「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年10月03日

過去に作ったシリア関連の「まとめ」から今読んでも有益そうなものを選んでbotで流すようにした。

シリアについての情報で日本語圏がひどいというのは、もうとっくの昔に「無感覚」になるほど当たり前なので、それ自体には衝撃は受けない。しかし、こちらで検証されている「他人の金で生きていきたいから、難民になっているのだ」という思想的過激派のデマ(元々の定義通りの「デマ」。辞書の定義の1番)は、たぶんその思想的過激派の外部の人はほとんど誰も真に受けはしないだろうが(あれは検証されている通りの事情であれば、「内部の引き締め、思想の統一」が第一義的な目的だろうと思う)、無視しておけばいいようなデマとも思えない。逆に、無視していることは、それを「そういうのもあり」として認めていることになるのではないかと思ってきた。

twtbtfdsy.pngあとでもう少し詳しく書くけれど、とりあえず、「できること」ということで、過去に作ったシリア関係のページを、Twittbotを利用して、ランダムにフィードするように設定した。

うっとうしい方はフォローを外すか、、"【#シリア: 過去の「まとめ」】" と "【#シリア: 過去の「まとめ」から】" を表示させないようにクライアント(Tweetdeckなど)で設定するなどしていただければと思う。フィードの頻度などが調整できれば調整するようにしたいと思っているが、その前に、元のリストに入っていないページを入れ込むところから始めなければならないので時間はかかる。

→更新: フィードの頻度の調整をする場所(下図)をやっと見つけたので、頻度減ります(3時間ごとで設定した)。

twtbtfdsy2.png


「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)については、日本でも直接的な影響が出たので、けっこう手厚く報道されてきたと思うが、それがこうなった状況を生じせしめたシリア内戦については、到底「手厚い」といえるような情報の伝えられ方はしていない。日本のデフォである「ゼノフォビア」、「外人お断り」のムードの上にそれが重なって、あのゲスい絵のようなデマがネットに横行することを、黙ってみているわけにはいかないと思う。



























現実的には(というか、「軍事的には」というべきか)ぶっちゃけ手詰まりです。以前から主張されていたようなNFZという方針は、もう取れなくなりました。

それでも。






アップデート:




※この記事は

2015年10月03日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:51 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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