「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年06月05日

北アイルランド紛争の《言葉》と《シンボル》と《意味》が満載されたさわやかなコメディ映画『ピース・ピープル (An Everlasting Piece)』

連休中にGoogle Playのキャンペーンで無料で1本見られるというので予約しておいた映画を、5月の月末になって、ようやく見ることができた(→Google Playのページ)。

既に書いた通り、「タダなら見てみてもいいかな」程度だったのだが、いい映画だった。むしろ、これまで見てなかったのが残念だ。タダなんてそんなすいません、また代金払って見ます、と思っている。DVDも中古ならある。

B0035QHWJIピースピープル [DVD]
ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 2010-03-18

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本にせよ音楽にせよ映画にせよ、流通の際に「記録媒体」(結局「物流」が必要となる「モノ」)を伴わず「データ」だけで届けられるようになったら、「埋もれていた作品」や、「自分好みの、世間的には "マイナーな" 作品」が見たい人のところに届きやすくなるだろうと言われていたが、実際に自分でそれを体験できることは、私の場合はこれまであまりなかった。今回のこの映画を知ったのは、(友人・知人・よく読んでいる新聞やブログが言及していたからではなく)Google playというオンライン映像配信の場で「北アイルランド」を単に検索したことがきっかけだが、検索結果のヒット件数が多くなく、全部を検討する余裕があったからだ(そして、検索結果に出てきた映画はほとんど全部見たことがあった、ということも)。それでも、何より決め手になったのが「タダなら失敗してもいいかな」ということで、正直、紹介文などを見ても全然ピンと来ていなかった。

映画紹介文(見終わったあとも、この紹介文で、たとえ300円でもお金を出して見る気になっていたかどうかは疑問。実際にはこの映画は、この「!」の連続から想像されるような、「飛び跳ねて叫んで逃げ回ってのドタバタ」ではない):
北アイルランド。院内理容師のコルムとジョージは、退屈な毎日を送っていた。そんな時、カツラ販売人の男と出会い、手ほどきを受ける。二人は販売独占権の獲得を目指して"ピース・ピープル社"を設立。早速、自慢のカツラを引っさげて営業を開始する。しかし、世の中そんなに甘くない。行く先々でトラブル続き。ライバル会社は現れるし、警察やIRAの面々まで巻き込んで大騒動に!はたして彼らはカツラを売りさばいて一儲けできるのか!?


以下、この魅力的な映画について、まともな解説のようなものが日本語で見つからないので、少し書いておきたい。これをインターネットに流すことで、また誰かが「検索して出会った」ということになればよいと思う。

An Everlasting Piece (邦題は『ピース・ピープル』)、2000年のアメリカ映画:
https://play.google.com/store/movies/details/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9_%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB_%E5%AD%97%E5%B9%95%E7%89%88?id=SpJNny5JuPY
※尺は103分だが、エンドロールを除けば100分弱。

IMDB:
http://akas.imdb.com/title/tt0218182/

Wikipedia:
http://en.wikipedia.org/wiki/An_Everlasting_Piece

物語の舞台は「1980年代のいつか」の北アイルランド。英軍があちこちに展開しているベルファストのカトリック地区、ピース・ウォールを背にしょった場所のボロ家。若い理髪師コルム・オニールはここに母親とおば(たぶん)と弟と一緒に暮らす。父親の影はない。

[コルムの家。両隣が破壊されたテラスト・ハウスだろう]


ここに出てくるPeace wallについては既に何度か書いているので、ここでは繰り返さない。この映画は、この「壁」の向こうとこちらをつなぐ等身大の物語だ。
http://nofrills.seesaa.net/article/212037394.html
http://nofrills.seesaa.net/article/247865080.html

ストーリーは、コルムがガールフレンドのブローナの紹介で職を得るところから始まる。

「カトリックはあなたを入れて5人。スタッフはね。でも患者の大半はカトリック」とブローナに説明されたその職場は、入院設備のある大きな精神病院だ。ブローナは看護師(当時の言葉では「看護婦」)として働いている。

