kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年06月02日

チャールズ・ケネディが死んでしまった。

英国のLiberal Democrats(自由民主党: LD)という政党が、その存在を多くの人に印象付けたのは、2003年イラク戦争直前の反戦運動の中でのことだった。労働党のトニー・ブレア政権が無理やりな理屈をつけてでも実行し、保守党が支持したあのとんでもない「戦争」に反対したのが(労働党・保守党内の「造反」議員などと)LDだった。Stop the War Coalitionの反戦集会で、LD党首のチャールズ・ケネディが行なったスピーチは、現在とは比べ物にならないくらい貧弱な、それでもその前の時代に比べたら革命的に進んでいたネット環境で、日本にも伝わってきた。Real Playerか何かで見たのだったか(まだYouTubeは存在していなかったし、デジカメも普及途上だったころのことだ)、「戦争」正当化陣営の、あれこれつつきまわしてこねくり回したような主張と異なり、明解な主張だった。

そのチャールズ・ケネディがあんなふうに「失墜」し、あんなふうに議席を失い、そしてこんなふうに世を去るとは。

【訃報】チャールズ・ケネディ元LibDems(英国の自由民主党)党首
http://matome.naver.jp/odai/2143323144225794901


俗な言い方をすれば「人間力が高い」人だったということが、非常に多くの口から語られている。しかし、こういうのを読みながらもなお、信じられずにいる。

それにしても、ジョン・プレスコットの発言、すごいね。解釈すれば「歴史の正しい側に立っていたのはケネディだった」=「当時の労働党は間違っていた」ということになる。

※この記事は

2015年06月02日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