「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2015年10月15日

「記憶遺産」について何かを発言するなら、それがどういうものかくらいググってからにすればいいのに。

ほれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E8%A8%98%E6%86%B6%E9%81%BA%E7%94%A3
ユネスコ記憶遺産(ユネスコきおくいさん、英: Memory of the World: MOW)、直訳すれば世界の記憶(せかいのきおく)は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業の一つ。危機に瀕した古文書や書物やなどの歴史的記録物(可動文化財)を最新のデジタル技術を駆使して保全し、研究者や一般人に広く公開することを目的とした事業である。俗に世界記憶遺産(せかいきおくいさん)とも呼ばれる。


こんなの、ググれば誰にだってわかることなんですよ。特別な環境は必要ない。それが、90年代以降、インターネットが実現してきた知をめぐる環境のはずなんです。

しかし現実にはこういう光景がはてブには展開されている。むろんこんなコメントばかりではないけれど(それどころか「思わず膝ポン」のコメントもあるが)、これよりかは、「ググレカス」文化があった2ちゃんのほうがましというレベルに見えるだろうという……。

kks.png


これらの「適当な発言」というのは、きっと、「それがあとに残る」ことを想定していないのではないかと思うけど、同時に、「記憶遺産」が「後世に残す」ことを意図したものであることを思うと皮肉。









このパレスチナ・ポスター・プロジェクトにアーカイヴされているポスターには、19世紀以降のシオニズム、反シオニズムのものが広範に含まれているため、上記のような判断になったとの由(ユダヤ人やイスラエルにしてみれば、19世紀から20世紀の反ユダヤ主義のプロパガンダは、「保存すべき記録」といえるかどうか、という問題)。



以上、最近流行っている「何かというと《英国の暴虐》を持ち出して、日本のやったことを相対化してみせるだけのライフハック」がエスカレートしていて気になるので書いておいた。

ちなみに、私は「《英国の暴虐》について語らせたら話が長い」タイプ。いくらでもマンスプレインするよ。

ただし、それを「日本による民族解放」という虚構を語るためのダシにするような破廉恥なことは自分ではしないし、そういう語りに寄与するとわかっていて何かをするということもしない。

と、ささくれだった心に、北アイルランドからシェイマス・ヒーニーがRTされてきたりするのさ。






re:





















※この記事は

2015年10月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:46 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。