"Ah, the new Catholic!" とコルムを迎えた上役に、コルムは "The new barber" とおどおどした調子で応じる。上役が次々と紹介するスタッフはみな「ビリー」という名前だ。中には「ビリー・ウィリアム」という人もいて、どんだけビリーなんだよとにやにやさせられる。そしてコルムを案内している上役の名前が【ネタバレ回避】。ははは。(なお、1人目が、字幕では「ビリー・ジョエル」となっているが、「ビリー・ジョー Billy Joe」である。「ビリー・ジョー・ロビンソン」とかいう名前で、同じ職場に「ビリー」はいわずもがな、「ビリー・ロビンソン」が複数いたりするのかもしれない。)

「みんなビリー」は北アイルランドもののお約束で、マイク・リーが80年代に撮った映画でも「1つの部屋の中にいる『プロテスタント』が全員ビリーという名前」という設定があった。なぜ「ビリー」(ウィリアム)なのかは、もちろん言うまでもないあの話にちなんだことで、それはこの映画の中で(上で【ネタバレ回避】した箇所を除いては)ほとんど語られてはいないけれど、視覚情報として何度か出てくる。北アイルランドの「シンボリズム」のひとつで、誰もがそこに《意味》を見出す。

職場となる理容室で、コルムは「プロテスタントの理容師」のジョージと対面する。上役のビリー・【ネタバレ回避】から既に「詩の話をするとめんどくさい奴だから」と言われていたが、ジョージがあまりに内向的でおどおどした感じで沈黙が気詰まりだったからか、「詩がお好きだそうですね」とコルムから会話を切り出す。ジョージの目がきらりと光って「あなたも?」。コルムは「祖母が書いてたんですよ」と世間話をするが、ここの「ジョージ」の演技が奥深すぎてもうね(笑)。映画の最後まではっきりとは示されないけれど、このシークエンスに出てくる「記号」が、【ネタバレ回避】。よくこんな奥深いお笑いをアメリカの大資本で作ったと感心してしまう。

でもコルムはその「記号」を読み解かないし、ジョージもその点は押さない。でも、「プロテスタント」のジョージが「カトリック」のコルムと組んでビジネスをはじめるということができたのは、元々「壁」が低い界隈になじんでいたからかもしれない。それは深読みのしすぎかもしれない。

日本でご隠居が「一句ひねる」ような調子で、ジョージが(へたくそな)詩を即興でひねり始めると、コルムも乗っかって、「押韻の応酬」になる。この場面が可笑しい。《意味》ではなくて《言葉》だけを介した人間と人間のやり取りだ。「うまいこと言うねぇ」がつながっていくだけだが。

[病院内の理容室](ちゃんと「色」が使われていて、この室内には、「赤・青・白」と「緑・白・オレンジ」が共存している)


そこに、係員に連れられて患者の一人が散髪にやってくる。コルムの初仕事だ。いつもの調子で世間話などしながら(「今年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストはどこで開催されるんですかね」)散髪の準備をするコルムは、いきなりここが「精神病院」であることを思い知らされる。(しかしこの建物の外に出ればこんな目にはあわない……わけではないよね。いきなり理不尽な暴力にさらされるという状況が普通だった。)

親しくなってみると、ジョージは表情豊かでおしゃべりな愉快な同僚だ。「シャンキル・ロードのいとこ」の話などをしながら2人は患者の髪を次々と整える。

[仕事中](※字幕はぼかし加工をしてある)


そんな病院に「スカルパー Scalper」と呼ばれる男が入院してくる。宗教熱心な男だ(しかし彼の「宗派」は言及されない)。その「スカルパー」が入院(措置入院)することになったのは、「かつらのセールスマン」の仕事中に「スカルパー」というあだ名を頂戴することになったようなことを引き起こしたからだが(シャンキル・ブッチャーズじみている)、その彼がやっていたかつら販売業が「北アイルランド全域でただひとつの会社(独占企業)」と病院職員に聞いたコルムとジョージは仕事を引き継ぎたくなり、「スカルパー」が聖書の中に持って歩いているという「顧客リスト」をもらおうと画策する。このくだり(サンプルとしてクリップあり)がしつこいのかなと思ったが、けっこうあっさりしていた。

