「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年01月25日

イスイス団のビデオが新たに出され、パリの街を襲った戦闘員がイラク/シリアで何をしたかが示された。

1月23日からこちら、「1年前の今日」の自分のツイートを読み返すと、つらい。
http://twilog.org/nofrills/date-150123/asc
http://twilog.org/nofrills/date-150124/asc
http://twilog.org/nofrills/date-150125/asc

あの人たちの首を切って殺した人物は、2015年11月12日(パリの同時多発テロの前日)にラッカで米軍が行なった攻撃で死んだ。ただしそれが、イスイス団の側から「事実」として確定されたのはつい先日、1月20日だ。イスイス団の機関誌の13号で、奴への追悼特集のページが組まれていたのだ。

そしてその13号で、大きな扱いをされていたのが、2015年11月13日のパリの同時多発テロのことで、あの事件について機関誌がああいうふうに扱うということは「事件はイスイス団が起こした」という特大の声明で、いや、あの攻撃から2ヶ月経過してるんだけどね、それでもやはり世界的に各報道機関が記事にするようなニュースになった。

そこに加えてさらに今日(25日)、映像が出た。

それについて、NYTのジャーナリストやSITEのアナリストのツイートを一箇所にまとめてある。

「連中を見たら、殺すべし」と題するISISのビデオ。ジャーナリストやアナリストはどう見るか。
http://matome.naver.jp/odai/2145369556647616901


「連中を見たら、殺すべし」というそのビデオのタイトルは、「異教徒を殺す」ことに熱心なイスラム過激派や、「イスラムが平和の宗教なんて大嘘だ」とわめきたてるユーラビア(「イスラム化するヨーロッパ」)論界隈で「イスラムの最大の特徴」であるかのように扱われているクルアーンの一節で、文脈から切り離されてぐるぐるしている言葉だ。

また、イスイス団が「むわはははは」と脅しをかけてくる小道具としてハッカー風味の演出を加えているのだが、これは秒速で「フェイク」と見破られた。エドワード・スノーデンさん、ぱねぇ。(マジで。)

しかし、こういうビデオが出たと聞いても、もう「異常」とは感じなくなってしまった。フォーリーさんが殺され、湯川さんが拘束されたときにはまだ、そうではなかった。

こんなことにも慣れてしまう。

※この記事は

2016年01月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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