16世紀にポルトガル人がやってきたとき、ブラジルの海沿い3500キロは、内陸に向かって約350キロ拡がる大西洋岸森林に覆われていた。面積にしてフランスの2倍に当たる。わたしの両親の土地はこの生態系に属していた。政治恩赦のあと帰国できるようになって、レリアとわたしが戻ってみたら、木が切られてしまっていた。ペロバスというのが有名で、カシのいとこみたいな木だが、それ以外にもいろいろな種類が、発展の真っ最中だったブラジルの諸都市の住宅整備やら、鉄鋼業に木炭を提供するやらに使われていた。森林が伐採されたせいで、雨が降っても水のたまる場所がなくなって、そのまま流れていっていた。両親の土地は肥えていて、昔は牧草地や、水田や森に覆われていたのに、ひからびて草一本生えていなかった。わたしが子どもだったころ、このあたりに住んでいた30世帯ぐらいの家族はいなくなって、牛飼いしか残っていなかった。戻るたびに、このプロセスは目に見えて加速していた。
――セバスチャン・サルガド+イザベル・フランク(中野勉訳)『わたしの土地から大地へ』(河出書房新社、2015年)、pp. 134-135
高名な写真家であるセバスチャン・サルガドの(ジャーナリストに語るという形で言語化された)自伝、『わたしの土地から大地へ』を読み終えたので、読書メモ。
最初のページを、「セバスチャン・サルガドの写真を見ることは、人間の尊厳を体験するということだ」と、この本をつくったフランスのジャーナリスト、イザベル・フランクは書き始めている。「ひとりの女性、男性、子どもであるというのはどういう意味なのかを理解することだ」。
この本は、世界的な写真家であり、「開発」や「社会構造の変化」の中で故郷を(事実上)喪失した人物であり、ダウン症の息子の親であり、「木を植える人」であるサルガドに、フランクがじっくりと話を聞いたものを、一冊の本としてまとめたものだ。聞き書きだが、インタビュー形式ではなく、サルガドがひとり、ただ語っている(しゃべっている)形式で書かれている。サルガドの写真は口絵で全13点(既発表作)が掲載されている。
フランクが「まえがき」で「いまから皆さんと共有したいのは、彼の語り部としての才能である」(p. 9)と書いている通り、全25章で構成されたこの本は、各章は10ページ内外で、各章の終わりの部分が次の章の話題につながっていくという入念に考えられたつくりになっていて、流れるように読み進めることができる。ことばも視覚情報も、何もかも断片化されたものがただそこらじゅうに、読みきれない・見きれないほど大量に転がっていて常に流れてくるという日常的なそれとは別世界の「情報の宝庫」である。インターネットの接続を切って、単にページを繰るための本だ。(実際、この本ってネットがほとんど出てこないんじゃないか。)
今、日本語版ウィキペディアでのエントリにはないし、英語版を見ても書かれていないのだが、1944年生まれのセバスチャン・サルガドは学生時代に軍事政権批判運動に参加し、ブラジルにいられなくなって、1969年にフランスに亡命した。学生時代に結婚した妻のレリアも一緒だった。
1950年代後半から急速に「開発」「工業化」が進み、都市への人口集中が始まったブラジルで、セバスチャンは当時新しい学問だった経済学(1960年代のそれは、「新自由主義」以降ハバをきかせている経済学とは全然別の学問だ)を学んでいた。生まれたところは大都市から遠い、「ポルトガルと同じくらい」の面積がある谷にある農園で、高校のときにヴィクトリアという都市に出た。大学では「思想的にキューバ寄りで、武力闘争も辞さない構え」の学生団体のメンバーだった。1967年にサンパウロ大学の修士課程に進むが(ブラジルという国の未来を作っていくエリート集団のひとりだったわけだ)、米国が支援して「ソ連の脅威」のもとに正当化されていた1964年の軍事クーデター後の独裁政権に対する抗議行動に参加し、最終的には「最年少のメンバーは外国に留学して、同時に外から運動をつづけるのがいいということになった」ために、フランスに移った。妻のレリアは、この年の夏、両親を立て続けに亡くしていた。2人が知り合ったのは、セバスチャンの学生時代のバイト先のフランス文化普及協会(アリアンス・フランセーズ)でのことだった。