こうして新事業を始めることにしたジョージは、カトリック地域のど真ん中のコルムの家を訪ねる。「見慣れない奴」に対する警戒の目にさらされながら。



オニール家の斜め前にあるこのミューラルが妙にリアルだ。「ゴミ捨て厳禁」と書かれた「ハウジング・アクション・グループ」名義のミューラル。「アクション・グループ」は活動家の組織としてよくあるものだが、この地域ではもちろん……である。



コルムの弟(スキンヘッド)を練習台に、「かつら(ヘア・ピース)」の技術をマニュアルを見て確認しながら、「ジョージはプロテスタント、おれはカトリックだから、『ピース・ピープル』という名前でやっていこう。P-i-e-c-e、ヘア・ピースのピースだ」とコルムは提案する。ブローナの発案だ。これが映画の邦題になっている。

売る商品(ヘア・ピース)の製造はロンドンのウィンブルドン社。ここで【ネタバレ回避】ということで「宗派の対立」がネタにされるが、ジョージは真顔になりながら、和気藹々としたムードでほほえましく「ピース・ピープル」は船出する。(このシークエンス、小ネタが何ともいえない。ストーリーとはまったく関係ないんだけど。)

[和気藹々]


そして最初の顧客のもとに向かうのだが……予測できる展開なんだけど、この絵面はすごいね。

[We are the pilgrims, Master; We shall always go a little further. ]


検索したらこの絵柄の色紙のようなものが見つかった。

We are the pilgrims, Master; We shall always go a little further

謂れはこう。SASだ。



この映画は、1998年の和平合意(ベルファスト合意)からさほど時間が経っていない時期にベルファストで撮影されていると思われる(データベースにはダブリンも撮影地としてクレジットされているが、町並みの多くはベルファストだ)。その時期のベルファストが、この映画にはたっぷり記録されている。

上述のミューラルはこれだろうか。
On Mersey Street in east Belfast, a UVF mural carries the legend: “We are Pilgrims, Master. We Shall Always Go a Little Further”. The message has a Biblical or Bunyanesque ring to it – but the actual source is James Elroy Flecker’s poem The Golden Journey to Samarkand. More direct as a likely source for the UVF’s painters, it is inscribed on the clocktower at the SAS’s headquarters in Hereford.
https://www.opendemocracy.net/globalization-protest/loyalism_2876.jsp


通りの名でアルスター大学の紛争データベースを検索すると、"No Longer exists" としてリストされている。ビル・ロルストン教授の撮影した写真と解説もある(が、この写真のは映画のとは少し違う。同じ理念・同じ発想だが)。1996年の7月に描かれたものだとロルストン教授は報告している。1994年の停戦が、1996年2月のロンドンのボム(ドックランズ)で破られてまた元の木阿弥になりそうになっていた時期だ。

そして同じ絵柄のミューラルが東ベルファストで新たに描かれたのは、2011年5月。前年、2010年の総選挙でピーター・ロビンソンが議席を失い、代わって議席を獲得したアライアンス党への逆恨みのようなものが噴出し、東ベルファストでものすごくやばい極右勢力(イングランドのBritain Firstのつながり)の活動が報告されるようになってきた時期だ。
http://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-13335641

……と、ミューラルについて見はじめるときりがないので先に行く。そのあたりのことは、日本語でも書籍が出ている。

4891768274北アイルランドとミューラル
佐藤 亨
水声社 2011-03

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4787233874紛争の記憶と生きる: 北アイルランドの壁画とコミュニティの変容
福井 令恵
青弓社 2015-04-25

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さて、上のようなミューラルを壁にくっつけた家に暮らすブラック氏が、「ピース・ピープル」の最初の顧客となる。ここで「これぞまともなコメディ」という展開がある。ぜひ映画を見ていただきたい。飛んだり跳ねたり叫んだりせず、普通の言葉と目つきと距離感だけで、非常に可笑しい。

彼が暮らすのは、典型的な "two-up, two-down" の家(ヴィクトリア時代の人口爆発で急増された安普請のテラストハウス。1階に居間と台所などの2間があり、2階に寝室が2つあって2世代から3世代の家族が暮らしていることが多い)で、その点、西ベルファストのブローナの家やコルムの家と変わらない。前庭や玄関前の階段もなく、玄関ドアを開けて足を下ろす場所がすぐに公道という「ゲットー」で、こういう住環境については故デイヴィッド・アーヴァインも語っていた。「住環境がひどかったのは何もカトリックだけではない」と。

