「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年01月07日

#Twitter10k Twitter投稿可能文字数の引き上げ(本質的には「140字超えても、削らなくてOK」という話)

Twitterは以前から、「ユーザーがこんな使い方をしているので、それを簡単にする機能を実装しよう」ということをしてきた。

例えば、今では当たり前になっている「RT (retweet; リツイート)」は、2009年夏のイランの動乱のときは、まだなかった(ハッシュタグはもうあった)。この動乱のときの「現地からのツイート」や「Twitter上での全世界的な連帯・精神的支援の広がり」によって、Twitterは「IT系」、「ギーク」や「アーリー・アダプター」、「ネットのへヴィユーザー」を超え、「特にIT系に詳しいわけでもないジャーナリスト」のような人たちにも認知されていったのだが、あの動乱のときに「情報の流れを止めない」ために行なわれた「RTキャンペーン」(#PlzRT というハッシュタグのついた本文を手動でコピペし、冒頭に RT @username: の形で元の発言者名を書き加えてツイートする、という形で行なわれた)や、外部サイト(Twitpic.com, ImageShackなど)に写真をアップしてURLを貼るというユーザーの自主的な使い方は、Twitterの機能を大きく変化させた。
From September through October 2010, the company began rolling out "New Twitter", an entirely revamped edition of twitter.com. Changes included the ability to see pictures and videos without leaving Twitter itself by clicking on individual tweets which contain links to images and clips from a variety of supported websites including YouTube and Flickr, and a complete overhaul of the interface...

https://en.wikipedia.org/wiki/Twitter


ツイート内にURLを貼るとやたらと文字数が食われてしまうので、ユーザーの多くは外部の短縮URL(bit.ly. is.gd, tinyurlなど)を利用していたのだが(2011年の「アラブの春」のときもそうだった)、Twitterはそれも自分たちのデフォルトの機能として組み込むようになった。
Since June 2011, Twitter has used its own t.co domain for automatic shortening of all URLs posted on its website, making other link shorteners superfluous for staying within the 140 character limit.

https://en.wikipedia.org/wiki/Twitter


そんなふうに、今私たちが普通に使っている機能の多くが、Twitterが始まってからユーザーを増やし、広く使われるようになった過程で、ユーザーがどのように使っているかということに基づいて実装されてきたものだ。

今回の「上限を140字から、10,000字に引き上げ」というのも、それと同じことだ。

Twitter, 「投稿文字数の上限140字」やめるってよ #Twitter10k
http://matome.naver.jp/odai/2145208581742082101


この方針が最初に公にされたのは、日本時間で6日午前1時ごろにフィードされたRe/Codeというオンライン媒体の(やけにとっちらかっていて読みづらい)記事(つまり「急いで出した記事」と思われるもの)のようだが、その記事が出て「うわさ」が広まったころに@Jack (Twitter CEO) が、長文のテキストの画像を使い、「140字上限の撤廃」の意義をアピールしつつ、趣旨を説明するツイートを投稿した。

@Jackのその投稿の文面は、上記ページで文字(テキスト)起こしし、対訳をつける形式で日本語化したので、上記ページでごらんいただきたい……と、リンクしたところでほとんど誰もリンク先に飛んで記事を読んだりしないという、完全に社会に普及したあとのインターネットの特性が、スマフォの時代になってますます苛烈化し、そういう環境でのネットユーザーの行動パターンの変化が、今回のTwitterの方針転換を促したのだが(「ふつう、リンクなんかクリックしないっしょ」というのが《常識》の人々を、Twitterは取り込まねばならない。純粋に、ビジネス上の必要から)。

