「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年11月25日

ジョン・ヒュームの体調のことが、ご家族の口から語られた。

北アイルランド紛争は、2度にわたってノーベル平和賞受賞者を出した。1度目は1970年代の平和(暴力停止)を求める運動、「ピース・ピープル」を始めた市民2人。2度目が1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意)を実現させた政治家2人。どちらも、北アイルランドの2つのコミュニティ(「プロテスタント」と「カトリック」、「オレンジ」と「緑」)から1人ずつだ。

その「北アイルランドの4人のノーベル平和賞受賞者」の1人が、ジョン・ヒュームである。
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hume

http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/northern-ireland/portraits-of-literary-greats-seamus-heaney-and-cs-lewis-unveiled-at-stormont-34230429.html1937年1月、デリーに生まれたヒュームは、1960年代の「公民権運動」の中心的な活動家で、1971年に当時の北アイルランド自治政府がナショナリストの若者を主な対象とした「インターンメント」(無期限勾留、強制収容)を開始すると、それに抗議するハンガーストライキに加わった。現在も「資料写真」としてよくメディアに登場する当時の写真で、デリーの公民権運動のデモで放水車の水を浴びて兵士に連行されるヒュームの姿を記録したものがある(キャプチャ via kwout)。

1972年1月30日の、のちに「血の日曜日(ブラディ・サンデー)」事件と呼ばれるようになった英軍による非武装のデモ隊への発砲事件が起きた公民権運動のデモには、ヒューム自身は参加を見合わせていたが、2002年1月、事件の真相究明を行なうインクワイアリで当時のことを証言し、事件の1週間前に英軍が非常に暴力的な態度でデモ隊に対峙していたと語っている。1979年以降、英国政府の対決的な姿勢とシン・フェ……IRAのますます過激化する手法で北アイルランド紛争が「解決し得ない」と言われていた時代を、ジョン・ヒュームは当時のナショナリスト最大政党、SDLPの党首として体験した。

非常に暴力的な状況の真っ只中に身を置きながら、IRAのわかりやすい「フィジカル・フォース(物理的な力、武力)至上主義」とはまるで逆の「非暴力主義」を貫いたヒュームは(それは簡単なことではなかったし、きれいごとでもなかっただろう)、1990年代、the Hume-Adams process と呼ばれる「シン・フェイン(IRA)との対話のプロセス」を、多くの反対の声にも関わらず推進した。これは最終的に、1994年のIRAの停戦という大きな成果に結実する。Sunday Bloody Sundayで "But I won't heed the battle call" と歌ったU2のボノは、1998年5月、グッドフライデー合意についてのレファレンダムを前に「合意賛成」を訴えるベルファストでのAshとの合同コンサートで、SDLP党首として和平への道のりを先導したヒュームと、和平に賛成するという大きな決断をしたユニオニスト政党UUPのデイヴィッド・トリンブル党首をステージに上げて称賛した

以後、「和平プロセス」においてシン・フェインのあんな人やこんな人が「和平/平和の人 man of peace」と持ち上げられるようになるのだが、真の意味での「man of peace」はジョン・ヒュームである。彼はその功績で、2010年に「最も偉大なアイルランド人」に選ばれている

ヒュームは2004年に政治から引退してからは公の場に現れることも減っている。2013年にデリーがCity of Cultureとして大掛かりなイベントを連続して行なったときも、客席に姿を見せたことはあっても、スピーチなどはしていなかったと思う。2014年8月に、ともに「和平」への困難な道を切り開いたアイルランド共和国のアルバート・レノルズ元首相の国葬に参列したときも、ほかの参列者(マーティン・マクギネス、ジョン・メイジャーなど)と言葉を交わすなどしている場面は、ネット中継されていた映像では見ることができなかった。というか、ずいぶん体調が悪そうに見えた。より正確に言うなら、「かつての彼の影」に見えた。

誰が見ても、それは明らかだっただろう。

この11月22日、下記のような記事がBBCに出ている。

John Hume: Former SDLP leader has 'severe difficulties' in dementia struggle, wife says
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-politics-34894724


元はRTEでのインタビューだ。






























パット・ヒュームさんのRTEでのインタビューは、新たに出たジョン・ヒュームの本に関するものだ。




1846825865John Hume: Irish Peacemaker
Sean Farren
Four Courts Pr Ltd 2015-11-12

by G-Tools


In the wide-ranging interview with Miriam O’Callaghan, Mrs Hume spoke about her 55-year marriage which she has written about in a new book Irish Peacemaker, published by Four Courts Press.

She said her 78-year-old husband “is having severe memory difficulties at the moment”.

“He has a form of dementia... It hasn’t actually taken away all his quality of life in that Derry is a very dementia-friendly city,” she said.

“People love John. He can go out for a walk. Every taxi in the place will stop for him... I can go for a walk myself. He can do his crosswords. He can enjoy the paper. So it could be worse.”

Mrs Hume added that her husband struggles to remember day-to-day occurrences.

http://www.derryjournal.com/news/john-hume-s-wife-pat-speaks-publicly-of-his-struggle-with-dementia-1-7079391


ジョン・ヒュームについてのBBC Northern Irelandのドキュメンタリー。



We shall overcome.

※この記事は

2015年11月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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