「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年05月15日

フランス目線のトニー・ブレア

AFP通信さんはAgence France-Presse、つまり「フランス通信社」さんである。そのAFP通信さんの「ブレア退陣」報道で、「フランスと英国」という切り口で「ブレアの時代」の数年分をまとめた動画があるので貼っておく。動画は2分半もない。

[コード消去・代替画面挿入/2016年5月]


年代順というよりインパクト順というか、最初はサルコジ(内相時代)とブレアのラブラブっぷり、それからシラク、というように編集されている。「いつどこでどの機会に」といったことは日本語の字幕が入っているが、音声は英語(解説なし、現場の音声のみ)。UKが議長国のときのEUサミットの映像はあまり意味がわからない(記者会見で着席するブレアとストロー)。

1:10くらいからはグレンイーグルスでのG8サミットで、ロンドンの7月7日同時爆破攻撃を受けてのステートメント。ブレアの右の背後霊がシラク、左の背後霊がブッシュで、ブッシュの背後霊がコフィ・アナン(だと思うけど違ってたらコメントお願いします)。で、そのあとのThe purpose of political leadership... というスピーチは、EUの何の集まりなのか字幕がないのでわからない。最後はなぜか2005年総選挙後、ダウニング・ストリート10番地前でのブレアの家族の集合風景を経て、同じく10番地前で2004年にシラク大統領夫妻を迎えるブレア夫妻。あーそうか、ブレアの娘がルイ・ヴィトンの会長だっけ、とにかくフランスの富豪に招かれてソルボンヌに通ってるんだっけね。

ブレアの演説が中途半端なところでぶちぶちと切られているのが Ooh la la, c'est tres severe! と涙を誘う(<左のフランス語は適当です。間違ってたらコメントください)。BBCの「ブレアの時代を2分で」なら、もうちょっと「ブレアの見せ場まとめ」っぽく華やかになっていることだろう(まだ見てない)。

AFPさんの映像はおもしろいけれど、サイトのプレイヤーに巻き戻しボタンがないので、pauseを押したがタイミングが一瞬遅かった!とか、字幕を見直したいという場合にちょっと不便。

AFPからもういっちょ:
http://www.afpbb.com/article/1584098
こちらはサルコジ(今後「おサルさん」という愛称で呼ぶことにしようと思っている)とシラク。なぜか階段をのぼるシーンがプレイバック・パート2になってる(報道陣の声に応じずサクサク歩いていく)。会談後、外に出てきて握手をして分かれるシラクとおサルさんは、ぱっと見、学校の先生と生徒のようにも。おサルさんが去ったあとでレバノンの故ハリリ首相の息子さん(レバノンの議員)がインタビューに答える(音声はフランス語に英語のオーバーダブ、日本語字幕つき)けど、おサルさんのインタビューはなし。

で、おサルさんとこのマダームは投票してなかったの?
http://www.afpbb.com/article/1592737

※この記事は

2007年05月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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