「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年07月08日

#StayHuman 「何度か深呼吸して、わたしの身体は赤ちゃんに、大丈夫だからねと告げる」…ガザ、爆撃下で妊婦であることについて

1年前の今頃の私のツイート。




あれから1年である。





少し書こうと思った。だが書けない。

東京はあまりに蒸し暑く(気温は高くないが、1週間雨が続いている上に、今日は台風の空気が入ってきている)、呼吸ができない気分だ。

Untitled

Naked in the rain
*Pictures: Flowers and rain in Tokyo, 08 July 2015 (by me on flickr)

私がTwitterでずっと前からフォローしてるガザの英語話者の人たちのひとりが @WhateverInGaza ことNajlaさんだ。何度もRTしたり翻訳RTしたりしているので、私のアカウントをフォローしてくださっている方には何となくでもわかるのではないかと思う。




過去のRTや翻訳RTの例:




去年の今日も、RTしている。



Najlaさんには、この1年の間に、大きな変化があった。お子さんが生まれたのだ。昨年夏のガザ攻撃のとき、彼女は妊娠7ヶ月だったそうだ。

あの爆撃、あの砲撃の下には、サッカーをしている子供たちもいたし、ねこもいたし、おなかに赤ちゃんのいる女性もいた。

民間人の住宅が軍事攻撃の対象となっているだけでもとんでもないことなのに、イスラエル軍の(写真ではなく)イラストを根拠に「ハマスが使っているのは事実」などと主張し、病院や救急車、報道機関の車両まで当たり前のことであるかのように攻撃されていても「ハマスがー」と繰り返しさえすればOKであるかのようにふるまい(そのわりに、西岸地区とガザ地区の区別も怪しかったりする)、「一家全員が爆撃で死亡」というニュースにも、無表情のまま反応しないような外部の人間たちは、そのときそこにNajlaさんのような人間がいたことを、意識していただろうか(「知らなかった」はずはあるまい。普通に脳みそが入った頭ならば)。

あの非情で非道な包囲攻撃を受けながら、パレスチナ人たちが「ワルシャワ・ゲットー」を引き合いに出したら、まるで70年以上前に殺された人々のほうが、今これから殺されるかもしれない人々(つまり、今ならまだ救える人々)より優先されるべきであるかのように反応してみせた人間たちは、F-16が飛び交う空の下に、生まれたばかりの命や、これから生まれようとしている命がたくさん存在していることを、想像していただろうか。

2014年夏の攻撃開始から1年を迎えるにあたり「個人が語ること」についての活動をしているWomen, War and What they fed the childrenのサイトに、Najlaさんの文章が掲載されている。翻訳許可を得て、以下に全文を日本語化したものを掲載する(翻訳の不備があった場合は私の責任である)。

あの攻撃の下、Najlaさんのような人たちは何人もいた。「奇跡の赤ちゃん」と呼ばれたシャイマちゃん(生後数日で死亡)のお母さんもそのひとりだった。誰が生き、誰が死ぬのか、そこには確たる理由などない。彼女たちは、そういう事実とも向かい合っていくことを余儀なくされている。○○町で女性と子供を含む○人が死んだ、△△町では一家全滅だった、□□町では……というように、理不尽な死が日常化させられている環境の中で、「なぜ自分は生きているのか」という問いは、始終自分の中で頭をもたげる。その問いが暗黒をもたらす前に、深呼吸をし、自分の内面と向かい合わねばならない。そして、おなかの中の赤ちゃんに常に血流を送り、栄養を与えなければならない。

傷ついた海岸線を、波が洗う
Waves Wash the Wounded Shore
July 5, 2015
http://www.womenwarandwhat.org/?p=4983

15階のバルコニーから、傷ついた海岸線に地中海が波を広げるさまを眺めていた。近くの高層建築の窓々から、微笑が投げかけられてくる。ようやく家から脱出できた子供たちが、お隣の人がまだ生きているかどうか確認して……うれしくてきゃあきゃあと騒いでいる。鳩の群れが空を横切って飛び、煙をふき払い、砲撃があったときの凄まじい音を掻き消していく。停戦が宣言された。

ほとんど夜通しまんじりともせずに過ごした。爆撃の音があまりにやかましかったし、ベッドが揺れているときに眠ることなど無理だ。というわけで、翌日は睡眠不足を補うようにゆっくりしていた。爆撃の間、わたしといえば、本当にしょうもない状態だった。何もできることはなかった。でも内面では、力があるのだという感覚はあった。わたしたちはここにいるということ、そしてここに居続けるということを、関心を持ってくれてる人たちに伝えたかった。もし途上で怪我をしたり、落命したり、家を失ったりしても、それは旅程の一部だと理解される。そういうのが、わたしたちの旅だ。ここで断念する必要はない。なぜなら、そんなことをしても誰の助けにもなりゃしないのだから。

