「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年05月28日

BBCが「遺跡」の次は「鳥」について警鐘を鳴らし、人が殺され、街を追われていることはスルーする一方で、ISISはプロパガンダ上の勝利をおさめる

ニュースが多すぎて何が何やら (@_@) の状態だが、シリアのパルミラの遺跡に「イスラム国」を自称する勢力(ネットスラングで「イスイス団」、本稿では「ISIS」と表記)が接近していると、「ユーラビア」脅威論界隈からメインストリームのメディアのトップページまでがそろって大騒ぎをしていた件(一方で、大勢が殺されているという報告にはほぼ無関心だったが)で進展があった。パルミラの一帯がついにISISのもとに陥落したあとの数日間での進展だ。

BBCには記事が見当たらないが:
http://www.bbc.com/news/world/middle_east



これはISISにとってはプロパガンダ上の勝利だ(というかどうやっても彼らのプロパガンダでは彼らが勝つのだが)。騒ぎが大きければ大きいほど、彼らは「何もしない」ことによって、「そんなに野蛮なことはしない」という印象付けができるからだ。それでもなお、遺跡が破壊されないという方向性が示されたことは、よかったとは思う。

しかし、それだけで安心してしまう前に、知るべきことがあるだろう。

ISISは遺跡を遺跡としてではなく、本来の建築用途で使っているようだ。




一方で、パルミラの街の人々は脱出を余儀なくされている。これまでだって激しい戦闘の中を何とかしのいできたはずだ。しかし、メディアが注目するのは、長く、パルミラの遺跡とともに暮らしてきた人々の苦境ではない。彼らを街から追い出した武装勢力が何を言うかだ。




さらに、これは本当にひどいと思った。




下記の「まとめ」をアップデートしてある。

パルミラの遺跡にISISが迫っている。この遺跡は以前から内戦で危機にさらされている。
http://matome.naver.jp/odai/2143170649003638601


さらにこの数時間で、ISISが制圧したパルミラ刑務所(シリアの独裁政権でも最もひどい刑務所に数えられる場所のひとつだそうだ)の中の様子の写真もたくさん公開している。私はこの集団のばらまく写真はRTやリンクはしないことにしているので紹介しないが、単なる建物の写真で流血などはないので、気になる人は検索を。狭く、窓がなく、ひどい環境だと思うが(ここに何人入れられていたんだろう、とか)、リビアのカダフィ政権の監獄の写真なども見ているので、もう「慣れて」しまっている気がする。

こうして、どんどん何も気にしなくなっていく。

※この記事は

2015年05月28日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 11:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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