「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2015年10月20日

野宿生活の人たちを「あの連中」扱いして対立の構図にすることをMUFCのスーパースターが拒否するとき、AFCサポまでが感激する。

たまには心あたたまるお話を。

どのくらい心あたたまるかというと、マンチェスター・ユナイテッド (MUFC) の話なのに、ガナサポを含め、ほかのチームのサポーターが感動するレベルだ。

90年代から00年代にかけてのMUFCのスター・プレイヤー2人が、現役引退後、プロ生活をずっと過ごしたマンチェスターの町にホテルなどを作って、街のために投資している(ロンドンにも物件持ってるけど)。それだけでも地域(のサポーターの間)ではレスペクトされ尽くしているだろうが、さらに、これから寒くなる季節に屋根のない環境で暮らさざるを得ないホームレスの人たちに、数ヶ月間の居場所を提供するという。

ガリー・ネヴィルとライアン・ギグズが、20世紀初頭、大英帝国の最盛期に建設された旧マンチェスター証取の建物(グレード2指定)を買い取り、ブティック・ホテルとして改装しているのだが、別の居場所を追い出されて駆け込んできたホームレスの人々と支援活動家に対し、改装の作業が終わるまで、建物・部屋を使ってもらってかまわないと告げた。ネヴィルと直接電話で話をした支援活動家は感涙。

当該の物件にホームレスの人たちが転がり込んだことを、マンチェスター警察が「困ったもんですなあ、ネヴィルさん」というようにツイートしたのだが、ネヴィルはこれに対して「バカ言ってんじゃないよ」的に返しもしている(警察は当該のツイートを削除している)。

これにはTwitter上で称賛の言葉が続々。「こんなことをされると嫌いになれなくなる」「もう悪口が言えなくなる」など、MUFC以外のサポの人たちには悩ましいことになっている。

壮麗な建物の内部の写真もなるべく入れるようにして「まとめ」てあるので、ご一読いただきたいと思う。

所有する物件にホームレスが転がり込んできた……これに対するG・ネヴィルとギグズの方針が、オトコマエ
http://matome.naver.jp/odai/2144525222577342801


下記はBBCのニュース映像。「入居者」の何人かのコメント(みんなとても嬉しそう)に続き、ネヴィルと話をした活動家のホールさんに記者がインタビューしている。「冬の間じゅう、あっちの建物、こっちの建物と、追い出されたら転々としていくつもりだったんですが、思いがけず、ずっと使ってくれていいよと言われてとても嬉しいです」というようなことを語っている。




この件での称賛の言葉をかなりたくさん見たが、最も「これだよねー」と思ったのは、下記の言葉だ。ネヴィルにしてみれば「人として当たり前のことでしょ」というようなことだろうが、その行動は、ホームレスの人々を「私たちとは違う連中」と扱い、対立の構図にするのを拒否するものだ。「分断への抵抗」というのは、こういうことなんだと思う。




言葉というものは人間にしかないという意味でヒューマニティ (humanity) そのものといわれるが、基本的にその「言葉」だけで構成されているTwitterという場で、最近「人間性」に失望することが非常に多くなっている。そういう中で、常套句だけど「人間性への信頼を取り戻す」ことができるニュース。改めて、ヒューマニティって何だろうね、と考える。

※この記事は

2015年10月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:30 | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