わたしは大丈夫、できると感じていたが、外から見れば、あんまり何もやっていなかっただろう。わたしは内面に向かっていた。私の体の中に、小さな赤ちゃんが育ちつつあった。胎内で7ヶ月を迎えた娘。わたしが面倒を見ている赤ん坊。爆撃があるたびに、わたしは大きくなったおなかを両腕で抱え、娘を抱きしめていた。近くに空爆があるたびに、娘にはわたしの体全体が、つまり彼女を運んでいる身体が、しばしの間、ショックを受けて固まるのを感じているだろうから。目を閉じて深呼吸をしたとき、娘が動くのが感じられた。そうするとわたしは娘に偉いね、がんばってよく耐えたね、と語りかけるのだ。何度か息を吸って、吐いてすることで、わたしの身体は娘に、もう大丈夫だよと伝えていた。

爆撃下にあるということは――物理的に自分自身が爆撃・砲撃の対象にはまだなっていなくても、すぐそばで起きていて、それも継続的な場合には――、それまでとは違う精神状態に置かれるということだ。つまり、わたしは爆撃が命中したときに震えないくらいに勇敢だろうかと思ったり、急に泣いたりせず、恐怖心を隠しておけるくらいしっかりしているだろうかと考えたり、生と死こそがわたしたちの存在なのだと思考できるほど賢明だろうかと頭をめぐらしたりする。

わたしは、人間、生か死かのいずれかだ、と達観できるだろうか。人は生きているか、死んでいるかだ。そういうものなのだ。相互に異なる2つの状態のいずれかを知るというのは、そういうふうにしてだ。となれば、とても実際的な疑問が出てくるのだが、どのようにすれば自分は落ち着いていられるだろうか、身体的なストレスを最小限におさえておけるだろうかと思い始める。わたしは妊娠している。それも、ずっと望んできた赤ちゃんだ。この子を失いたくない。どのようにすれば、わたしは眠ることができるだろうか。身体を落ち着かせておけるだろうか。恐ろしいことが起これば目が覚めてしまうとわかりきっているときに。次に備えることが、どうやったらできるだろう。わたしの心臓は、通常運転で鼓動を続けなければならないということを、しっかりと認識してくれるだろうか。

それから最も重要なことだが、何が起きているかをより大きなコンテクストでとらえ続けておけているだろうか。つまり。紛争状態に置かれているのはわたしたちだけではない、ということ。苦難を味わってきた人、今このときにも苦しんでいる人々が、何百万人といるのだということ。いったい、これにはそれほどの意義があるのだろうか。自分の命をかけるほど意義のあることは何かであるかを誰が決定するのだろう。最も毅然として、戦うことが自分を解放することだと信念をゆるがせにしていないときにあってさえ、人間は、本当に苦痛の中に叩き込まれたら、待てよと立ち止まり、すべてを問い直す。生命は、ひとつ残らず、大切なものだ。そしてすべての生は、ぎりぎり生き残る状態で送られるのではなく、まともな状態で送られなければならない。脅威が近づいてくれば、この疑問はますますハードなものになる。昨年の夏、わたしたちはそれを、それまでにないほど感じた。

殺されたり怪我をさせられたりした人々がいる。家を失った人々がいる。それをわたしたちは知っていた。ほんとうに大勢が家を失った。突然退避させられたり、直接攻撃されたりする脅威などなく、家にいられるということは、とても貴重なことだ。家はわたしたちの安定であり、わたしたちのベースである。自分の感情のままいられる場所、感情を表に出しても怖くない場所である。

ある日、この建物が破壊されるという噂を聞き、わたしたちは退避しなければならなくなった。緊急持ち出しバッグの準備にかっきり1時間かかったが、思い出の詰まった大切な物を集めるのにはもっと時間がかかった。どれを置いていき、どれを持っていくか。空爆の警報で逃げるときよりも長くかかった。

幸いなことに、わたしたちは避難民の数をそれまで以上に増加させることにはならなかった。ガザ地区とその外を隔てる境界線は閉じられており、避難民化はこの370平方キロメートル――ワシントンDCの2倍の面積だが、人口はその3倍――の内部に限られている。わたしたちはレジリエンス(苦境にあっても跳ね返す力があること)があると感心されたが、それは外に安全な場所を求めて脱出することがかなわないからだ。

わたしたちは何とか生き延びて、正気を失わずにいることができた。そのコツを書いておこう。いかにしてまともな精神状態を保つか。

1. 信じること。自分が属しているのはここなのだと信じること。たとえ(そこが父祖伝来の土地ではなく)何年か前に、あるいは何十年か前に親族によってそこに連れられてきたのだとしても。これは、自分はそこにいるべきしているのだと認識するうえで、たいへんな助けとなる。今日はここにいて明日は別の場所にいることになったとしても、ここも、別の場所も、何の謂れもないわけではない。今、自分の居場所になっているのは、ここなのだ。

2. つながりを絶たないこと。ありのままの自分であり続けること。他の誰かの物語を生きようなどとしないこと。自分の物語で十分によいのだから。テレビで見たスーパーヒーローや、自分の子供が殺されていくのを見たあとでただ静かに立っている勇気ある女性のような行動をとる必要はない。