0571251692Voices from the Grave: Two Men's War in Ireland
Ed Moloney
Faber & Faber Non-Fiction 2010-10-09

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[ブラック氏の家の前。「旗」が見えるだろうか]


最初にブラック氏を顧客としてピックアップしたのは、秘書役のブローナだ。戻る途中、ガソリンスタンド(映像が、すごいシンボリズム。色も統一されている)からブローナに電話をしたコラムは、ブラック氏が「北アイルランド紛争」で何をしたかでキレそうになる。コルムは、セクタリアン・ディヴァイドなどさほど気にかけていない様子の、調子がよく少々荒っぽい若者だが、やはりそういうことは看過できない。

[ガソリンスタンド。キング・ビリーもいるよ]


彼にとって一番大事なのはビジネス。それでも、そのまま流すわけにはいかないようなことがある、ということが映画の観客に示される。しかしこれがその後、「しこり」となってくるというような「シリアスなドラマ」ではない。けれどもそれは、「あらかじめそこにあるもの」、「当たり前のもの」だ。それを大げさなドラマにせずにただ描くということは、大資本の映画ではなかなか難しいだろうに(ましてや「アイルランド人の苦難」を大げさに描くことで観客が増えるアメリカでは)、この映画は淡々としている。

ある晩、コルムとブローナは街中の映画館に映画を見に行く。トーキング・ヘッズのコンサートを記録した『ストップ・メイキング・センス』だ。

B00V8Y7S1Gストップ・メイキング・センス [Blu-ray]
トーキング・ヘッズ
キングレコード 2015-06-17

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「意味を成すことなどやめてしまえ」(直訳)。宗派対立が前提となっている社会で、「意味を成すこと」とはどのようなことだったか。

(ところで、私もこのトーキング・ヘッズのこの映画は、80年代当時、東京で見ている。そのころ、「北アイルランド紛争」だの「IRA」だのは、ニュースに出てくるから知ってはいたが、個人的にはほとんど関心はなく、同じ映画をその北アイルランドで見てるカップルがいるということは想像の範囲にもなかった。コルムとブローナは、実在していたとして、ちょうどいとこのA子ねえちゃんたちと同じくらいの年齢だろう。)



映画のエンドロールが始まるやいなや、コラムとブローナは席を立つ。その理由が明らかにされるとき、あのときあの街で「意味を成すこと」とは例えばどのようなことだったのかが、An Everlasting Pieceというこの映画を見ている私たちに突きつけられる。

それは2015年の今も、「旗」として……ぶわはははは。笑っちゃいけないんだけど、笑うしかない。そのくらい、「意味」なんかないことが起き続けている。Stop Making Sense.

と、そんな一方で、映画の中では速いテンポで「ドタバタ」は起こり続ける。コルムとジョージの最初の顧客のブラック氏は代金を踏み倒そうとするし、広告を打った新聞を見てみれば、Tupee or Not Tupeeという洒落た(フザけた)名前の同業他社の広告が並んでいる。「北アイルランドで唯一」のかつら屋だったはずなのに! メーカーに電話で問い合わせると、「月曜日にそちらに行くので」と言われ、ジョージとコルムは打ち合わせに向かう……。

という場面。手前はINLAですかね。(これは元からあるものではなく、映画のために作ったのではないかというたたずまいだけれども)



しかしこの道中でとんでもないドタバタが発生。このときの出来事でコルムはジョージに腹を立てるのだが、最終的には、ジョージの言葉と表情を見て、コルムは彼を「赦す」ことにした。大げさにいえば、ジョージという人間をコルムが全面的に受け入れた瞬間だ。ここの描写が繊細で、いいシーンだと思った。

