「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年11月08日

Twitterを使うことを基本的に停止します。RTやブログからのフィードは続けます。

いろいろありつつこれまで続けてきたのは、口幅ったい言い方になるが、「黙りはしない」という《抵抗》でもあったし、「記録を残す」という《最低限できること》でもあった。が、もう限界である。もうほんと、すべてがどうでもよくなった。Who cares? の心境だ。このまま続けることもできなくはないが、そうすると、他方では何を見ても「言葉」にならないという非常に深刻な症状が出るほどの無感動・無感覚を抱え込むことになる。そして、これは、そこまでする価値のあるものではない。

本稿も、どうせ読まれることなく、どっかの誰かが「nofrillsは左翼に迷惑をかけられてTwitterをやめた」とか事実無根のことを言い出すんじゃないかと心配でならない。

子供の頃に(限らずとも)、コップに水をなみなみと注いで、硬貨を1枚1枚投入し、あるいは一滴ずつスポイトで水をたらして、コップの上面に盛り上がってくる水がどこまでこぼれずに耐えられるかという遊びをしたことがある人は多いだろう。あの水の状態を比喩的にいう英語の表現が "the last drop makes the cup run over" で、17世紀に書かれた教会の歴史の本に最初の用例があるそうだ。

同じようなことを意味するのが、 "The LAST straw breaks the camel"s back" という成句である。荷物を積んでいるラクダの背に、ひとつ、またひとつと荷物を追加していってもしばらくは大丈夫だ。しかしついには、わら1本と追加しただけでラクダがつぶれてしまう。つまり、「最後にほんの小さな何かが加わるだけでも、破局が訪れる」、「破局が訪れる前に起きたことは、ほんの小さなことかもしれない」という意味のことわざだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Straw_that_broke_the_camel%27s_back
The idiom the straw that broke the camel's back, alluding to the proverb "it is the last straw that breaks the camel's back", describes the seemingly minor or routine action which causes an unpredictably large and sudden reaction, because of the cumulative effect of small actions.


日本語にも同じような意味のことわざはいくつかあるが、私はこの「ラクダと1本のわら」のたとえに強い印象を抱いている。

0198734905The Oxford Dictionary of Proverbs (Oxford Paperback Reference)
Jennifer Speake
Oxford Univ Pr (Txt) 2015-11-24

by G-Tools


さて、9月下旬にTwitterで、私にとって「1本のわら」が到来したことは既に書いた。そのときから1ヶ月強、Twitter.comのホームの画面は3度か4度しか見ていないし、Tweetdeckでも自分のHomeのタイムラインは画面の一番右(枠の外)に追いやっていたので1ヶ月間で10回くらいしか見ていない(さらにその後、カラムを非表示にした)。自分へのリプライもほとんど見ずに過ごし、フォローしている他の人のTLもほとんど見ず(不義理しててすみません)、リストとハッシュタグ程度しか見ていないのだが、それでずいぶん軽くなってはきたような気がした。しかし、それは「気がした」だけで、実はもう私は完全にうんざりしきっていたということに気づいた。気づいたら最後だ。「最後の1本のわら」が何だったのかは、自分でもわからない。

Twitterを使うことを、原則、やめることにする。リストからRTはするし、ブログのフィードはするが、それだけにする。少なくとも当面は。

また気が向いたら、以前のように使い出すかもしれない。でも、今はいいや。

NIやシリア、パレスチナなどのリストに入っていない方のツイートもほとんど見ません。不義理しますがご寛恕ください。私はほんとに限界です。「やめるやめる」詐欺ではなくほんとにうんざり。画像のアップロード先としてはTwitterは気軽に使えて便利だったのだけど、代替はあるので、Twitterを使わないようにしても本格的に困りはしない。











































当方はTwitterの「プロフィール (bio)」のところに一貫して、「これはメモである」ということを明記してきた。今はこうなっている。

“どこの誰とも知らない「あなた」に何かを伝えるためではなく、私の「意見」を主張するためでもなく、流れてくるニュースのメモのためのTwitter利用。関心領域は北アイルランドと英国で他は専門外。”