フランスに行くのはわたしたちにとってごく当然のことだった。フランスは人権と民主主義の祖国だった。共産主義と米国の中間の、第三の選択肢だった。わたしたちは共産主義者のことは尊敬していた。左翼の中心的な支えは彼らだったから。……アメリカ人に対する信頼はというとゼロだった。わたしたちを押しつぶしていた弾圧のきっかけになったのは彼らだった。わたしたちと民間レベルで、でなければ民主主義国どうしとして、連携しようなんて気は、アメリカ人にはこれっぽっちもなかった。いつだって、いちばん権力が強くて、武力を握っている連中をそのままの位置に据え置くことにしか貢献しなかった。
Ibid., p. 34
……という部分を引用するだけだと、いろいろときぃきぃ言いたくなる人がいるかもしれないが、この本ではサルガドは「ソ連への幻滅・失望」のようなものもはっきり語っている。
フランスに到着してすぐにセバスチャンとレリアはソ連に行ってみたいと思い、チェコスロヴァキア(当時)のプラハで亡命生活を送っていたレリアのおじさん(ブラジル共産党の設立にかかわった人)の友人を訪問した。そこで「(ソ連では)官僚組織が民衆の手から権力を取り上げてしまった」と告げられ、彼らは衝撃を受ける。「体制を内側から生きたこの人が、もう国際共産主義運動を信じられなくなってしまっている。共産主義こそブラジルをよりよい国にするための基礎になってくれるはずだ、と希望を寄せていたのに」(p. 56)。彼らはその足で、東ドイツ(当時)のライプツィヒに向かったが、移動もスムーズにできず、「顔が傷だらけで、おっかない風体の連中にぐるっと取り囲まれて、まわりから機関銃を向けられた」りもした。このように共産主義国の現実を体験し、「ロマンを体現していた体制が、感受性も優しさも剥ぎ取られたものなんだっていうことがわかった」(p. 58)。それでも、軍事政権に反対する運動の一員として亡命を余儀なくされたり、投獄、拷問といった弾圧を経験したりした人たちが、ブラジルの大統領に選ばれていること(1995〜2003年のカルドーゾ大統領、2003〜11年のルーラ大統領、2011年〜のルセフ大統領)は「嬉しい光景」(p. 39)と述べている。つまり、ネットの日本語圏でよく見る「昔は左翼だった人物が幻滅し、左翼は全否定するようになるのは当たり前のことだ」とかいうのは(あと、実体のない「チャーチルの名言」も……ちなみにliberalは、英国では「左翼」云々では全然なくて、世界史の教科書に出てくる「ホイッグ党」な)、「まあ、そういう事例もあるかもね」程度に流しておくべき極端な事例だということだ。
サルガドは次のようにも言っている。
そもそも、振り返ってみると、ファシズム、ナチズム、道を誤ったソ連型の共産主義、こういう体制はもちこたえられなかった。
Ibid., p. 39
(ロシアから言わせたら「ファシズムと同一視するとはけしからん」ということになるのかもしれないが、第二次大戦でソ連とドイツが敵対して戦ったからといって、ソ連が「ファシズム」と正反対だったということにはならない。それは米国も英国も同じだが。)
なお、サルガドよりずっと上の年齢だが、ブラジルの「新時代」のシンボルとなった人造都市ブラジリアの大統領官邸や国会議事堂を含む数々の中心的建物を作った建築家、オスカー・ニーマイヤーも、1964年のクーデター後にブラジルにいられなくなり、1967年にパリに亡命している(ウィキペディア)。ニーマイヤーは1985年に軍事政権が終わった後にようやくブラジルに戻っているが、サルガドは1979年に許可が出てブラジルに戻ることができるようになった(p. 79)。本エントリ冒頭に引用した部分で語られているのはそのことだ。
本エントリ冒頭の引用は、1990年代のことだ。といっても、具体的に何年なのかは前後を見てもはっきりしない。そういう点、「伝記」としての資料性は弱いかもしれない。けれども人間ひとりの「物語」は、そんなにがっちりと年表になってその人の頭の中・身体の中にあるわけではない。
サルガドが、不毛の地になっていた故郷に最初に木を植えたのは、1999年11月だった。その木が育ち、昆虫が来て、生態系が再生されていくさまを語ったところは、とても美しい(pp. 138〜140)。それが、「人間」をずっと撮ってきたサルガドが、「自然」を撮るきっかけとなった。
![]() | Genesis Lelia Wanick Salgado Taschen America Llc 2013-06-15 by G-Tools |
写真を発見したのはわたしにとってほんとうに幸運なことだった。しかも偶然だったんだ! ある日、父が言った。「セバスチャン、お前は有名な写真家で、パリに住んでる。だけど考えてみろ、お前が子どものころ、この農場を売り払ってたらどうなったと思う? ……そうなってたら、いまごろお前は隣の農園でトラクターの運転手か、大きな町のスラムに住んでたか、どっちかだ」。その通りだった。