そして物語は元の、「新規事業はうまくいくのか」というお話に戻る。

メーカーが出した条件は、「ピース・ピープル」社と「トゥーペー」社のうち、クリスマスまでにより多く売った方と独占契約をするというものだった。「ピース・ピープル」の2人は車であちこちを回って営業活動に励む。顧客に応じて、「2人ともプロテスタントなんですよ、商品はすべてオランダ仕込みです」などという嘘(セールストークともいう)を並べ立てたりもする。「トゥーペー」も2人組で、ストーリーに絡んではこないが、「派手なスーツを着こなした口のうまいセールスマン」として存在感を放っている(2015年の今見ると、「こういうのがストーモントの自治議会にいるんだろうなあ」という気がしてならない)。

そんなふうに事業に励むある日、コルムとジョージは販売のため訪れた田舎で道に迷ってしまった。日が暮れた山道に停めた車中で地図を見ているところに、パトロール中の「バラクラバの男たち」が現れた。IRAである。



(何度も出てくるこの車、ミラーにぶら下がっているこのカーアクセサリーの色も、たぶん「シンボリズム」だと思う。「反対側」のシンボリズムを担ったカーアクセサリーがぶら下がっていたら、映画はここで終わっていただろう。)

こっから先は語りのテンポがとてもよいし、わかりやすい。キャラの濃い「ハゲのIRA」(情けないところもある一人の人間として描かれるが、名前は出てこない。それがまたリアルだ)、コメディのお約束ともいえる「小ざかしく立ち回ろうとするチビ」のキャラ、めっちゃキャラの濃い「ベルファストの刑事」もプロットに加わって、「紛争の中のヒューマン・コメディ」は加速する。(なお、字幕では「ハゲ」のような言葉は使われていないが、台本でははっきりとbaldと言っているので、ここでは直訳として「ハゲ」を用いることにした。)カメラも適度に引いていて、過剰さがない。

【ここから、ネタバレのため、文字色を背景と同じにしておきます】

田舎で道に迷ったときに無事脱出できたのは、車に積んでいたカツラのひとつを「ハゲのIRA」に売ったからだった。しかしその「ハゲのIRA」が爆弾を仕掛けた現場にカツラを落としてしまった。そのカツラを糸口にした捜査で、コルムとジョージが警察にしょっ引かれ、日本での物語なら詩吟でもうなっていそうなめっちゃキャラの濃い刑事の尋問を受ける。余談だが、この当時の警察ならこの役職の刑事はほぼ間違いなくプロテスタントだ。

警察から解放されたあと、ジョージはこれまでにない強い調子でコルムに挑む。「なぜIRAをかばうのか」と。

本人たちは「政治的なことはまっぴらごめんだ」と思っていても、いやおうなくあらかじめ巻き込まれている。そのことを描いたドラマはいくつもある。

「カトリック」のコルムにしてみれば、IRAを警察に渡さないことは言わずもがなの当たり前の行動パターンかもしれない。IRAを特に支持していなくても、IRAの誰かが有罪になるようなことは言わないのは当たり前のことにすぎないのかもしれない。

しかし「プロテスタント」のジョージにとっては、IRAは「テロリスト」だ。

ちょうど最初の顧客のブラック氏について、コルムが激しい拒否感を示したように(ブラック氏は、現在はH&Wのクレーンのある港湾で事務所づとめをしているが、カトリックを撃ち殺したことがあった。ブローナとコルムの電話での口論はそのことについてのものだ)、ジョージは顧客となった「ハゲのIRA」に激しい拒否感を示す。それは、2人の間の友情にヒビを入れてしまうくらいのものだった。

けれどもコルムは、最初の顧客のブラック氏だって、カトリックを撃ち殺していたじゃないか、といった反論を行なわない。たぶん、それは物語の伏線だ。「憎悪の連鎖」を断ち切ること。誰かの「憎悪」の感情に、自分の「憎悪」の感情で応じないこと。


【ここまで、ネタバレのため、文字色を背景と同じにしておきました】

警察は「ビリヤード場にいるハゲは全員逮捕」とかいうことをやっているが(どう見ても「ビリヤード場」ではないところでまで)、これは1970年代に実際に行なわれた「インターンメント」のパロディだろう。さすがにこれを「インターンメントのパロディだ」と思う私が黒すぎるような気もするが、そうとしか思えない。



そしてある晩、コルムが家の居間でみんなそろってテレビの刑事ドラマ(『スタスキー&ハッチ』か)を見ているところに、この地域のIRAの下っ端に案内された「ハゲのIRA」が「チビ」を伴ってやってくる。(この下っ端の役割など、IRAがどういうふうに組織されていたかがよくわかると思う。)

