「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年01月09日

これでも人は言う、「さすがテロリストだな、子供をダシに苦境をでっち上げている」と――戦争の兵器としての飢餓 (1) #SaveMadaya

追記: 本稿についてのご発言は歓迎しますが、中身を読んでからにしてください。英語の部分も、飛ばさずに読んでください。読めますよね?



以下、アップロード時のまま。


「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)が乗り込んでいって、勝手に首都にしてしまっているシリアの都市、ラッカ。1月8日(金)も、英語圏メディアで大きな扱いのニュースがあった。ラッカ市民の20歳そこそこのイスイス団戦闘員が、自分の母親を「処刑」したという。それも、イスイス団がラッカの人々に告げたところでは、宗教的な理由でだ(「背教」だという)。すさまじい腐れカルトである。

さて、そのラッカで、シリアの「内戦」がまだ「革命」だったころに反アサド政権の活動をしていた人たちが、2014年1月(もう2年になろうとしている)のISISによるラッカ制圧後に、ISISによる人権侵害などを記録し、ラッカの外への情報の流れを作るために組織したのが、「ラッカは静かに殺されつつある Raqqa Is Being Slaughtered Silently (RBSS)」という活動家集団である。サイトはアラビア語と英語の2言語で運営され、英語版は http://www.raqqa-sl.com/en/ である。ほか、FBやTwitterでも情報発信を行なっている。

彼らは2015年、CPJの「インターナショナル・プレス・フリーダム・アウォード(国際報道の自由賞)」を受賞した。ラッカに関する英語圏の報道の情報源として報道記事でもよく名前を見るようになってきたが、元々「反アサド政権」の民主化要求運動の活動をしていた彼らが、「反アサド政権」よりも「反ISIS」を優先せざるを得なくなってきていること自体が、「シリア内戦」の残酷な現実を示している。2015年10月末には、国境のトルコ側のウルファ(ISISのテリトリー外)でメンバー1人とその友人を殺された(斬首、刺殺)ほか、12月半ばにはイドリブでまた1人殺され、12月末にはトルコのGaziantepでRBSSの映像を手がけていたNaji Jerfさんが撃ち殺された




当ブログでは、以前も彼らのツイートをまとめて(「短くまとめて」ではなく「1ヶ所にまとめて」)紹介している。2015年11月のパリ同時多発テロのあとにフランスが開始したラッカ空爆の実況、爆弾を落とされる側からの「空爆なう」の報告である。
http://nofrills.seesaa.net/article/429914312.html
http://nofrills.seesaa.net/article/430022716.html

その彼らのTwitterアカウントは、2016年になって、ラッカの外のこともよくRTなどで伝えるようになっている。






この戯画の発信地のカフランベル(Kafranbel)はKafr Nablなどとも綴るが、シリア北西部のイドリブ県にある。カフランベルは、2011年にシリアの「革命」が始まったころからずっと、毎日、英語でメッセージを書いたバナーやプラカードを街路で掲げる人々の写真・映像をSNSに流すという形で、「世界」に向けて訴え続けている(当ブログの上部に表示させている「寄付先一覧」の横の写真も彼らのものだ)。彼ら自身のウェブサイトは「乗っ取られている可能性がある」と表示されているので踏みに行かないほうがいいかもしれないが、Twitterは https://twitter.com/kafrev である。





RBSSにせよカフランベルにせよ、2016年最初のツイートはこのような「年賀」らしい画像で、あの途方もない暴力にさらされていてもこういう画像を使うということは、人間にとって必要な「日常性」を手放さないという意思表示でもあると思う(「日常性」が確認できるということは、人間の基本的な「尊厳」の問題でもある)。

カフランベルからのメッセージ:








12月下旬に殺されたRBSSのNaji Jerfさんについて、カフランベルのアカウントから:




