「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年01月21日

本来、「自由」な存在である美術館・博物館の楽しみ方のひとつの例。

博物館や、それに類する「過去からの蓄積」についてのニュースといえば、「イスイス団による破壊」という話題が多いという日常の中、ほっとするような、楽しいハッシュタグがTrendsに入っていました。

英語圏ハッシュタグ「美術館・博物館でセルフィ」祭りが楽しそう。
http://matome.naver.jp/odai/2145331651013290801


ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーって、中の撮影可でしたっけ。現代の作家・現代の肖像画は著作権・著作隣接権などがあるのでダメかもしれませんが、古い時代の肖像画の部屋で、ティーンエイジャーがセルフィを撮影している光景の写真があったりします。

あと、各施設が収蔵している名画・彫刻などを「セルフィを撮る人」のように加工して見せてくれてたり。フェルメールも、レイトンも、ロダンも。それから、英国の地方の施設に多い「動物の剥製が展示されている博物館」では、その施設の「顔」的な剥製(見学に来る小学生に大人気、みたいな存在)の前でのセルフィ撮影のベスト・ポジションを示してくれてる館があったり。

#MuseumSelfies というこのハッシュタグ、発起人(呼びかけ人)はマー・ディクソンさんという英国在住のキュレーター(学芸員)で、美術館・博物館をテーマにした中高生の学習活動の企画などをなさってきたと個人のサイトにあります




美術館であれ博物館であれ、museumと呼ばれる施設は、イスイス団(ISIS)やタリバンのような連中による「破壊」を見ると実感されると思いますが、本来、「共有」を前提とした「自由」な世界ならではのものです。今、あんなふうに「自由」を謳歌している西欧だって、「宗教改革」の時代には場所によってはイスイス団ばりの破壊が行なわれていたのですが(特にカルヴァン派の「物質的快楽」の否定により、カトリックのきらびやかなものは破壊された……うちらの習った「歴史」では、ルター派であれカルヴァン派であれ、「旧弊を打破したポジティヴなもの」のようなイメージが貼り付けられてるかもしれませんが)。

ハッシュタグの呼びかけ人のマー・ディクソンさんは、美術館・博物館を「楽しむ」ことに加え、「共有」する喜びをソーシャル・ネットという場で実現する活動を行なっているようです。このハッシュタグを見ていると、ソーシャル・ネットがキラキラしていた時代(2008年とか2009年とか)の精神はまだ死んではいないな、と思います。

ソーシャル・ネットというものが「対話」ではなく「論破」の場とされ、誰もあんたのことなんか話題にしてないよっていうときでも何かというと「俺のことかーっ、俺の悪口かーっ」と殴りかかってくるような人や、何の根拠もなくめちゃくちゃな言いがかりをつけてくる人、まともな「批判」ではまったくありえないようなひどい罵倒をしてくる人と遭遇することがやたらと多く、また、「根拠のない偏見を『個人の意見』として垂れ流す」ことが「自由」とされてしまっている昨今、こういう形での「共有」の光景を見ることは、新鮮な体験でもあります。



※この記事は

2016年01月21日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:29 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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