【↓↓↓ネタバレ↓↓↓】

「ハゲのIRA」がもたらしたのは、30個のカツラの注文(その内訳がすごい可笑しい。「ヨーロピアン・カサノヴァ」って、ヨーロピアンじゃないカサノヴァがいるのだろうか、とか)。警察が「ハゲはみんな逮捕」とかいうことをしているのに、当のIRAはカツラの注文を取りまとめる余裕があったわけだ。最高のジョークである。

コルムは「銃を売るわけではない」と弁解しつつ、IRA相手の取引に前向きだ。しかしガールフレンドのブローナはそれが理解できない。


【↑↑↑ネタバレ↑↑↑】

このシーンでのコルムとブローナの言い争いは、この社会にとっていかに「あの組織」が当たり前の存在か、「意味を成す」存在であるかを浮き彫りにする。ブローナの言ってることは「意味」を成していない。

言い争いをしているうちに頭に血が上ったコルムの口から、この映画で初めて、あの単語が聞こえる―― "the RA".

(;_;)

でもこの直後に「コメディ」の展開をして、ほろ苦い笑いを引き起こす。何だかんだいって理念が先走り、「えらそうな口」をたたくコルムは、何も持っていない。そもそも、事業をスタートさせることができたのも、ブローナがあれこれやってくれているからだ。あのときに風邪を引かなかったのも彼女のおかげだ。

苦くて痛くて、よくできた映画だ。

【↓↓↓ネタバレ↓↓↓】

そして、注文された品の納品について話すため「ハゲのIRA」と「チビ」と落ち合ったコルムは、「IRAという組織には売らない。個人客扱いする」と言う (not the army, but the people)。

ここで笑っていいのかどうか、判断がつかない場面がある。コルムの発言を聞いたIRAの二人が、"He's a Brit" と言うのだ。コルムはそれをはっきり否定する(当たり前だ)。「チビ」が "Do you believe in the United Ireland?" と問いかける。コルムは "I do believe in the United Ireland" と応じ、「『IRAの取引先』になってしまうのは困る。おれのビジネス・パートナーはプロテスタントだ」と述べる。「ハゲ」はそれを聞いて納得したかに見えたが……(ここから先は本当にネタバレになるので書きません)。


【↑↑↑ネタバレ↑↑↑】

「おれだって商売だ、生き残りたい」と言うコルムに、「ハゲのIRA」が言い残す言葉。「ネタバレ」なんてものではないので、見たい人だけURLクリックしてください。映画が作られてから15年、この言葉の《意味》は、日々のニュースの中に見出せるよ、you know.
http://f.hatena.ne.jp/nofrills/20150605094631



※おそろしいのでこの件についての解説のようなものは書きません。闇に食われそうな気がする。

ここから先、ラストまでの10分ほどは、笑える場面も多いが、「感動できる映画」のフォーマットだ。衝撃的な現実が突然、プロットに引き込まれてくる。カメラの作法もここでがらっと変わる。

そしてここでも、"北アイルランドで事態を動かすのは「女」" なのだ(例えば、1998年の和平合意で最後の最後に難しいところを交渉して決めたのは、英労働党のやり手の女性政治家、モー・モーラムだった。男にやらせていたら「連鎖」していたかもしれない)。この映画のインスピレーション源の一部であるPeace Peopleは、1970年代の女性たちの活動だった。この映画、実によくできている。

最後は、映画の設定どおりクリスマスの時期にふさわしい物語、「カトリック」のコルムによる、個別の「ブリッツ(Brits: 英国人)」への理解 (understanding) の物語だ。元々医療関係者(看護師)であるブローナにはそのハードルがなかったのかもしれないが、コルムは個別の顔を見て、内面の葛藤を経て理解をし、"make a gesture" する(ここ、日本語字幕は難しかったのだろうし、字幕の制限内では正しい判断だと思うが、あの言葉を使うのは、私には訳しすぎのようにも見える)。そしてそれに「商売でやってる」というオチをつける。

