「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年10月09日

「例のあの誹謗中傷マンガ」がBBC Newsのサイトで、ブログ記事になっている。

さて。

「あれ」に関するBBC記事について書こうと思ったのだが、一向に、書く気にならない。

「あれ」のことは、話題になった当日は知らなかった。基本的に、Twitterで日本語圏を見ないことにしているからだ。知った、というか現物を見たのは、話題になった翌日か翌々日、はてブ経由で見たTogetterの記事でのことだ。(現物を見る前から、何人かの言葉によって、だいたいどういうものかは察しがついていたが。)

一度見たら、私自身がそのトピックについて直接やり取りをしてきた人々が、なぜ「あれ」について立腹し、憤慨し、嫌悪感を覚えているのかは即座にわかったし、その感情は私のものでもある。が、遅れて知った(見た)自分が立腹し、憤慨し、嫌悪感を表明しても「周回遅れ」になるだけだし、何よりまったく生産的ではない。それに、上述のTogetter記事が指摘していることが当たっているのなら(Togetterで述べられていることから、外れている可能性はほとんどないと思うが)、「あれ」について外部の者が注目してやんややんや言うこと自体が「宣伝」となる可能性がある(イスイス団のグロテスクでサディスティックなプロパガンダ・ビデオと同じく)。

なので、「あれ」について1行書くとしたら、「あれ」のカウンターになるようなことを2行書くことにしようと自分の中で決めたのだ。それゆえにその方向のことをTwitterに書いたり、過去に作成したページを改めてフィードするようbotを設定したりしているのだ。

だが、それから6日ほど経過して、いつものようにBBCで記事を読んでいるときに、「あれ」が突然視界に入ってきた。BBCが記事にしているのだ。

Is this manga cartoon of a six-year-old Syrian girl racist?
http://www.bbc.com/news/blogs-trending-34460325


記事は、10月8日の昼ごろの時点で、BBC Newsのトップページにある(&午後10時台にも確認したが同じ)。


※この画像をクリックで、ページ全体の原寸大のキャプチャを見られるようにしています(2015年10月8日 07:45:43 UTCのスクリーンショットもあるけど、画像がキャプチャされていない)。
※10月9日午前、アップデート: 当該のマンガ絵の作者が盗用した写真の著作権者であるSave the Childrenから、「当該イラストの転載・流用はお控えくださるようお願いいたします」という声明が出たので、上記画像のうち当該イラスト掲載部分にぼかしを入れた。ただし記録の保持という観点から、クリックして表示させるようにしている原寸大のキャプチャのほうは元のままにしてある。

正直、「レイシストか」というBBC記事の見出しはピンとこない。「〜はレイシストか?」は、ほとんど紋切り型と化しているということもあるのだが、それより、「あれ」が行なっているのは「差別、偏見」ではなく、「非人間化」だからだ。あるいは「あれ」の作者本人にはそんな意図はないのかもしれないが、自身の中に自覚されぬまま存在している「差別や偏見」に、あのように形を与えることは、第一に、描く対象のことを何も知ろうとしていないという時点で、相手を人間扱いしていない。(なお、「差別」や「偏見」をそのまま表現することは「差別の垂れ流し」であり「風刺」ではないということは、シャルリー・エブド事件のときに「連帯ごっこ」にえんがちょしながら "Je ne suis pas Charlie" と叫び、「過剰反応」だとか、場合によっては「テロ組織のアポロジスト」と白眼視されつつ、書いたとおり。あのとき "Je suis" に感動してたみなさん、今、例えばイエメン見て、どう思います? いわれのない暴力にさらされている人々に、一方的に自己同一化することで「連帯」できると思います?)

バレンボイムなどが明確に述べているのだが、およそ「アート arts」と呼ばれるものは人の手でなされるものである。それは常に「人間」を相手にしている。(音楽の打ち込みビートとか、コンピューター・プログラムで再現される「巨匠の筆遣い」のようなものだって、機械がやるようになる前に長い時間をかけて人間たちの社会に蓄積されてきたものがあってのことだ。)そのことを忘れた「芸術表現」は成立しないと思う。

そういう点での違和感などもありつつ、そのBBC記事に「何が書かれているのか」くらいはブログで書こうとしたのだが、上に述べたような理由で、まったくやる気にならない。こんなものについて書いているヒマに、人命救助に当たっている人々のことを書くべきではないのか? あるいは、書きかけのまま下書きにしてある北アイルランドについてのエントリをアップすべきではないのか?

……などと思いつつ、である。

以下、「あれ」について。およびそれを扱ったBBC記事について。ただしBBC記事の内容のことはここには書かない。

BBCの前に、日本語の媒体で、毎日新聞:






BBC:















いや、「人種差別かどうか」はBBCが与えた紋切り型の言葉でしょう。




※この記事は

2015年10月09日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼















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