「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年11月14日

今朝、東京で起きだした私は、ネットにつないでいきなり、いやなニュースを見ることになった。パリ、同時多発テロ

さっきからうなっているのだが、どうしても「ブログの本文」に相当するものが書けない。

書けないのでリンクだけ……というのもバカみたいなので言い訳みたいなことだけ書いておこう。「Twitterを使うのをやめる」と言ったばかりなのだが、自分の見るTwitterの画面は、「Twitterだけで完結する作業」(RTとか引用RTとかFave...いや、Likeとか)のスピードに最適化された情報量が流れてくるので、いちいちブログの画面を開くとか、はてブを使うとかいったページ遷移をしているだけで、もう話が追えなくなる。なので、こういう特大の緊急ニュースのときは、Twitterで作業せざるを得ない。その方法しか、今の私には取れない。決して「Twitterを使い続けていく」ことにしたわけではないということはご理解いただきたい(正直、かなりうんざりしている。それでも、知らない人とまともなやり取りができて嬉しいという経験も今日もあったのだが)。

つい先日、フランスのジャーナリスト、アンナ・エレルの本(下記)を読んで、これはとびきりやばいんじゃないかと改めて思った点がある。特にどのページのどの記述というのではなく、全体的に、「女ごときが、男をコケにしている」ことだ。

4822250911ジハーディストのベールをかぶった私
アンナ・エレル 本田 沙世
日経BP社 2015-05-20

by G-Tools


西洋の男女平等が前提の現代社会で生まれ、なおかつ/または育ってきて、ある程度の年齢になってから「女は外に出るものではない」とか「夫の言うことにはすべて従え」とか「ブルカの下はセクシーなランジェリーを着るんだ」などといった価値観を自分のものとしている人物が、そのことをすべてあのように全部暴露されたときに抱く歪んだ復讐心はいかほどのものか。そしてさらに、連中はそれを、めちゃくちゃにはぎ合わせたような「信仰」で正当化しているし、彼らの世界の中ではそれが「正しいこと」(神の意思にかなうこと)だ。

そういった「西洋社会に対する復讐心」が、「同志」たちの間で増幅され、武器・弾薬・爆発物を含む「周到な準備」というみっちみちに軍事的・技術的なものと重なり合って現実のかたちを与えられたときに、どのようなことになるか。

それを見せられたのだと思う。

パリ同時多発テロ(2015年11月13日夜)、初報から1時間の英語圏報道の記録
http://matome.naver.jp/odai/2144746429043746601







『ジハーディストのベールをかぶった私』には、著者のアンナ・エレル(30歳のジャーナリスト)が「メロディ」という人格(20歳目前の改宗者女子)で、シリアのジハディストと接触を重ねるうちに、内面が侵食されていくような感覚を抱く、ということについての描写がある。そして接触してきた相手を、アンナは気味悪がっていたにもかかわらず、その「死」が報じられたときには(誤報だったのだが)感情的に動揺している。

深淵を覗き込む者は……という例のあれである。

そういった「体験記」を読むだけの私にも、それは伝染してくる。

それを拭い去りたいが、拭い去ることはできないだろう。それが「宗教」の力だ。「定量化」なんかできないけど。








「お見舞い申し上げます」的な言葉も出てこない。パリにはさほど思いいれは抱いていないかもしれないが、それでも私にとって一種「特別」な都市のひとつだ。

10年前、2005年7月7日に、ロンドンで公共交通機関が標的にされたときに、初期の大混乱の状況で、まだネットも今ほど情報が早くなくて、日本のテレビのニュースでは「10箇所で爆発」のようなことを速報していたあの状況、あのときの自分の心理を思い出した。

2005年7月7日のときは、テレビのニュースを見ながら、2001年9月11日のことを思い返していたのだ。

自分の中に「知識」として蓄積された「誰か知らない人の内面にある憎悪」。それはこの1年半くらいの間で、それまでの10年分をゆうにしのぐくらいの量になっている。

ただの「知識」だ。だが、それは瓶に入れてしっかり栓をして保管しないとならない激薬物のようなものだ。最新のニュースや被害者の声をガーディアンのLive blogなどで追いながら、そう感じている。




※本稿、書くのに5時間ほどかかった。

※この記事は

2015年11月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:40 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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