さて、そんな彼らが1月になってすぐに「世界」に伝えだしたのが、マダヤ (Madaya) という町の飢餓のことだ。






マダヤはレバノン国境のすぐそばの、元々は人口9000人規模の町である(内戦になってからは避難民の流入があるので人口は何倍にもなっているはずだ)。標高1,400メートル。首都ダマスカスからは北西に40キロと、車で1時間もかからない。山岳リゾートとして有名なところだったそうだ(と、過去形で書かざるをえないが)。リゾート地はレバノン国境の町には多いのだが、マダヤは湖畔の町で、新鮮な湧き水で知られ、夏は乾燥していて涼しいために避暑地として多くの人を集めていた。

そんな町が、アサド政権側の包囲を受けている。包囲されているので、食料が街に入らない。兵糧攻めだ。







この町の包囲は、彼ら活動家(それも「西洋」の賞を受賞するなどして存在感を高めている人々)が伝えたことによるのだと思うが、英語圏の大手メディアでも大きく取り上げることになった。





※カフランベルのアカウントがツイートしているのは、英Timesの記事。





この町の包囲がいつから行なわれているのか、恥ずかしながら、私は知らなかった(あとから記事で見たが、2015年7月からずっと、ヒズボラによって包囲されているそうだ)。ただ、RBSSのアカウントでこの写真を見て、ショックと悔しさでしばらくぼうっとなってしまった。記録はしておかねばと思った。しかし、どうしたらいいかわからなくなった。

※以下、2つ置いて、非常に厳しい写真があります。第二次世界大戦時のアウシュヴィッツ収容所の悲惨な写真よりも厳しいと思います(カラーだし、あれらの写真とは画質が違うので)。



Raed Bourhan氏のツイートは、「世界で最も物価の高いショッピング・センター。わずかしかないこれらのものが1,300ドルだ。ここはザバダニのマダヤ。シリアは飢えている」。写真の左上のはビニール包装されたパン(シリアのパンはこのような平べったいもの)。液体のボトルは食用油(ひまわり油か)。あとはテーブルの上には100円ライターやお菓子か何かが並んでいる。










※2件目、3件目は写真が上の1件と同じなので画像非表示。










アンディ・カーヴィンのReported.lyがこの件で連投している。








※包囲されたマダヤの町の人は、「昨日は植木鉢に植えた草花の葉っぱを食べただけ」という状態。これ、2014年のヤルムーク難民キャンプの包囲のときも報告されてましたね。包囲が解かれて国連が入ったあと、BBCかCh4のインタビューで、やせこけた初老のご夫婦がそれを語っていた。






この報告に対して、こういうリプライがついている。誰がこのようなことを言えるのだろうとアカウント名をクリックすると、ロシア語が表示される。




47番氏:







きつくなってきた。記録しておきたいものはまだまだあるのに。

続きは改めて別のページに。

最近、はてブでアニメか何かが好きな人(「何か」というのは、私ほんとにわからないので……「かんこれ」「がるぱん」ってアニメ? 個人の趣味の問題として、私には生理的に耐えられないシロモノなので、教えてくれなくていいです)がよく使ってる表現で「地獄だ」ってのがあるんです。言葉の使い方を見ててなんとなく、これは「名せりふ」「決めの言葉」みたいなものなんだろうなと思ってるんですが、全然違うかもしれない……そんなことはどうでもいいんです。

その言葉を、自分でも自分の言葉として使います。

地獄だ。



















「『戦争広告代理店』も知らないのかー」っつって怒鳴り込んでくるバカの一つ覚えの反西洋主義者除けのお札。

4062750961ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)
高木 徹
講談社 2005-06-15

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4794221061文庫 戦争プロパガンダ10の法則 (草思社文庫)
アンヌ モレリ Anne Morelli
草思社 2015-02-03

by G-Tools















※この記事は

2016年01月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:30 | TrackBack(1) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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支援物資は途中で政権によって奪われ、同じことは何度も繰り返されている――戦争の兵器としての飢餓 (2) #SaveMadaya
Excerpt: 1つ前のエントリの続き。シリアで、ヒズボラによって包囲され、何ヶ月も食料が入っていないレバノン国境の町、マダヤ (Madaya)。 1つ前のエントリを見てください、とリンクしておいたって誰もクリック..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2016-01-09 11:01

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