このように書いてあっても、結局、読まない奴は読まない。この記述自体、これまで何度もTwitterで嫌な思いをさせられてきた中でがんばってがんばってがんばってがんばってがんばって、考え抜いた記述なのだが、読む奴はほとんどいない。ばかばかしい。

そんな場で「まともな言論」など成り立つはずがない。つか、そもそもこっちは「メモ用紙」として使っていることを明記してるわけだが。











聞かれたら答えなきゃいけないしね。そのためには調べないといけないしね。どんなに関心なくっても。
















ゲテモノは「魅力的」なんですよ。スーザン・ソンタグが書いてた通り。

あと、ほんと、日本の左翼がどうとかいうの、私、全然、まったく、心底、血反吐を吐くほど、どうでもいいんで、宜しくお願いします。本当に鼻くそほどの関心もありません。だから今のデモの団体とかもまったく関心ないです(新聞やテレビがある環境じゃないし、そもそも話聞かない。私の環境では日本のシールズとかいう団体についてより、北アイルランドのUVFについての情報の方が多いんです)。浅間山荘とか、一応「用語集」的な知識はありますが、話題になった映画も見る気にならずにいるくらい関心ありません。私がちょっとでも影響をこうむったことがあるのはカルトや宗教右派で、左翼じゃないです。カルトの勧誘や宗教右派の動員とかはめっちゃ身近な話ですが(なのでイスラム過激派の手口は超リアル)、左翼組織なんてまともな接点すらあったことがない。「政治運動」の用語とかも知りません。私をリアルで知ってる人は知ってることですが、10年ほど前に「ネット右翼」が流行りだしたころ、「民度」とかいう言葉をネットでよく見るようになったけど、私はそれまでそんな単語を見たことがなかったから意味がわからなくて、英語で説明することもできなかった(政治運動に詳しい人に解説してもらう必要があった)。そのくらい、政治運動だのなんだのにはまったく関心ないんです。

そうそう、さっきLADFLEGのところですばらしい一言を見たので貼っとく。




マギー・スミス(写真)の映画での台詞かな……Pinterestなどで流行ってるみたい。



ほんとはこんなどうでもいい、誰の役にも立たないようなことにかかずらっているでのはなく、アノニマスのOpKKKでの非常にまっとうな文章を日本語にするなど、有益な活動をしているほうが自分の満足度も高いのだけど、「やめるっつったらやめる」ってのを明確にしておくべきだとも思うので。

Twitterなんか、真剣にとりすぎてそれに支配されちゃわないほうがいいですよ。離れられないほどになってたらそれは「依存」ですし。

Twitterにはたくさんのものを与えてもらったし、いろんな人と話ができたし(ガザの人とも、アイルランドの敬愛する写真家とも、モロッコの人ともシリアの人とも、アフガニスタンのジャーナリストとも……etc, etc)深く感謝してる。でも、あそこの日本語圏に渦巻く「念」みたいなのはほんとかんべん……

ウェブリング程度の「ゆるい」つながりは、同じTwitterでも英語圏では濃厚に感じられるんだけど(上で引用したLADFLEGとかも含めて。このアカウントはかなり先鋭的だけど)、日本語圏ではそれがないというか、なぜこうなる、というくらい過剰になる。「140字」ではなく「140バイト」(=日本語では「70字」)だったら、ここまで過剰にはなってなかったのではないかと思う。
タグ:twitter

※この記事は

2015年11月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 11:53 | TrackBack(1) | 事務的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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Twitterでニュースの更新をチェックできるようなリストを作っています。
Excerpt: Twitter.comの画面を見るのをやめたので、そもそも私がTwitterを使い始めた動機の主要なものである「ニュースのチェックのため(RSSリーダーの代替)」の機能を担うものとして、新たにnews..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2015-11-09 21:43

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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