ジョージがいつか、個別の「IRA」への理解をする日は来るのだろうか。

あるいは個別の「IRA」メンバーが、「われわれ」ではなく個別として扱われることを「政治学の論文」扱いしなくなる日も。

昨年(2014年)のことだが、Twitter上で北アイルランドのベテランの論客2人が昔の写真の見せあいっこをしていた。「お互い、昔は頭に毛があったな……」、「そうだな……」という会話だ。一方は西ベルファストでリパブリカンの機関紙やシン・フェインの広報で言葉を書く仕事をしていた人、もう一方は東ベルファストで「プロテスタント」の側の政党の広報をつとめ、新聞に書くなどしてきた人だ。ちなみに現在のお2人は、ツルさんとピカさんだ。

この映画、作られるのが10年ほど早かったのかもしれない。

最後まで見終わって、いろいろ確認しようと最初から見直したときに、この何ということはない(かもしれない)ミューラルと、それに当てられている日本語字幕に感じ入ってしまった。"Discover Northern Ireland". 「北アイルランドの魅力を発見しよう」。ちなみに、描かれているのはジャイアンツ・コーズウェイだ。



ちなみに、冒頭の美しい風景はすべて北アイルランドの海岸線のものだ。




ブローナを演じたアンナ・フリーエルがすばらしく可愛い。コルム役のバリー・マケヴォイも美形(イライジャ・ウッドやピート・ドハーティのような「可愛い」系の美男)で、「調子のよい男」がしっくり来る。でも、見終わって一番印象に残っているのは、ジョージ役のブライアン・F・オバーンというアイルランドの俳優の「静かな感情」のうねりだ。私が個人的に、「プロテスタント」側の言葉に意識的に接するようにしてきたからだろうか。(私の場合、ほっとくと「カトリック」側の言葉にしか接さないので。)

ほか、「ブラック氏」、「ハゲのIRA」、「刑事」など、脇役もスルメのような役者さんがそろっている。「コルムのお母ちゃん」、「近所のおばちゃん」、「牛乳配達」のような端役も、存在感は強烈である。ちょこっと出てくる犬たちもすばらしい演技を見せてくれる。

この多彩なキャストの中で、製作側でイチオシで、アメリカのビデオ/DVDのパッケージでもでかでかと起用されているビリー・コノリーは、端役だ。アメリカではこういうキャラがあの調子で(できれば裸で)大声で叫んで走り回っているのが「コメディ」として受けるので、そういう扱いをされていたようだが、全然違う。この映画は「英国やアイルランドの低予算の映画」の系統の作品だ。

全編、ベルファスト弁で、ニュースでよく出てくる「街頭インタビュー」ほどではないが、字幕がないとつらいと思う。聖書への言及も多い(私にはわからないようなニュアンスがあるのかもしれない)。

予告編(私が見た本編には入っていないシーンがある。最終的にカットされたか、今見られるのはカットされたバージョンなのか……):


主演で脚本を書いたバリー・マケヴォイ(ベルファスト出身)の、2001年当時のインタビュー。なぜこの映画が大コケしたかが語られている。ウィキペディアにも書かれているが、この映画、大コケしただけでなくいろいろとケチがついてしまった。もったいないことである。
http://www.theguardian.com/film/2001/mar/23/culture.features

監督のバリー・レヴィンソン(『グッドモーニング・ヴェトナム』、『レインマン』など)は脚本にほれ込んで自ら監督に名乗り出たのだが、プロダクションがドリームワークスであったゆえ、映画は何とも不運なことになった。「ドリームワークスの映画」を見に来るような客層には全然アピールしない映画なのに、会社はそういう客層を当て込んでいた。マケヴォイがインタビューで言及している『フル・モンティ』のような「ほろ苦い」と形容されるようなコメディを、アメリカのメインストリームの派手なコメディとして売ろうとしてコケてしまったわけだ。実際、バリー・マケヴォイという俳優についてIMDBを見てみると、名前のついているような役をほとんどやっていない。もったいないことだ。