Ibid., p. 195
サルガドの仕事はどれも強烈だが、2015年以降の現在の「世界」(「国際ニュース」の舞台、というような意味で)で最も鮮烈に見えてくるのは、Exodus (英題はMigrations)だろう。写真はサルガドのサイトで閲覧できるようになっている。Portfolioのところだけでなく、Publicationのところにもある(雑誌掲載紙面のスキャン)。Rolling Stoneはすごいね。
http://www.amazonasimages.com/travaux-exodes
Almost everything that happens on earth is somehow connected. We are all affected by the widening gap between rich and poor, by population growth, by the mechanization of agriculture, by destruction of the environment, by bigotry exploited for political ends. The people wrenched from their homes are simply the most visible victims of a global convulsion.
このプロジェクトについては、13章でまとめて語られている。彼は自身が「そのひとり」なのだ。
……公式には、わたしはフランスに留学するためにブラジルを出たことになっていたが、パスポートの期限が切れたとき、ブラジル政府は更新を許可しなかったので、わたしは事実上難民になっていた。結局フランス国籍をとったし、レリアも子どもたちもフランス人になったけど、フランスで生まれた息子たちと違って、わたしは一生、ほんとうのフランス人になることはないだろう。いつまでたっても移民のままだろう。亡命というものを体験しているし、祖国から去るというのが何を意味するのか知り抜いている。……
Ibid., p. 110
6年をかけたプロジェクトで、写真家は、日本語圏の報道などでは「出稼ぎ労働者」と表現される「移民たち migrants」を撮影し、また「避難民 displaced persons」や「難民 refugees」と呼ばれる「migrants」を撮影した。台風の被災地では、環境破壊(森林の伐採)で被害の規模が大きくなっているのを目の当たりにした。そして……
……生命の危険にさらされている住民たちも訪ねた。たとえばイラクのクルド族。アフガニスタンやなんかの難民キャンプに行った。移民と違って、こういう人たちはよりよい暮らしを夢見ているわけではなかった。迫害や戦争をおそれて、住んでいた土地から逃げ出さなければならなくなったわけで、そのあとはよくも悪くも、状況に合わせていこうとしていた。最終的にずっと住み続けることになった人たちもいた。たとえばレバノンのパレスチナ人たち。結局もとのところに戻らずに、移民になる人もたくさんいる。
Ibid., p. 112
「難民と移民は違う」とドヤ顔で吹聴しつつ「難民」を「移民」と同一視することが「賢い」かのように錯覚されかねない流れの中で、かみ締めるようにして耳を傾けるべき言葉と、目を凝らすべき写真だ。
バルカン半島にも行った。行き場をなくした人たちに出会った。戦争好きで嘘つきな指導者たちにけしかけられて、おたがいにいがみ合っていた。元はユーゴスラビア人だった何百万の人たちが、クロアチア人、セルビア人、ボスニア人になっておたがいに敵対して、ずっと住んでいた場所から逃げ出さなければならなくなっていた。迫害を受けたジプシーたちにも出会った。それから、アルバニアやコソボから大量の人が流出するのを見た。どこも似たような状況だったから、だんだん気が滅入ってきた。
このルポをやって、わたしたちの世界の犠牲になった人たち、いろいろな体制の犠牲になった人たちと正面から向き合うことになった。こういう体制は、違いはあるけれど、底の部分では似通っていて、結局のところ結びついている。この人たちはひどい瞬間を生きてきた。生きてきたなかで最悪ということもあった。だけどわたしが写真を撮るのを許してくれた。自分たちの苦しみを知ってほしいという気持ちがあったんだと思う。
Ibid., pp. 112-113
