「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年01月16日

ウィキペディアが15歳になったというので、特設サイトで使われている写真について調べてみた。

wpd15.pngウィキペディアが15周年を迎えたそうで、Wikipedia15という特別サイトを作っている。

このサイトのバナーの、「2人並んで、教科書らしきものを広げている、カチューシャをして制服らしきものを着た女の子2人」の写真が気になった。手にしている教科書らしきものはアラビア語らしきもので書かれているようだし、雰囲気もなんとなく、パレスチナの小学生かな、と思ったのだ。

バナーの片隅には "Tanya Habjouqa, CC-BY-SA 3.0" と、撮影者の名前とクリエイティヴ・コモンズのライセンス詳細は記されているが、写真のキャプションのようなものは見当たらない。撮影者の名前で検索すると写真家としてのサイトがすぐに見つかったし、やはりパレスチナをテーマに撮影してきた人だということもわかるが(Aboutを見ると、ヨルダン出身でアメリカで学んだ写真家だ)、サイト内のギャラリーには、この写真は見当たらない。

そこで、この画像のURLを取得してGoogleで画像検索をするが、「この画像の最良の推測結果: lengua materna」(スペイン語で「母語」の意味)と言われるだけで、写真がどこで撮影されたものなのかはわからない。いつもはGoogle画像検索で有効なのだが、「すべてのサイズ」のページで表示される画像を見ても、撮影地情報がない。「一致した画像を含むページ」は、世界各地のスペイン語圏のブログや何かのプロジェクトのサイトで、本当に単に「母語」を表す素材画像として使われているようだ。ううむと思いつつ検索結果の2ページ目まで進んでようやく目にした英語のページがOpen Michiganというサイトだ(「サイト」といってもここもWordPressを使ったブログだが)。そのサイトのトップページ(最新記事一覧)に「インターン募集のお知らせ」という2015年8月付けの記事があり、そこでこの写真が使われていた。記事末尾には、"Photo by Tanya Habjouqa (UNESCO) [CC BY-SA 3.0-igo (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0-igo)], via Wikimedia Commons." というまともなクレジット表記もある。

このリンク先でわかったのだが、この写真は2011年のユネスコ(UNESCO)とウィキメディアのパートナーシップでの写真提供プロジェクトに入っていたもので、撮影場所はヨルダンの首都アンマンの小学校だそうだ。

今、私はこの調べものをほんの10分程度で終えたが、(一般人に使用可能な)ネットがなかったころにこういうことを調べようとしたら、掲載媒体の出版社やフォト・エージェントに問い合わせたりして、丸一日、あるいはそれ以上かかっていただろう。

こういうことが、うちら「文系」とバカにされる立場の一般人にとっての「ネットの恩恵」の柱で、それはすなわち、フランシス・ベーコンの金言(昔、銀座の近藤書店のブックカバーにも印刷されていた)、「知は力なり Knowledge is power」の、Knowledgeを手に入れることが極めて容易になった(つまり、Powerも手に入れやすくなった)ということであり、その点でのここ15年の環境の整い方は実にすばらしいと思うが(特設サイトに集められている「北米&西欧以外の世界各地の声」もその点を再確認するようなものが多い)、環境だけ整っても肝心の「手に入れることができる『知 Knowledge』」が充実していなければ、あまり意味はない。

日本語圏の、「NHKのニュース記事でも2週間くらいしたらURLが無効になっているのがデフォ」という状況では、ウィキペディアが設計された英語圏の「とにかくアーカイヴしておく」というのが前提の世界(例えば英BBCでは、今も普通に1998年のグッドフライデー合意のころの記事が読める。ただし、直近のBBCサイトのリニューアルで検索がとんでもないタコ仕様になったので、手軽に、なおかつうまいこと探しだす手段がなくなったが)以上に、「ユーザーが作るコンテンツ UGC」の価値は大きくなるわけで、日本語版ウィキペディアは、特に「出典をつける」という点を強化しながら、もっともっと充実していくことが期待されるし、自分もそのためにできることがあればやっていきたいとは思う(ただし組織運営的なことにかかわるのはいやだ)。

さて、ウィキペディアが「15歳」になったというのは、最初に公開されたのが2001年1月15日だったということだそうだが、Wikipediaが「使えるもの」として認知されだしたのは2001年よりもっと後のことだっただろう……と、自分のブログ(これも2003年からやっているので、ある程度は「歴史的資料」として役に立つ)で初出を見てみると、2004年10月1日にハートルプール(英国の地名)についてリンクしている。こんなに遅かったかな、とカタカナ表記で検索しなおすと、2005年3月26日が拙ブログでの「ウィキペディア」の初出なので、やはり、2004年10月1日にWikipediaという表記でリンクしているのが最初だろう。英語版はもっと早くに普及していて、2004年10月にはもう日本語版もけっこう使われ出していたと思う。

……というか、私、日本語版への最初の記事投稿(アカウントを取っていなかったころ)は2003年だった。ある国の大物政治家について日本語版ウィキペディアにエントリがなかったので、当時、作成したもののボツになっていた「世界要人データベース」のようなものの原稿から、事実(「A国の元大統領(在○年〜○年)」、「○年生まれ」のような情報)を並べたほぼ箇条書きのような断片を、辞典っぽい文体に整えて投稿した。書籍の注で、よく「訳注」として見られる程度の必要最小限の情報量のものだが、その程度の短い断片でも、その人名を日本語でインターネットで検索した人が、日本語で「《人名》はA国の元大統領」云々といった基本的な情報を得られることは、日本語圏のように「新聞・テレビなど報道機関に記事をアーカイヴするという発想がほとんどない」言語圏では、大きな意味を有する (will make a big difference) と思った。(当時は、毎日新聞のサイトがある程度自由に過去記事を見られるようにしていたが、ほかの新聞社・テレビ局はURLは次から次へとぜんぶ削除していた。)

既に英語版でWikipediaがどういうふうに編集されるのかは少し見て知っていたので、「《人名》はA国の元大統領(在○年〜○年)」、「政界を去ったあとはかくかくしかじかである」という程度の短いエントリでも、エントリを立てておけば誰か詳しい人、その人物について説明できる人、説明したい人がどんどん書き加えてくれるだろうと考えていた。実際にそのように展開した。

どんな小さな断片でも、そこに存在していなかった「事実の記述」を存在させるということにはそれ自体価値があると私は信じているし、(特にGoogle登場以降の)インターネットという「人は検索する」という前提のもとでの情報のアクセシビリティ(「検索すれば情報は手に入る」)は、それ自体は極めて理想的な、すばらしいものだ。それは私のように「インターネットなんかなかった」環境で卒論書いた世代の人はみな共有している思いだと思う。









そして、ウィキペディアは大英博物館とお誕生日が同じだそうだ。




うを。なつかしの "miserable failure" (・_・)







なお、秘密結社「Wikiって略すな」の地下活動はまだまだ続いていると思いますが、英語圏に片足つっこんでると、なかなかにつらい現実に日々直面します。(;_;)
http://www.urbandictionary.com/define.php?term=wiki&defid=2539297

※この記事は

2016年01月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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