ジャックの書いてることを読む限り、今回のことは「上限の引き上げ」というより、「上限の(限りなく『撤廃』に近い)緩和」の意図での方針の転換だ。

しかし、人々の間での話題としては、「上限の緩和」という受け取られ方はせず、「上限の引き上げ」としてぐるぐる回っている。それも「極端すぎる引き上げ」として。

「10,000字」なんて普通に書ける分量ではないのだから、「非現実的」な数値、つまり「理論上」の数値で、「事実上無制限」の意味だとわかりそうなものだという想定が「ギーク」や「理系」の人たちにはあるかもしれないが、そういう想定は必ずしも通じない。書いてあることが具体的でわかりやすい限りは、それをわざわざ「解釈」しようとはしない。「上限10,000字」と言われれば「めっちゃ長い文章!」ということは誰にでもわかる。そして、「そんな長い文章がだらだらと流れてくるようなTwitterになるのはいやだ!」という反応が出る。

メディアは、人々はそういう反応を示すものだということを知っているから、そういう反応をする人々の関心を引くために、「上限10,000字でめっちゃ長い文章の投稿が可能に!」といった方向付けをして情報を拡散する。そして人々の間には「140字のはずが、10,000字かよ!」という極端な印象論だけがふわふわと浮遊する。

こういうところ、Twitterは本当に下手だと思う。

「140字制限を撤廃」ではなく、「10,000字に拡大」という表現を、Twitterの外の人たち(メディアの記者など)がするがままにしている。

自分たちでがっつりしたプレスリリースを出し、記者にブリーフィングを行なって、「例えば、ようやくまとめた文が141字だった……というときにも、そのまま投稿できます」などという方向付けをすればいいのに、そうせずに、理論上の上限値が拡散するままにしてしまう。

実際、「10,000字」というのはインパクト強すぎて、「それではまるで電話帳だ」とか「ちょっとした小説だ」とかいう話になってしまう。「Twitterをやってると、誰か知らない人のそんな超大作を読まされるのか」と思わせてしまえば、ユーザーを遠ざけることになる。




で、今回そのような「投稿文字数上限の、事実上の撤廃」をしたTwitterだが、数年前に、当時Twitterのサード・パーティのクライアント(アプリ)のトップだったTweetdeckを買収したときに、Twitterが一番最初にやったことといえば、「140字を超えた投稿でもツイートできる」機能の廃止だった。






このdeck.lyという短縮URLが廃止されて、当時(「アラブの春」の時期であるが)のdeck.lyを使ったツイートが完全には読めなくなってしまったのだが、いまさら、deck.ly のようなものを導入するのなら、なぜあのとき、deck.ly をkillしてしまったのかと思う。

そういう試行錯誤も含めて、Twitterなんだろう。

TwitterはFBとは違い、アメリカの「自由」をガチで信奉し、守ろうという姿勢がはっきりしている。ウィキリークスのジュリアン・アサンジ周辺がわやくちゃになっていたころ、ウィキリークスの関係者のソーシャル・メディアの詳細を渡せと、いくつかのSNSサービスが米当局に要請されたとき、Twitterは本気でがんばって、抵抗していた(FBはホイホイと渡していたし、Googleも踏ん張りきっていなかったはずだ)。

FBのページのレイアウトのごちゃごちゃ感・てんこもり感(楽天市場の各ショップに通じるものがある)は、Twitterのミニマリズムとは対極的だし、プライバシー・ポリシーやデフォルトの設定の頻繁でひそやかな変更など、運営の姿勢も、FBはTwitterとは全然違う。一人のネットユーザーとしては、どこにどういうふうにどんな情報が流されるかわかったもんじゃないFBは、かなり警戒感を抱かせるものだと思う。

しかし、(投資家向けの広報の役割も果たしてくれる)メディアは、最近は、FBのやることなら何でもヨイショし、FBについてはやたらと景気のよい見出しで記事をたっぷり出してくれるが、Twitterについては「塩対応」としか言いようのない態度を示すようになってきている。






2009年、イランの動乱のころに「米国務省のキモ入り」の扱いだったTwitterだが(当時のNewsweekなどを見てみるといいと思う)、今はもう、全然違う。

そういう中での「140字制限の撤廃/1万字投稿可能」だ。

※この記事は

2016年01月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 11:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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