![]() | Migrations: Humanity in Transition Sebastiao Salgado Aperture 2000-04 by G-Tools |
続く14章はモザンビーク。アパルトヘイト政権(反共主義でもあった)下の南アフリカが、隣国でマルクス=レーニン主義の政府が樹立されたときに何をしたか、という話だ。つまり、南アが資金援助した反共の運動体。政府側が都市部、反共の「抵抗運動」が地方を掌握し、「抵抗運動」は、今のうちらにとって普通になった言葉を使えば「テロ」を行なった(ただし、うちらのマスコミなどが彼らの行為について「テロ」という言葉を使うかどうかは疑問である)。
(反共の抵抗運動)レナモは村に入っていって住民たちを抹殺した。そういうとき、大人はたいてい畑に出ていて、子どもたちは学校に行っていた。逃げられる人はそれぞれ別の方角に、ばらばらに逃げた。逃げるなかで家族はばらばらになって、おたがいにはぐれてしまった。子どもを捕まえると、レナモは軍隊に入れて兵士にした。……
Ibid., p. 116
こういう「離散」の現場でサルガドは国連の専門機関や人道支援NGOの支援活動に加わり、子どもたちの肖像写真を撮影した(親との再会のために役立てられた)。そして、家を追われキャンプに流れ着いてきた対立する両勢力の人々が共存し、「戦士の霊」を追い払うという「厄除けの儀式」を行ない、「みんな同じモザンビーク人」としてともに故郷に戻っていくのに同行した。そこで多くのことを目撃した。それが1994年だ。
モザンビークの北に位置するのがタンザニアだが、そのタンザニアにルワンダから多くの人々が脱出していると知らされたサルガドは、経済学者だったころからかかわっているルワンダに入った。最初はコーヒーの事業で、続いて『人間の手』という人の労働をテーマにした写真プロジェクトで彼はルワンダを何度も訪問していた。そして入った1994年のルワンダは、死体の山があちこちにできている状態で、『人間の手』の取材を行なったキヴ地域の有名な茶園は……
あの有名な茶葉農園には、最初はジョゼフと、そのあとジュリアーノといっしょに行った。たくさん笑って、実に幸せな気持ちだった。行ってみるとすべて焼き払われていた。あそこの茶葉は植えるのも摘むのもあんなに難しいのに、あとかたもなくなってしまっていた。焼け焦げた地面には、そこらじゅう骨が転がっていた。……
Ibid., p. 127
この本の中で、最も悲痛なのは、ルワンダについてのこの第15章だ。
続く第16章は、とても力強い。
……「残虐行為に直面したとき、いい写真っていったいどんなのですか?」と尋ねられることがある。わたしの答えはほんのひとこと、「写真はわたしの言語なんです」。どんな状況であっても、その場での写真家の役割というのは口をつぐむこと。目で見て写真を撮るのがその場での役割だ。わたしは写真を通して仕事をし、自分を表現する。わたしは写真を通して生きている。
Ibid., p. 129
わたしたちはみなこの消費社会にかかわっているが、消費社会が地球の住民たちをものすごい規模で搾取して、貧困に追いやっているということはわたしたちみんなが認めなくてはいけない。南北の格差は悲劇を引き起こしていて、ここから次から次にいろんな惨事が出てくるが、ラジオやテレビのおかげで、新聞雑誌を読んで、写真を見て、みんながそのことを知っていなくてはいけない。これがわたしたちの世界なので、わたしたちはそれを引き受けなくてはいけない。壊滅的状況を作り出すのは写真家じゃない。それはわたしたちみんながかかわっているこの世界が病んでいて、機能不全に陥っていることを示す徴候なんだ。そこで写真家の役割というのは鏡になることだ。……
Ibid., p. 130
わたしはいつでも、人々が威厳を保っているようすを見せようとしてきた。これはたいていの場合、残酷な仕打ちやいろいろな出来事の犠牲になった人たちだ。……圧倒的多数は何の罪もない人たちで、そういった不幸な目にあわなければいけないようなことなんかしていない。わたしが写真を撮ったのは、みんなが知っているべきだと思ったからだ。……わたしが目指しているのは、教訓をたれたり、うさんくさい同情をさそって良心をすっきりさせたりすることじゃない。こういうイメージをつくったのは、わたしの道徳上の義務があったから、それをするのは倫理にかなっていたからだ。こういうふうに人がまさに苦しんでいるときに、道徳って、倫理って、何なんでしょう? そう聞かれる。いまにも息絶えようとしている人に直面したとき、カメラのシャッターを切るか切らないかを決める、それが道徳だ。