3. 静寂の中でしばらく過ごすこと。戦争の中にあっては、これはやたらとはできないことだが。静寂に耳を傾けるのは、たまにはやってみるといいことだ。音のない中に没入していき、自分の精神と身体を静寂で満たすことで、平常心を取り戻し、騒音をやり過ごすのが楽になるかもしれない。

4. 深い呼吸をし、身体をストレッチするヨガはよい。けれど、やりすぎは禁物だ。戦争という環境では、いつものヨガとは違うヨガがよくなる。完全脱力のポーズをすると、ただ泣くばかりか、眠りに落ちるかするしかなくなったことがあった。これはよい。自分の身体の中の恐怖と緊張の量に向かい合い、それに耐えることができなくなっていた。ヨガ・マットの上で、痛みをすべて集め、恐怖や不安に駆られている身体の部位すべてをチェックし、自分が自分自身であり続けていることを認識して評価すると、よいエネルギーのポジティヴな力が感じられる。マットの片側で開始されたものが、この疲れきった身体の物語を語り続ける。

わたしはヨガを始めて4年になる。幸いにもわたしの先生は、カラフルで夢のような、健康的で清潔なヨガ雑誌のヨガと、戦争地帯でのヨガとは異なるということを知っている人だった。この先生のクラスでは、前夜の爆撃の記憶か、今度は自分の番かという気持ちを出し、みんなでそれを経験した。F-16が低空を飛行しており、ここで、あるいはあそこで空爆が行なわれている。日常生活の中でわたしたちはすっかりこれに慣れてしまっているが、集中し、内部のつながりを確認するときに改めてこの影響がわかる。自分の身体の反応を観察することで、どんなにみっともなくて対処困難なときでも、そういう反応が出ても無理に押さえつけようとせずにいられるようになる。

5. お茶やコーヒーを淹れてバックギャモンをする。今はちょっとやめたほうがいいんじゃないのかなという状況でもあえてバルコニーでくつろぐ。予想外の行動から喜びが生じることがある。子供のころにやった遊びがそうだったはず。

6. 前向きで楽観的なパートナーがいるので、わたしは無理に勇敢なふるまいをするのではなく、恐怖を受け入れ、それと共存することができた。

7. ソーシャル・メディアは役立った。自分に使える限りは使った。けれども、ネットがつながらない日もあった。ネットと電気があるときにはいつでも、わたしはソーシャル・メディアでコミュニケーションをとった。わたしたちの状況を気にかけてくれている人たちと新たにつながったり、FacebookやTwitterで毎日メッセージを待ってくれている友人たちに、わたしたちはまだ大丈夫ですよと伝えることをした。わたしたちの日々の話を人々にすることは、相互にとって有益なことだった。

8. 前向きな気持ちを常に持っていることで、わたしは救われた。激しいネガティヴな感情は伝播しやすい。人から人へ伝わり、膨らんで拡張する。特に恐怖・不安はそうだ。不安が制御不能になると、他の人にも影響するようになるだろう。大丈夫という保証と「安全」の感覚――たとえ想像上の「安全」であっても――があれば、ネガティヴな感情は消えていくか、あるいは少なくともずっとそこに残ったりはしない。ネガティヴな感情は常態的なものではない。

どこにも行くところなどなく、状況を変えるためにできることも何もない、というときのことだ。恐怖を客観的にとらえておくということに、わたしたちは習熟しようとした。自分の内面で何が起きているのかを把握しておくこと。無理をしないということが、最善の、そして唯一の、自分にできることだったかもしれない。そのままで。ただ、そのままで。

そして、何度か息を深く吸って、深く吐いて、わたしの身体は赤ちゃんに、大丈夫だからね、と告げるのだ。

(ナジュラ・シャワさんはガザ地区に生まれ育った人道支援ワーカー。2年近く米国に滞在し、米ジョージ・メイソン大学の公共政策の学位取得、パレスチナのビールゼイト大学で社会学分野で学士号を取得。現在は夫と生後9ヶ月の娘とともに、ガザ市西部に在住)


2014年9月終わりのNajlaさんのツイート:



彼女のパートナーは、昨年私にガザの果物を教えてくれたJasonさんである。










お父さんと娘。




2014年8月24日の美しい夕日。




同26日。




#ICC4Israel




2014年夏の攻撃が終わったあと、ガザの空をカメラを搭載したドローンが飛んだ。同じところを、1年後にも撮影し、2つの映像を並べた英チャンネル4のフィルム。なぜ、ここが今もこのような状態なのか、(勝手に考えるのではなく)思考のベースとなるまともな情報をインプットしてから考えてみていただきたい。ここが貧しいことが原因で、誰かがカネさえ出せば解決するようなことなのかどうか、など。







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今日のNajlaさんのツイートより:



※この記事は

2015年07月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:18 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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