映像につけられた「コメント」とやらが、「YouTubeのコメント」がどういうものかを如実に物語っている。







もちろん、有益なコメントもある。



※この記事は

2016年02月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:50 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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