Ibid., pp. 131-132
これは、1944年にブラジルの内陸部に生まれ、69年にフランスに脱出してから写真を始め、「人間」を、つまり「ヒューマニティ humanity」のひだの奥を見つめ、ことばに依存することなく、「グレイの階調を紙に焼き付けて描く光の絵画」の形で伝えてきた、セバスチャン・サルガドというひとりの人間の内面を照らす光だ。
サルガドは写真家なので、この本では当然、写真についても多く語られている。といっても、写真以外の話をしている部分のほうが多いので、「写真家の本なのだから……」と思う人もいるかもしれない。しかし、報道写真家の岡村昭彦の写真展でのギャラリー・トークで、写真家の中川道夫さんがおっしゃっていたことだが、「写真家はカメラを持ってファインダーを覗き込んでいる時間より、調べもののために本を読んだりノートを取ったりしている時間のほうが長い」(文言はうろ覚えだが、岡村が残した膨大なノートについて)。
白黒というメディアについて、フィルムからデジタルへの切り替えについてなど、多くの興味深い話が語られて(書かれて)いるが、特にぐっときたのは、写真を撮影するということの「身体性」を語った部分である。
自分のまわりのものと完全に一体化する、そういう状況に自分を置くとき写真家は、予想もしてなかったような何かに立ち会うことになるだろうとわかっている。風景、状況に溶け込むところまでいけば、最後にはイメージの組み立てが目の前に浮かび上がってくる。ただしこれを目にするには、起こっている出来事の一部になっていなければいけない。すると出来事の要素ぜんぶがうまくかみ合って、最高の写真が撮れる。その瞬間といったらまるで奇蹟だ!……写真というのはそれなんだ。ふとした拍子に、要素がすべて結びついている。人、風、木、背景、光。
シャッターを切るとき、わたしは自分の動作に全身入り込んでいる。……
Ibid., pp. 69-70
ヴィム・ヴェンダースとジュリアーノ・リベイロ・サルガド(セバスチャンとレリア夫妻の一番上の息子)が共同監督をつとめたセバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画がある。邦題は甘ったるいが、原題(英語)は「地の塩 The Salt of the Earth」だ。東京でもまだ映画館でかかってて、DVD/BDはもう少し先だ。
http://salgado-movie.com/
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映画についてはまた機会があれば改めて。
※本エントリでは、引用文中、縦書き用の漢数字を、横書きで読みやすいアラビア数字に置き換えた箇所がある。
![]() | わたしの土地から大地へ Isabelle Francq 河出書房新社 2015-07-14 by G-Tools |
See also:
わたしの土地から大地へ [著]セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク
[評者]大竹昭子(作家) [掲載]2015年09月13日
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015091300005.html
わたしの土地から大地へ - 松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1594.html
ところでこの本は、記述の厳密性は甘い。例えば上に引用した断片のひとつは、「レバノンのパレスチナ人」が「もとのところに戻らず」にいる、というふうに読めるが、「レバノンのパレスチナ人」を含む「パレスチナ難民」は、「戻らず」にいるのではなく「戻れず」にいる。だから「戻らず」にいるというのは別の「移民たち」のことだろう。こういうところを厳密にしようとしたら、がっちがちに脚注をつけねばならないだろう。だが、人の口から語られることというのは多くはこういうふうで、その手触りを残したままの本だ。
※この記事は
2016年01月14日
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1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。
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