2001年、映画公開当時のレビュー(ガーディアン、ピーター・ブラッドショー):
http://www.theguardian.com/film/2001/mar/23/culture.reviews3
当時はこういうふうに見えたのだろう。私自身、あのころならそういう抵抗を感じたはずだ。だが15年ほど経過してみると、この映画の結末は「英国の帝国主義の正当化」と言えるようなものではない。驚くほど現実に起きてきたことそのままの、「和解」の物語だ。この映画の結末のあとには、ジョージ(の過去)とIRAの物語が続くはずなのだ(実際に、ベルファストやデリーでそのように展開した)。さらにコルムとブラック氏の物語もあるだろう。

「和解」の物語とは、それまでの物語の解体と再構築(デコンストラクション)にほかならない。IRAのメンバーを人間として描く(「最近、家内が冷たいんだ」)ことが「テロリストの賛美」であるという物語が解体されねばならないのと同じように、英国の「良識派」の中にある「英国の帝国主義の正当化」というわかりやすい物語もまた解体されねばならないのだ。そういう物語が《意味》を成していた世界で育まれてきた思考回路にとっては、それは苦痛を伴うことかもしれない。だが、外部の者たちが「テロの賛美」だの「英国の帝国主義の正当化」だのという物語をeverlastingなものとしておきたいという欲望の前に、現地の人々を無視してはならない。

物語の解体という点についていえば、これは現在、「イスラム」をめぐる「西洋の良識派」の中でリアルタイムで進行中の過程とも重なる(「西洋中心主義に対する有効な選択肢のひとつ」としての「イスラム主義 Islamism」という、「外部への憧憬」のようなものがあるのは、日本語圏の論者がよく口にする「日本ならではの状況」ではない。西洋の「良識派」の間にも、そこそこ浸透している)。その過程に、(ダニエル・パイプスやパメラ・ゲラーらのやっているような)破壊的なプロパガンダを組み込んでしまってはならない。



この映画が記録している「ベルファスト」の光景から。もちろん、こういうもののない「普通の町並み」もあちこちに出てくるが、このベルファストを見るためだけに300円払ってレンタルしても損はしない。

どれほど「言葉」と「意味」のあふれる街であったことか。

※以下、字幕やストーリー上「ネタバレ」になりそうな部分は隠す処理をほどこしてある。

コルムが暮らしている「カトリック」の地域。




※これは画面の切り替わりの瞬間で、2つの映像が重なっている。
コルムの家の脇にあるミューラルと、ベルファストの町並み。



※ベルファストの「カトリック・ゲットー」と呼ばれた町並みを背に、
高台を散歩しながら話をするコルムとブローナ。








ドタバタの舞台となる「プロテスタント」の地域。主に東ベルファストのウォーターフロントだ。






※このスローガン、写真で出てくるのは非常に珍しいと思う。
「カトリック」側の "Brit out" のスローガンはよく見るけれども。










※ストーリー上の「ネタバレ」回避のため、一部をモザイク処理。


※同上。この地域は「プロテスタントのゲットー」。
住宅街のど真ん中の道路の交差点の中洲が「コモン(共有地)」として使われているのが
背景に出てくるシーンもある。


セリフはないし、物語にはまったく絡んでこないが、コルムとブローナのやってることを遠巻きに見ているブローナの家族。キラキラしてるのはクリスマスの飾りつけで、これはコルムの家にも、精神病院の理容室にも出てくる。



お父さんが読んでいるのはThe Irish News(実在する新聞。今もある)で、一面トップは「メイズ刑務所についての調査」のニュースだ。街中のミューラルには、1981年ハンスト後のものがあり、トーキング・ヘッズの音楽とともに、「1980年代のいつか」という背景を描き出している。(うちらの日常が「シブガキ隊」だとか「たけのこ族」だとか「聖子ちゃんカット」だとかだった時代のことですよ。)





物語には絡んでこないけれど、「背景」を与えていた、「意味」のある存在。映画全編を通して、よく歩き回っていた。



しかし、最もStop Making Sense度が高い(ナンセンスな)ものは、治安当局の出しているこの看板だ。



同じ論法は今も使われている。例えば2014年ガザ攻撃のときのイスラエル軍の言い分(プロパガンダ)とか。ただしイスラエル軍は「渋滞や遅れ」についてではなく「子供が砲撃や爆撃で殺されていること」についてそう言ったのだが。

※この記事は

2015年06月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