「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

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2015年04月15日

「圧力」と「プレッシャー」について、また私はなぜツイートを消したのかについて。

日本語というのは一種摩訶不思議な言語で、カタカナ語になると意味合い(ニュアンス)が変わるものがある(変わらないものもあるが)。どういうものがどう変わるかというのは、イマイチはっきりしないかもしれない。言葉というのは社会の中で人に実際に用いられるときにどういう意味・意味合いで用いられるかによるので、いろいろと定量化しづらい。でも「ごはん」と言うか「ライス」と言うか、という例はとてもわかりやすいだろう。英訳するとすればどっちもriceとしかできない。(なお、最近は「ライスとごはんを呼び分けられる日本語すげぇ、日本すげぇ」っていう論理展開するのが流行ってるけど、それ、小学生の反応なので……。英語だってflowerとblossomを言い分けますよ。日本語ではどっちも「花」ですよね)

これは、「日本語で言えばいいのに、わざわざフォーリン・ワードでセイする」という「ルー語」的なこととも少し違う。「ごはん」と言うか「ライス」と言うか、「花束」と言うか「ブーケ」と言うかは、日本語の中で相応の時間を過ごした人ならば、文脈によってよりしっくりくる方が判断できる。人々はどういうときに「わざわざ」カタカナ語を用いるか……というより、なぜ元からの日本語(多くが漢語由来の日本語だが)があるものについて、カタカナ語が日常的な語彙に取り入れられるのか、という点についてはアカデミックな研究・分析があるはずだ。

ということを思ったので、さっきこのような記事について、このように書いた。「書いた」というか、参照している記事のうち、自分で書きとめておきたい部分(80字強)をコピペした。何を書きとめておきたかったかというと、「圧力」と「プレッシャー」だ。



現在の日本語において、「プレッシャー」と「圧力」は、ニュアンスどころか《意味》が違っているように私は感じている。例えば重要な試合でスポーツ選手が「プレッシャーを感じる」のは自然だが、「圧力を感じる」場合は、相手に手心を加えるように強要されてでもいるのだろうか? と思ってしまう(どうしてもカタカナ語を使いたくなければ、「精神的重圧を感じる」などとあらわすだろう)。しかし、当然のことだが、「プレッシャー」と「圧力」の両者は重なり合う部分も大きい。この2つの言葉は、「ごはん」と「ライス」ほどには違わないと思う。

そういうのがひとつところにまとまっているのが、さっきのブクマである。つまり、記事見出しの「政治的圧力」と、記事本文(私が抜書きした80字強の部分)の「政治家が……とプレッシャーをかけた」。

私にはこれらはかなり乖離しているように感じられた。「いやぁ、それを『政治的圧力』と呼びますか……」という違和感だ。だがそれは私の受け取り方であり、そういう「ナラティヴ」が現に存在していることは否定しようがない。

元記事は、ある意味タブロイド的な「1のものを20くらいに盛る」文体で書かれているが、話題は「芸能人がテレビでこんなことをしゃべっていた」ということにすぎない。記事の書き手(ライター)が、ある程度それらしく読ませる/読むにたえる文にするために、事実をたがえない範囲で、「記述を(話を、というより)盛る」ことは、こういう場合は普通に行なわれる。よくあるのが動詞を大げさにするというパターン(「自分の車に乗ってきた」を「愛車をお披露目する」というように)。話がそれるが、これは英語圏でも普通に行なわれている(デイリー・メイルの記事のサイドバーを眺めてみればいい。芸能人は髪型、ドレス、脚、スタイル、子供、靴、などなど何でも "show off" していることになっている)。

私自身、元記事で報告されている番組は見ていないし、どういう番組なのかさえ知らないけれど、番組名から判断するに、芸能人が「政治的圧力」をかけられたことを「明かす」ような、シリアスなトーンの番組ではなかろう。(もしそういうトーンの番組だったらごめんなさい。でもシリアスな番組だったら、ここで歌丸さんに「圧力」をかけた「政治家」にも話を聞きに行っているはず。そうじゃないとジャーナリズムにならないので)

桂歌丸も、政治家からプレッシャーをかけられたことを『あのニュースで得する人損する人』(日本テレビ系/9日放送)にて明かした。


ここでは、記事の筆者は「政治家からプレッシャーをかけられた」と書いているのだが、その「プレッシャー」が「圧力」なのか、それとも英語でいうtease的なもの(日本語のカタカナ語の「プレッシャー」にはそういう《意味》もあると思う。拡大しているので)なのか、実際に番組で桂歌丸さんがどういう調子でその出来事を語ったのかを見ていない私にはわからない。そもそもご本人が「プレッシャーをかけられた」と認識していたのかどうかも、この記事の記述からはわからない。

《伝聞》すること(それも「ああいう文体」で《伝聞》すること)には、こういう危うさがついて回る。それについて、あとあと考える素材になりそうなので、記事をメモったのである。

ブクマついでにTwitterに流して、Twilogで検索できるようにしておけば(はてブの検索は、ブックマーク件数が膨大な私の場合はまったく使えない)、後日「圧力/プレッシャー云々っていう実例があったよな……」ということさえ覚えていれば、この記事を見つけ出すこともできる。

というわけで、ブクマしてついでにTwitterにフィードしたのだが、何かとんでもないことになっている。22RTですってよ。……いや、Twitterで見たら40RT超えてるし。



というわけで、最近、私が一言も言及しないようにしている変な「陰謀論」などが、私(の発言)に「関連」しているとアルゴリズムで判断され、自分の見ている画面にどかどかと表示されるようになったYou may also likeの導入以来、マジで恐怖感にとらわれているので、ツイート消しました。ブクマはそのままです(「撤回」はしていない)。

(TwitterのYou may also likeはたぶん、「私のTwをRTした人がほかに反応したもの」的なものを含むアルゴリズムで表示されていると思うのだが、もうちょっとほんと勘弁してくださいよ……私の書いたものを見た人が、ほかに何について興味を持っているかは、私とは関係ない。「NINのこのアルバムを買った人は、Radioheadのこのアルバムも買っています」程度のことならはいはいと流せるが、「消費」という行為ではなく「発言」について、ああいう「amazonのオススメ」的なものが割り込んでくるのは、耐え難い。この「アルゴリズム信仰」が心底気持ち悪いというか、生理的に受け付けないレベルに達している。そもそも、ああいうのは基本的にワード単位でしか物を見ないし、「皮肉」は読めないし、それどころか否定文と肯定文を正確に読み分けることもできるのかどうか。それに基づいて興味の有無や好悪を判断されるなんて、それって何て出来損ないのディストピア。その断片が視界に入っただけで息苦しくなる)

こんだけ書くのに何十分かかったんだか。>自分


※この記事は

2015年04月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 00:32 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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