「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2015年10月02日

ソマリア情勢を見ておいたほうがいいかもしれない。

つい数日前に、「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)のリクルーターだかプロパガンディストだかの英語を使う女性たちが、「シリアにはもう入りづらくなっているので、これからはリビアに集合」という呼びかけを行なっているということが報じられたばかりだが、表題の通り、ソマリアにも動きが見られる。

以下、ほとんど、ツイートの貼り付けのみ。

ソマリアのジハディ武装勢力といえばアッシャバブである。ISISの台頭の前、いやそれどころか「アラブの春」(2011年)の前から、北米や英国からの参加者をひきつけてきた武装勢力だ。2005年7月7日にロンドンの公共交通機関で自爆した4人のうちの1人の妻で、当時は「知らないうちに夫が過激化し、勝手に自爆してしまった悲劇の女性」と思われていたサマンサ・ルースウェイト(「白い未亡人」)が関わっているのがこの集団である。

アッシャバブは最近勢力圏が縮小しているといわれているが(その文脈では、例えば9月21日付けでアルジャジーラ・イングリッシュのプントランドからの報告がある)、ざっくり言うとこの組織はアルカイダなので、ISISとは対立している。9月末(現地)に、支配域でISIS支持のレクチャーなどを禁止する命令を出したばかりだ。




ISISに加わろうとしている組織内の外国人戦闘員を攻撃した、という報告もある。(アッシャバブの内部対立での暴力は、以前もあったことではあるが。)




そこに出てきたのがこの話。






これ↓がそうですよね。







「アッシャバブの戦闘員はISISに加われ」と呼びかけているのはエジプトのISIS(シナイ半島の集団)からのメッセージ・ビデオだとか、そういうビデオは3本あるとかいう話がTwitterの英語圏に出てきている。








(あ、1件は英語ではなく、フランス語だった)

ああ、4本目も出てるって。




「ISISはシリアだ」とだけ思っていると、いろいろと見逃してしまうかもしれない。

こんなことになるなんてね。

そして日本はこの勢力(アブ・ムサブ・アル=ザルカウィの作った組織)に、すでに3人、殺されている(香田さん、湯川さん、後藤さん)。

アメリカがジョージ・ブッシュ大統領だったころに「テロとの戦い war on terror」と呼ばれていたものは、今は「自衛(のための武力行使)」と呼ばれている。

Right of self-defence central to legal debate over Syria drone strike
Monday 7 September 2015 20.35 BST
http://www.theguardian.com/uk-news/2015/sep/07/right-of-self-defence-legal-debate-syria-drone-strike

「政治亡命者・庇護申請者・難民」と「出稼ぎ労働者」の区別もつかない、その区別の必要性にも気づかないほど内向きでお花畑でおめでたい、「国際感覚」が完全に欠如した人物が政治トップであり、《言語》面の主導権を握っているのが、得体の知れない概念に「積極的平和主義」などという紛らわしい言葉を与えて平気の平左でいられる官僚であるときに、リアルに情勢がこう変化してきたことは、大変に恐ろしい。

もうすでに、「歯止め」はなくなっている。








これ↓が、outrageを引き起こしていた時代があったのですよ。たかが10年ほど前のこと。(「戦略的必要性」云々を強弁した人たちも大勢いたけど。)



※この記事は

2015年10月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 07:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